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No,6

 アイゼン城の執務室。私は最新型の魔導通信機を介して、グランツ王国から漏れ出る「数字」の断片を拾い集めていた。

 

「……あら。エリオット殿下、ついにここまでやってしまいましたのね」


 私が手元の計算機で算出した結果を書き込むと、そこには見るも無惨な統計グラフが描かれた。


「どうした、ヴィオラ。王国の様子は?」

 背後からカイル様が近づき、私の肩に手を置く。最近、彼は私の近くにいるのが当然のようになっている。


「ええ。グランツ王国の『愛の結晶』が、ついに経済を食いつぶし始めましたわ。昨月の物価上昇率は前月比で四百パーセント。殿下が紙幣を乱発したせいで、通貨としての『レアル』の価値が紙屑同然になっています」


「四百パーセントだと? ……馬鹿げているな。民は飢えているだろう」


「その通りですわ。おまけにリリア様が、王宮の維持費欲しさに『国立魔石貯蔵庫』の鍵を勝手に売り払ったという噂もあります。……カイル様。この数字を見てください。王国の魔力保有残高は、あと一週間で『ゼロ』になりますわ」


 私が指し示した予測曲線は、絶壁のように急降下していた。

 国を動かす魔力が尽きる。それは、街灯が消え、上下水道が止まり、あらゆる防衛結界が消失することを意味する。


「……追い詰められたネズミは何をするか、分かるか?」


「ええ。理性を捨てて、隣のパンを奪おうとしますわ。……つまり、王国の軍が、このアドラー領の『魔石資源』を狙って侵攻してくる。確率は九十八・五パーセントです」


 カイル様は私の言葉に、不敵な笑みを浮かべた。

 彼は私のデスクにある、王国から届いたままの古い『ヴィオラ引き渡し要求』の書類を手に取り、それをゆっくりと、今度は物理的に引き裂いた。


「面白い。奴らは『真実の愛』を守るために、我が領土に攻め入るというわけだ。……ヴィオラ。お前の計算では、王国の軍がこちらへ到達するまでに、どれだけの損失を出す?」


「今の王国の軍備では、国境の峠を越えるだけで兵の三割が脱走し、二割が魔力切れで動けなくなりますわ。……残った五割を、カイル様が『お掃除』するのに、何秒かかります?」


 私が問いかけると、カイル様は私の腰をグイと引き寄せ、その鋭い視線を王国の方向へと向けた。


「秒は必要ない。俺の魔力とお前の術式があれば、奴らが国境に足を踏み入れた瞬間に絶望を教えてやれる。……楽しみだな、ヴィオラ」


「ふふ、ええ。……彼らが信じた『真実の愛』とやらが、我々の冷徹な『数字』の前にどれほど無力か。……たっぷりとお見せしましょう」


 私はカイル様の腕の中で、かつて自分を捨てた国が、自滅へと突き進む数字の舞を静かに眺めていた。

 復讐ではなく、これは単なる『清算』。

 計算機が弾き出した解は、常に一つ。……愚か者には、相応の報いを。


 アイゼン城の大広間は、一夜限りの幻想に包まれていた。

 領地改修の成功を祝う仮面舞踏会。煌びやかな魔導灯の光が、仮面を纏った貴族や騎士たちの影を石床に落としている。


「……カイル様。このドレス、少し重すぎませんか? 計算によれば、布地の総重量が普段の三・五倍はありますわ」


 私が身に纏っているのは、カイル様から贈られた深い真夜中色のドレスだ。

 一見して豪華なだけではない。裾や袖口には、カイル様自身の魔力が込められた『物理・魔導双方の絶対防御術式』が、刺繍のふりをして幾重にも刻み込まれている。


「黙って着ていろ。……お前を狙う不心得者が、一人も近寄れないようにするための『装甲』だ」


 黒い仮面をつけたカイル様が、私の腰を強引に引き寄せた。

 舞踏会の音楽が流れる中、私たちはフロアの中央へと踏み出す。


 エリオット殿下の隣にいた頃のダンスは、王家の権威を示すための「作業」でしかなかった。だが、カイル様のリードは驚くほど力強く、それでいて私の呼吸をすべて読み取っているかのように滑らかだ。


