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No,5

 アイゼン城の朝は早い。

 だが、私の朝は、一般的な事務官のそれとは少し異なる工程から始まる。


「……ん、ヴィオラ。あと少しだ。動くな」

「……カイル様。もう、十五分は経過していますわ。魔力計の数値はすでに最大値カンストを指しております」


 カイル様の私室、その大きなベッドの端で、私は彼の腕の中にすっぽりと収まっていた。

 背中から伝わるカイル様の体温と、首筋に触れる彼の指先。

 『永久循環式魔導炉』の管理には、高密度の魔力を保持した者による定期的な同調が必要だ。そして、その制御を担う私の体内には、常にカイル様の魔力を満たしておくのが「最も合理的」であるという結論に、私たちは至っていた。


「……数値などどうでもいい。お前の顔色が、昨日より少しだけ悪い。補填が必要だ」

「それは、昨夜少しだけ計算に熱中しすぎたせいで……あ」


 耳元で低く囁かれ、首筋に熱い吐息が触れる。

 心臓が不自然なリズムを刻む。魔力供給は、文字通り生命の源を共有する行為だ。彼の魔力が私の血管を巡るたび、思考が甘く、とろけてしまいそうになる。


「カイル様、近すぎますわ。……それに、この体勢は事務官としては不適切かと」

「お前を離すのが惜しいと言ったら、どう計算する?」

「……確率、零パーセントですわ。そんな冗談、カイル様らしくありませんもの」


 私が強がって計算機を取り出そうとすると、カイル様は私の手首を優しく、けれど逃げられない強さで掴んだ。


「ヴィオラ。お前は数字には強いが、自分の価値には驚くほど疎いな。……お前が俺の魔力を受け入れている間だけ、俺は自分がこの地の主であることを忘れ、一人の男として満たされるのだ」


 カイル様の氷のような瞳が、朝の光を受けて熱く揺れている。

 私は、何も言い返せなかった。

 エリオット殿下の隣にいた頃、私は「便利な道具」であることを求められていた。魔力を捧げることはあっても、このように注がれ、慈しまれることなど、一度もなかったのだ。


「……あなたの魔力は、温かいですわね」

「ああ。だから、もう一度だけ言っておく。……お前は、もう俺の所有物だ。王国のゴミ共が何を言ってこようと、指一本触れさせん」


 カイル様は私の額にそっと唇を寄せると、名残惜しそうに腕を解いた。

 自由になったはずの身体が、なぜか少しだけ寒く感じる。


「さあ、朝食に行こう。今日は新しい菓子職人が、お前の好物だと推測したタルトを作らせている」

「……私の好物まで計算済みですの?」

「ああ。俺の、唯一の趣味だからな」


 カイル様は不器用な笑みを浮かべ、私の手を取って歩き出した。

 エリュシオン大陸で最も冷徹と言われる『鉄血伯』の、私にだけ向けられる独占欲。

 それを「非効率だ」と切り捨てられない自分に、私は戸惑いながらも、その温かな手に力を込めた。


 アイゼン城の応接室には、この無骨な要塞都市には不釣り合いな、甘ったるい香水の匂いが立ち込めていた。


「お初にお目にかかります、アドラー辺境伯閣下。私はグランツ王国御用達、黄金商会の会頭を務めております、ゴルドと申します」


 金の刺繍をこれでもかと施した法衣を纏い、太った指にいくつもの指輪を嵌めた男が、揉み手でカイル様に歩み寄る。その視線はカイル様を通り越し、傍らに控える私を、ねっとりとした値踏みするような目で見つめていた。


「用件は何だ。商売の話なら、首席事務官のヴィオラを通せと言ったはずだが」


 カイル様の声は、地を這うように低い。

 ゴルドはわざとらしく驚いてみせた。


「おお、これは失礼いたしました。……ですが閣下。そちらのヴィオラ様は、我が国では『国家機密を持ち出した亡命者』として指名手配されております。そのような方を首席事務官に据えるとは、穏やかではありませんな」


「……指名手配? あれはエリオット殿下が勝手に書き換えた事実ですわ。私は正規の書類に基づき、すべてを譲渡して出国いたしました」


 私が冷静に指摘すると、ゴルドは下卑た笑みを浮かべた。


「おやおや、恐ろしい。ですが、ヴィオラ様。貴女が発明したという『新型魔導炉』、あれは元を正せば王国の教育で得た知識によるものでしょう? ならば、その利益は王国に還元されるべきだ。……閣下、提案がございます」


 ゴルドはカイル様に向き直り、自信満々に言った。


「ヴィオラ様と魔導炉の権利を、我が商会に譲渡していただきたい。対価として、五千万レアルを、今すぐこの場でお支払いしましょう。辺境の軍備を新調しても余る額ですぞ」


 五千万レアル。

 それは一個人を「買う」値段としては破格であり、一国の予算にも匹敵する。

 私は思わず、隣のカイル様の顔を伺った。カイル様は実利を重んじる方だ。この「計算」は、辺境伯領にとって決して悪くない話のはず——。


「……五千万レアルだと?」


 カイル様が、静かに椅子から立ち上がった。

 室内の温度が、一気に氷点下まで下がったかのような錯覚に陥る。

 カイル様の周囲で、黒い魔力がバチバチと火花を散らした。


「貴様。今、俺の心臓に『値段』をつけたな?」


「へ、へあっ……!?」


「ヴィオラはこの地を潤す知恵であり、俺が唯一信じる相棒だ。それを、たかが金という紙切れに換えろと言うのか。……耳を貸せ、商人の豚。貴様が積んだ五千万、そのすべてを魔石の粉にして、自分の国まで這って持ち帰れ」


 カイル様が放った威圧感だけで、応接室の窓ガラスにピキリと亀裂が入る。

 ゴルドは腰を抜かし、悲鳴を上げながら部屋から逃げ出していった。


 嵐が去った後のような静寂の中、私は呆然としていた。

 カイル様は荒い息を吐きながら、私の腕を強引に引き寄せる。


「……ヴィオラ。あんな豚の言葉に、一瞬でも心が揺れたか?」


「いえ……。ただ、客観的な数値として、五千万レアルは破格だと思っただけで……」


「数値などどうでもいい! 俺にとってお前は、この世界すべての金貨を積み上げたとしても、釣り合いが取れない唯一の存在だ」


 カイル様の腕に、力がこもる。

 彼は私の肩に顔を埋め、まるで自分の宝物が奪われないか確認するように、深く私の香りを吸い込んだ。


「……俺のそばにいろ。お前を安っぽく語る奴は、この俺がすべて、数字も残さず消してやる」


「……カイル様」


 独占欲。

 それは最も「非効率」な感情だと思っていたけれど。

 彼に強く抱きしめられるたび、私の胸の計算機は、見たこともないような「幸福」の解を導き出してしまうのだった。


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