No,7
アドラー領とグランツ王国の国境、シュタルク峠。
かつて私が一人で越えたその場所に、今、エリオット殿下率いる王国騎士団が姿を現していた。
だが、その光景は「軍勢」と呼ぶにはあまりに無残なものだった。
「……計算通りですわ。兵員数、当初の六割。残りの四割は脱走、あるいは道中での脱落。魔導鎧の出力は最低値を下回っていますわね」
私は城壁の上で、計算機の歯車を回しながら冷徹に告げた。
隣に立つカイル様は、抜剣することなく腕を組み、鼻で笑った。
「あんなボロ布の集まりを相手にするのは、剣が汚れるな。ヴィオラ、お前の仕掛けを起動しろ」
「ええ。野蛮な衝突は非効率ですもの。……では、開始しますわ」
私が手元のスイッチを押すと、峠の四方に設置された巨大な魔導拡声器が、キィィィンと高い音を立てて起動した。
それは、私の声を増幅させるだけでなく、ある「事実」を可視化するための装置だ。
『王国騎士団の諸君。私はアドラー辺境伯領首席事務官、ヴィオラ・フォン・ベルシュタインです』
峠に響き渡る私の声に、王国軍がざわめく。先頭で馬に跨るエリオット殿下が、顔を真っ赤にして叫んでいるのが見えたが、私の声はそれをかき消した。
『諸君らは「大逆人の捕縛」と聞かされているようですが、現実を見てください。……今から諸君らの頭上に、現在のグランツ王国の財政状況を投影します』
空中に、巨大な魔導映像が浮かび上がる。
それは、真っ赤に染まった王国の負債グラフと、エリオット殿下がリリア様との贅沢のために使い込んだ公金の明細書だった。
『諸君らの給金が三ヶ月支払われていない理由、そしてこの遠征に十分な食糧と魔石が用意されなかった理由。……すべて、そこに記された数字が答えです。エリオット殿下は、自分たちが作った借金を、戦争という略奪で帳消しにしようとしているに過ぎません』
兵士たちの間に、動揺が伝染していく。彼らは互いの顔を見合わせ、持っていた槍や剣を下ろし始めた。
「な、何を言うかヴィオラ! それは偽造だ! 黙れ、黙れぇ!」
『偽造かどうかは、諸君らの腹の空き具合が一番よく知っているはずです。……諸君、武器を捨てなさい。アドラー領は、戦う意思のない者には、暖かいスープと、故郷へ帰るための安全な道を提供することを約束します』
その瞬間、最前列の騎士が力なく膝をついた。それを合図に、一人、また一人と武器を雪の上に投げ捨てていく。
「おい、貴様ら! 反逆か! 私を誰だと思っている!」
叫ぶエリオット殿下の周りには、もはや彼に従う者は誰もいなかった。
カイル様が私の腰を抱き寄せ、耳元で満足げに囁く。
「……数字の暴力か。剣を振るうよりずっと残酷で、最高に鮮やかな手際だな、ヴィオラ」
「あら、私はただ『事実』を整理しただけですわ。……さあカイル様。最後の一人、わがままな債務者のお相手をいたしましょうか」
私は、もはや軍ですらなくなった惨めな男を見下ろし、優雅に微笑んでみせた。
武器を捨てた兵士たちが道を開ける中、エリオット殿下だけが、泥を撥ね飛ばしながらこちらへ歩み寄ってきた。
かつての煌びやかな王太子の面影はない。頬はこけ、目は血走り、その姿は王族というよりは追い詰められた獣のようだった。
「……ヴィオラ。ヴィオラ! ああ、やっと会えた。君の顔を見ればわかる、私を助けに来てくれたんだろう?」
彼は城壁の下で、狂気すら感じる笑みを浮かべて両手を広げた。
私はカイル様と共に、ゆっくりと城門の前まで降りていった。
「お久しぶりですわ、エリオット殿下。……ですが、勘違いをなさらないでください。私はあなたを助けるためにここにいるのではありません。自らの領地の安全を確保するために立っているのです」
「何を言うんだ! リリアは駄目だった……あんな女、何の役にも立たない。やはり私の隣にふさわしいのは君だ。……許してやろう。君が勝手にここへ逃げたことも、不遜な態度をとったこともだ。さあ、私と一緒に王宮へ戻り、あの忌々しい帳簿と借金を片付けてくれ!」
彼の言葉に、カイル様の周囲の空気がピキリと凍りついた。
カイル様が前に出ようとするのを、私は手で制した。
「殿下。……いいえ、エリオット様。あなたの『計算』は、一から百まで間違っていますわ」
私は手元の計算機を一度だけカチリと回し、氷のような微笑を向けた。
「まず、私はあなたの所有物ではありません。次に、あなたが現在抱えている五百五十万レアルの負債。……滞納利息と遅延損害金を加味した現在の確定債務額は、七百八十二万四千レアルに達しています。これはあなたの個人資産をすべて叩き売っても、九代先まで返済不可能な数値です」
「な、七百……!? そんな、馬鹿な!」
「馬鹿なのは、私の不在を『愛』で埋められると考えたあなたの頭脳ですわ。……見てください。私の隣にいるのは、アドラー辺境伯カイル様。私を『道具』ではなく、一人の人間として、そして守るべき相棒として扱ってくださる方です」
私がそう告げると、カイル様が背後から私の肩を抱き寄せ、エリオットを射抜くような鋭い視線で睨みつけた。
「聞こえたか。ヴィオラはお前の不始末を拭うための雑巾ではない。……彼女の価値をレアルで測ろうとする無礼、その万死に値する罪を、どう贖うつもりだ?」
「ひっ……! あ、アドラー辺境伯……!」
エリオットはカイル様の凄まじい魔圧に圧され、無様に尻餅をついた。
泥にまみれ、震えるその姿を見下ろしながら、私は心からの憐れみを込めて微笑んだ。
「さようなら、エリオット様。……いえ、さようなら、救いようのない債務者さん。あなたの言う『真実の愛』とやらに、利息の支払いまで肩代わりしてもらえると良いですわね」
その瞬間、背後から一人の女性が、叫び声を上げながら駆け寄ってきた。
物語のもう一人の「主役」、リリア・アンバーの登場だった。




