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No,15

 アドラー帝国の深奥、皇帝夫妻の寝所に、重苦しいまでの静寂が満ちていた。

 窓の外では、雪解けを待つアイゼンの冷たい風が吹き荒れているが、室内はヴィオラが自ら調整した魔導暖房によって、常に二十三・五度という「胎児と妊婦に最適な温度」が保たれている。


「……おかしいですわ。先ほどから、腹部周期の収縮間隔に零・五パーセントの誤差が出始めています。それに、私の魔力波形がこれほど乱れるなんて、計算外の事態ですわ……」


 天蓋付きの柔らかなベッドの上、ヴィオラは上体を起こし、震える指先で真鍮の計算機を叩いていた。

 出産予定日まであと三日。

 大陸一の頭脳を持つ彼女は、自らの分娩に伴うあらゆるリスクを数値化し、生存確率九十九・九八パーセントという結果を導き出していた。それでも、残りの零・〇二パーセントという「不明な変数」が、彼女の冷静さをじわじわと削り取っている。


「ヴィオラ。……その、呪いの道具(計算機)をいい加減に置け」


 背後から、低く、押し殺したような声が響いた。

 カイル・ヴァン・アドラー。

 数多の戦場を血に染め、皇帝として大陸の半分を平定した男が、今、戦場でも見せたことのないほど青ざめた顔でヴィオラを見つめていた。


「カイル様……。ですが、数値を把握しておかないと、万が一の時に医師への指示が——」


「指示なら俺がやる。医師も、魔導師も、大陸中から最高の連中を揃えた。……お前は、ただ息をして、俺の手を握っていればいい」


 カイルはヴィオラの隣に座り、彼女の細い手を、自らの大きな掌で包み込んだ。

 かつて鉄の剣を握り、敵の命を奪ってきたその手は、今、愛する妻を壊さぬようにと、微かに、けれどはっきりと震えている。


「……カイル様、あなたが震えていてどうしますの。私は、大丈夫ですわ。私の計算機は、嘘をつきませんもの」


「嘘をつけ。……お前の指先は、氷のように冷たいじゃないか」


 カイルはヴィオラの手を自分の頬に当て、その熱を分け与えるように目を閉じた。


「……俺はな、ヴィオラ。敵国に包囲された時も、暗殺者に囲まれた時も、一度も死を恐れたことはなかった。だが、今……お前が苦しそうに眉を寄せるだけで、俺の心臓は止まりそうになる。帝国が滅びるよりも、お前の指先が少し冷えることの方が、俺にとっては耐えがたい恐怖なんだ」


 それは、皇帝としての威厳を捨てた、一人の男の剥き出しの告白だった。

 大陸最強と謳われる『鉄血皇帝』の、唯一にして最大の弱点。

 それが自分という一人の人間であることを、ヴィオラは改めて突きつけられた。


「……あなたの愛は、いつも私の計算尺を振り切ってしまいますわね」


 ヴィオラは小さく微笑み、ようやく計算機を枕元に置いた。

 カイルは彼女を抱き寄せ、その膨らんだお腹にそっと耳を当てた。ドクン、ドクンと、力強く脈打つ新しい命の鼓動。


「……聞こえるぞ。お前に似た、気の強そうな心音だ。……ヴィオラ。お前と、この子に何かあれば、俺はこの大陸ごと魔力で焼き尽くし、無に帰すつもりだ。だから、頼む。……俺を、一人にしないでくれ」


