No,4
ヴィオラが首席事務官に就任して一ヶ月。
アイゼン領の財政が劇的に改善され始めた頃、王国からの使者が一通の親書を携えて現れた。
執務室のソファに座るカイル様の顔は、読み進めるごとに険しくなり、ついには周囲の大気が震えるほどの魔圧を放ち始めた。
「……ヴィオラ。これを読め」
カイル様から投げ渡された羊皮紙には、見覚えのある軽薄な筆致でこう記されていた。
『親愛なるアドラー辺境伯へ。我が国から逃亡した犯罪者、ヴィオラ・フォン・ベルシュタインを直ちに拘束し、我が方へ引き渡されたし。彼女は我が国の機密文書を盗み出し、不当な負債を王家に押し付けた大逆人である。迅速な対応を期待する。——グランツ王国第一王子、エリオット』
私は読み終え、ふっと鼻で笑った。
「機密文書、ですか。私が整理していた公務の記録のことでしょうね。それに負債についても、あれは殿下がご自身で署名された合意書に基づいたものですわ」
「犯罪者、だと? こいつは、俺の領地の腐敗を一晩で暴き、地脈の混乱を数式で鎮めた女だ。それを引き渡せとは、どの口が言っている」
カイル様が立ち上がる。その瞳は、獲物を屠る直前の肉食獣のように鋭い。
「使者! これを持って帰れ!」
カイル様は私の手から親書を奪い取ると、それを目の前の使者の前で、黒い炎を纏った魔力で焼き捨てた。
灰がハラハラと床に散る。
「伯爵閣下!? これは王太子殿下からの直接の……!」
「黙れ。エリオットに伝えろ。『ヴィオラはもはや、貴様らがその汚い指で触れていい女ではない。彼女は我が辺境領の、そして俺の——”心臓”だ』とな」
心臓。
その言葉の重みに、私の胸がドクンと跳ねた。
カイル様は使者を一瞥して追い出すと、乱暴に扉を閉め、私の方へ向き直った。
「……ヴィオラ。怖くなったか?」
「いいえ。……ただ、私の計算にはなかった言葉でしたので。私が、あなたの心臓、ですの?」
カイル様は私のデスクに両手をつき、逃げ場を塞ぐように顔を近づけた。
「そうだ。お前の知略がなければ、この領地は立ち行かん。お前の代わりなど、この大陸のどこを探してもいない。……だから、あんな馬鹿の元へなど、指一本触れさせん」
彼の低い声が、執務室の空気を震わせる。
それは主君としての言葉以上に、一人の男としての強い独占欲に満ちていた。
「……計算外、か。お前のその精密な計算機でも、俺の感情までは弾き出せなかったようだな」
カイル様の手が、私の髪を掬い上げ、愛おしむように指を通す。
王国から「大逆人」と呼ばれた私が、今、この恐ろしい辺境伯にこれ以上ないほど「不可欠な存在」として肯定されている。
「……ええ。私の負けですわ、カイル様。……ですが、私を『心臓』にしたこと、後悔させませんわよ? 王国の傲慢な要求ごと、彼らの経済を根底からひっくり返して差し上げますわ」
私は不敵に微笑み、カイル様の手を握り返した。
守られるだけではない。私たちは、共に王国を震撼させる共犯者になったのだ。
アイゼンの城の最上階。新設されたばかりの巨大な魔導炉が、低く力強い唸りを上げていた。
私とカイル様が共同で設計し、調整を重ねてきた『永久循環式魔導炉』の完成だ。
「……出力安定。地脈からの逆流もありませんわ。カイル様、成功です」
私が計算機を閉じると、室内を照らす魔導光が、かつてないほど清澄な青色に輝いた。
これまで領地の命綱だった魔石の消費量を、わずか十分の一にまで抑え込み、なおかつ十倍の出力を維持する。辺境の冬を「春」に変えるほどの奇跡の業だ。
「ああ。これでお前が魔力欠乏で倒れる心配も減るな」
カイル様は満足げに頷くと、バルコニーへと私を誘った。
外は満天の星空。眼下に広がる城下町には、新しい魔導灯が次々と灯り、領民たちの歓喜の歌声が風に乗って聞こえてくる。
「ヴィオラ。……これを受け取れ」
カイル様が差し出したのは、小さな、けれど重厚な輝きを放つ黒金の指輪だった。
その中央には、この地でしか採れない最高純度の青魔石が埋め込まれている。
「これは……?」
「首席事務官としての証であり、我がアドラー家の『守護』の誓約だ。それを持っている限り、いかなる術式もお前の身を焼くことはない。……そして、俺が常に共にあるという証明だ」
カイル様は私の左手を取ると、その指先に迷いなく指輪を滑り込ませた。
指輪から伝わる、あの濃密で温かな彼の魔力。
「……重いですわね。責任も、想いも」
「計算外か?」
「ええ。ですが、この指輪をはめた私の価値は、今までの百倍に跳ね上がりましたわ」
私が微笑むと、カイル様は私の腰を引き寄せ、耳元で低く囁いた。
「百倍どころではない。……世界すべてと引き換えても足りん」
一方、同時刻。
国境を隔てたグランツ王国では、エリオット王太子が絶望の淵に立たされていた。
「な、なぜだ!? なぜ国庫が空なのだ!」
王宮の執務室。エリオットが叫びながら突き飛ばしたのは、山のような請求書と差し押さえの通告書だ。
ヴィオラが「譲った」負債には、単なる金銭だけでなく、『猶予期間の終了による一括返済』という条件が緻密に組み込まれていた。
さらに、彼女が改善したはずの王宮の魔導回路は、彼女の魔力が絶たれたことで、膨大な維持費を垂れ流す「金食い虫」へと変貌していた。
「リリア、何とかしろ! お前も王妃になるなら知恵を出せ!」
「そ、そんなこと言われても……私、計算なんて分かりません! 愛があれば乗り越えられるって言ったのは殿下じゃないですか!」
かつての「真実の愛」は、今や醜い罵り合いの火種でしかない。
ヴィオラの予測通り、彼らの愛は「数字」という現実の前に、脆くも崩れ去ろうとしていた。
夜空を見上げるヴィオラの瞳には、冷徹な勝利の確信と、隣に立つ男への熱い信頼が宿っていた。