「ヴィオラ。気づいているか? 周りの男どもがお前に見惚れている。……仮面で顔を隠していても、お前の凛とした立ち振る舞いまでは隠せていない」


「……お言葉ですが、視線の八割はあなたの威圧感に向けられたものですわ」


「そうか。なら、残り二割の視線は俺がすべて叩き潰してやる」


 カイル様はステップに合わせて私を抱き上げ、再び着地させた瞬間に、誰にも聞こえない低い声で囁いた。


「ヴィオラ。俺は騎士として、一生お前を守ると誓った。……だが、それだけでは足りん」


 彼の手がドレスの背をなぞり、私の耳元に唇を寄せる。

 周囲からは、私たちがただ仲睦まじく踊っているようにしか見えないだろう。けれど、私に伝わる彼の魔力は、今にも溢れ出しそうなほど熱く、猛々しい。


「お前を、アドラー領の事務官ではなく、俺の妻として、この地の女主人マドンナとして正式に迎え入れたい。……お前の精密な計算機に、俺との『生涯』という変数を組み込むつもりはないか?」


「カイル、様……っ」


 驚きで足が止まりそうになるのを、彼の強い腕が支えた。

 これは契約ではない。効率でもない。

 彼の一世一代の、計算を放棄した感情の告白だ。


「……私の答えは、とっくに出ていますわ。……あなたという巨大な変数が現れたあの日から、私の未来の解は、一つしか残されていませんもの」


 私は仮面の下で、初めて一人の女性として、カイル様にだけ分かる笑みを向けた。


「……そうか。ならばもう、誰にもお前を渡さん」


 カイル様は公衆の面前であることを厭わず、私の額に深い誓いの口づけを落とした。

 会場にどよめきが広がる。

 それは、辺境の最強騎士が、一人の令嬢を「一生離さない」と宣言した瞬間だった。


 アドラー領が歓喜に沸く一方で、グランツ王国の王宮には死臭のような絶望が漂っていた。

 かつて華やかだった大広間は、魔導灯のエネルギーが尽き、薄暗い蝋燭の火がゆらゆらと不気味な影を落としている。


「……ない。どこを探しても、レアルがないのよ!」


 リリア・アンバーは、狂ったように私室の引き出しをひっくり返していた。

 かつてヴィオラが「愛があれば不要」と削り落とした予算は、今や王宮全体の維持を不可能にしていた。リリアは、エリオットが隠し持っていた「緊急予備資産」の箱を勝手にこじ開けたが、そこに入っていたのは金貨ではなく、ヴィオラが残した膨大な『未払い債務の請求書』の束だった。


「どうして……殿下は王太子なのに、どうして私を贅沢させてくれないの!? こんなの、真実の愛じゃないわ!」


 そこへ、顔色を土に変えたエリオットが乱入してきた。


「リリア! 貴様、私の机にあった国境守備隊の魔石受領証をどこへやった! あれがないと軍が動かせん!」


「そんなの知らないわよ! それよりお腹が空いたわ、お肉を食べさせて!」


「黙れ! この役立たずが!」


 響き渡る怒号。かつて甘い言葉を囁き合った二人の間には、もはや憎しみと責任の擦り付け合いしか残っていない。

 エリオットは、壁に掛けられたヴィオラの肖像画(すでに彼が怒りに任せて切り刻んだもの)を凝視した。


「……そうだ。ヴィオラだ。あいつが戻ってくれば、この帳簿の数字も、魔石の不足も、すべて解決するんだ。あいつは私の婚約者だったんだ。私の言うことを聞く義務がある……!」


 それは、合理性を欠いた敗北者の妄想だった。

 エリオットは震える手で、側に控えていた騎士団長を呼びつけた。


「軍を出せ。国境を越え、アドラー領からヴィオラを奪還する。……あれは我が国の、私の所有物だ。力ずくでも連れ戻せ!」


「し、しかし殿下! 今の我が軍に、鉄血伯とやり合うだけの魔力は残っておりません!」


「うるさい! 『真実の愛』で結ばれた我々に、不可能はないはずだ!」


 エリオットの瞳には、狂気にも似た執着が宿っていた。

 彼はリリアを突き飛ばすと、錆びついた剣を手に取り、闇の中へと飛び出していった。


 ——同時刻。

 アイゼン城のテラス。ヴィオラは、手元の計算機が叩き出した「王国の軍事動向」の数値を見て、静かに唇を綻ばせた。


「……出ましたわ。エリオット殿下、最短ルートでこちらへ向かっています。到着まであと、四十八時間」


 隣に立つカイルが、その大きな手でヴィオラの肩を抱き寄せた。


「そうか。ようやく、あのゴミを掃除する手間が省けるな」


「ええ。カイル様、私、最高に効率的な『歓迎式典』の準備を整えておきましたわ。……彼らが信じた愛と、私たちの築いた現実。どちらが強いか、はっきりさせて差し上げましょう」


 冷たい月光の下、ヴィオラの左手の指輪が、不吉なほど美しく輝いた。


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