「……ええ。あなたの独占欲に、この世界を道連れにさせるわけにはいきませんわ。……カイル様、愛していますわよ」


 ヴィオラが彼の黒髪を優しく撫でた、その時。

 彼女の表情が、一瞬で強張った。


「……カイル様。……変数が、確定いたしましたわ」


「何だと?」


「……陣痛です。……私の計算によれば、これから数時間。……覚悟してくださいませ、陛下。……あなたの心臓、今夜だけは保たないかもしれませんわよ?」


 ヴィオラが脂汗を浮かべながらも不敵に笑うと、カイルは一瞬絶句した後、城全体を震わせるような声で叫んだ。


「医師を呼べ! 今すぐだ! 間に合わん奴は斬る!!」


 静寂が、歓喜と緊迫の渦へと書き換えられた。

 帝国に新しい風が吹く、嵐のような夜が始まった。


 アドラー帝国の空を、夜明けの光が白く染め上げていく。

 アイゼン城の周囲を埋め尽くした民たちは、夜通し捧げていた祈りを、突如として響き渡った赤子の産声に変えた。


「……お、おめでとうございます! 黒髪の、元気な皇子様です!」


 その声を聞いた瞬間、寝室の扉の外で魔力を暴走させ、城の壁を三つほど破壊しかけていた皇帝カイルは、膝からその場に崩れ落ちた。


「……ヴィオラ。ヴィオラは……無事なのか!?」


「はい! 閣下も、いえ、王妃様もご無事です!」


 カイルは弾かれたように室内へ駆け込み、汗に濡れた髪で横たわるヴィオラの元へ歩み寄った。

 その胸には、シーツに包まれた小さな、けれど力強い命が抱かれている。


「……計算、通りですわ。……カイル様。生存確率、百パーセント。……誤差なし、ですわ」


 ヴィオラは青白い顔で、それでも最高に不敵な、そして母の慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。カイルは彼女の隣に膝をつき、震える指先で赤子の頬に触れる。


「……ああ。……ああ、ヴィオラ。お前が生きていてくれて、本当に、良かった……」


 最強の皇帝の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。

 ヴィオラは力なく笑い、枕元に置いてあった「小さな魔導計算機」を、そっと赤子の手に添えた。


「……はい、陛下。……この子のはじめてのプレゼントですわ。……世界を愛し、数字で幸福を導き出せる……そんな賢い子になってほしいから」


 カイルは赤子を、そしてヴィオラを丸ごと包み込むように、大きな腕で抱きしめた。

 

 ——数年後。


 帝国の夏。王宮の広い庭園では、小さな影が走り回っていた。

 カイル譲りの黒髪と、ヴィオラ譲りの知性を宿した透き通った瞳を持つ幼い皇子は、手元の小さな計算機を叩き、庭に咲く花々の分布を熱心に記録している。


「母上! 計算によると、あそこの花壇に蝶が来る確率は、あと三分で最高値になります!」


「ええ。よくできましたわ。……カイル様、見ました? あの子の演算速度、私の幼少期を上回っておりますわよ」


 テラスでティーカップを傾けるヴィオラの腰には、当然のようにカイルの腕が回されている。

 かつての「鉄の女」は、今や帝国の母として、そしてカイルの最愛の妻として、かつてないほど美しく輝いていた。


「ああ。……将来が恐ろしいな。お前に似て、俺を正論で追い詰める奴がもう一人増えるというわけだ」


 カイルは苦笑しながら、ヴィオラの首筋に深く顔を埋め、独占欲を確かめるように彼女の香りを吸い込んだ。


「……ヴィオラ。あの日、お前が俺の前に現れてから、今日までの日々。……お前の計算機には、どんな結果が出ている?」


 ヴィオラはカイルを見上げ、彼の逞しい胸に頭を預けた。

 

 王国で捨てられたあの日。

 すべてを数字で割り切り、孤独を甘んじて受け入れようとしたあの日。

 

 けれど、目の前の男が、彼女の冷徹な数式をすべて「愛」という名の不確定な熱量で書き換えてしまったのだ。


「……カイル様。……残念ながら、私の計算機は故障してしまったようですわ」


「故障だと?」


「ええ。……あなたとあの子が与えてくれる幸福という変数が、あまりに無限すぎて……桁が足りませんの。……この愛だけは、一生かけても計算が終わることはありませんわ」


 ヴィオラが微笑み、カイルの首に腕を回す。

 カイルは満足げに目を細め、彼女の唇に、永遠を誓う深い口づけを落とした。

 

 エリュシオン大陸の歴史に刻まれる、知略の王妃と鉄血の皇帝の物語。

 その計算式の答えは、いつだって一つだ。


 ——二人は末長く、誰よりも幸せに暮らしました。


 計算機が刻むチチチという音は、二人の幸せな鼓動と共に、永遠の明日へと続いていく。


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