No,3
アドラー辺境伯領の首席事務官として迎えた、最初の朝。
私が案内された執務室は、想像していたものとは大きく異なっていた。
「……あの、カイル様。私のデスクはあちらの事務局にあるのでは?」
「却下だ。お前は今日から、ここで働け」
カイル様が指差したのは、彼自身の巨大な黒檀のデスクから、わずか数メートルしか離れていない場所だった。部屋の主である彼と常に向かい合う形になる、いわば「特等席」だ。
「監視、ですの?」
「そうだ。お前のような得体の知れない知略家を、目の届かない場所に置けるか。……それとも何か、俺の近くでは仕事が手に付かない理由でもあるのか?」
カイル様が不敵に口角を上げる。その挑戦的な視線に、私は手元の計算機をパチンと叩いて応じた。
「まさか。効率を考えるなら、領主であるあなたに即座に決裁を仰げるこの席は、最高に合理的ですわ。喜んでお受けいたします」
私はさっそく席に着き、まずはこの城の「不快感」の正体を探ることにした。
アイゼンの城は石造りで、魔導暖房が完備されているはずなのだが、部屋によって温度にムラがあり、効率が極めて悪い。
「カイル様。この城の魔導回路、設計が古すぎますわ。熱力学的な損失が三割を超えています。……少し、いじらせていただきますね」
私は立ち上がり、壁に刻まれた古い術式に触れた。
計算機で導き出した最適数値を、指先から流す微量の魔力で上書きしていく。
カチカチと歯車を回し、魔力の流れを「等比数列」に組み替えた瞬間、室内に柔らかな温もりが均一に広がった。
「……おい。今、何をした」
「回路のバイパスを繋ぎ変え、供給過多だった部分を循環に回しただけですわ。これで魔石の消費量は二割減り、室温は一定に保たれます」
カイル様は驚いたように周囲を見回し、やがて呆れたような、それでいて熱い視線を私に向けた。
「お前は、事務だけでなく魔導建築の域まで踏み込むつもりか」
「首席事務官の仕事に『領地の最適化』が含まれないとは思いませんでしたわ」
私が涼しい顔で作業に戻ろうとすると、不意に視界が大きな影に遮られた。
カイル様が私のデスクの端に腰掛け、覗き込んできたのだ。
「働きすぎだ、ヴィオラ。集中すると周囲が見えなくなるタイプだな」
「……計算の最中ですの。邪魔をしないでいただけます?」
そう言いかけた私の唇に、何かが押し付けられた。
驚いて目を見開くと、それは甘い香りのする、ベリーの砂糖漬けを乗せた小さなタルトだった。
「……えっ?」
「領内の菓子職人が作った試作品だ。糖分が足りないと計算が狂うだろう? 食え」
有無を言わさぬ口調。私は毒気を抜かれ、大人しくそれを口に含んだ。
濃厚なバターの風味と、ベリーの爽やかな酸味が広がる。
「……美味しいですわ」
「そうか。なら、今日から三時間に一度は休憩を入れろ。これは命令だ。倒れられたら、俺の領地の最適化が止まるからな」
カイル様の手が、私の頬に触れたタルトの粉を親指でそっと拭った。
その指先が熱くて、一瞬、計算のアルゴリズムが真っ白になる。
「カイル様……近すぎますわ」
「監視だと言ったはずだ。お前の心拍数まで数えられる距離にな」
冗談とも本気とも取れない低い声。
私は慌てて計算機に目を落としたが、カチカチと鳴る歯車の音が、いつもより少しだけ速くなっていることに、彼が気づいていないことを祈るしかなかった。
「鉄血伯に告ぐ! 不当な徴収をやめ、物資を市場に戻せ!」
要塞都市アイゼンの城門前。
怒号を上げる領民たちと、それを取り巻く商ギルドの者たちが詰めかけていた。
不正を暴かれ失脚した元財務次官、バルトロの差し金だ。彼は自らのコネクションを使い、市場の流通を意図的に止めることで、領民の不満をカイル様へ向けようとしていた。
「カイル様、出陣の準備を」
「いや、俺が出るまでもない。……ヴィオラ、行けるか?」
剣の柄に手をかけていたカイル様が、私を見て不敵に笑った。
私は手元の計算機をパチンと閉じ、立ち上がった。
「ええ。野蛮な暴力よりも、冷酷な事実の方が堪えるものですわ」
私は護衛の騎士を数名連れ、城門のバルコニーではなく、あえて群衆の目の前、地上へと降り立った。
先頭に立っていた商ギルドの代表、巨漢の商人が鼻で笑う。
「女が出てきて何をする! 伯爵の愛人か? 我々は飢えているんだ、魔石の配給を戻せ!」
「愛人ではなく、首席事務官ですわ。……商ギルドの代表、ガウス様。お言葉ですが、貴方たちが『飢えている』というのは、どの数字を根拠におっしゃっていますの?」
私は懐から一冊の薄い手帳を取り出した。
「三年前、冷害で不作だった際、伯爵閣下は魔石の税率を二パーセント引き下げましたわね。その分、貴方たちは備蓄を増やす約束だった。……ですが、記録によれば、貴方のギルドが昨月輸出した穀物の量は、例年の三倍。……おかしな話ですわ。領民が飢えているというのに、外へ売る余裕はあるなんて」
「な、何を……出鱈目を言うな!」
「出鱈目かどうか、今ここで計算しましょうか。貴方のギルドが所有する第三倉庫の容積は四千五百立方。現在、そこには三万レアル相当の小麦が隠されているはずですわ。先ほど私が計算機で算出した、この街の馬車の出入り回数と重量の変化から導き出した数値です」
私が淡々と数字を読み上げると、商人の顔から急速に血の気が引いていった。
周囲の領民たちがざわつき始める。
「な、なぜそれを……」
「さらに言えば、貴方がたが主張する『魔石の不足』も虚偽ですわ。先週、バルトロ氏の個人口座から貴方のギルドへ、一万二千レアルの不透明な送金がありました。これは『市場を混乱させるための手付金』と推測するのが妥当でしょう。……違いますか?」
「き、貴様ぁ!」
逆上した商人が拳を振り上げた瞬間。
上空から飛来した一本の投げナイフが、彼の足元を正確に貫いた。
「そこまでだ」
カイル様が、いつの間にか私の背後に立っていた。
圧倒的な威圧感に、群衆が静まり返る。
「ヴィオラの計算は、俺の剣と同じくらい正確だ。……おい、ギルドの連中を全員捕らえろ。倉庫を検め、隠された物資は直ちに市場へ開放する」
騎士たちが動き出し、商人を引き立てていく。
残された領民たちは、私を畏怖と敬意が混ざったような目で見つめていた。
「……ヴィオラ。お前、本当に怖ろしい女だな」
カイル様が、隣でぼそりと呟いた。
私は計算機を直し、優雅に髪を整える。
「あら。私はただ、見えるはずの数字を言葉にしただけですわ。……それよりカイル様、今回の没収資産で、領内の教育予算が五パーセント増やせますわね。次の計算に取り掛かりましょうか?」
「……少しは休めと言っただろうが」
カイル様は呆れたように言いながらも、その手で私の肩を抱き寄せ、城へと促した。
守られているのではなく、並び立っている。
その確かな手応えに、私の胸は数字では測れない高揚感で満たされていた。
「……あと、少し。地脈の干渉を、マイナス、零点二……」
深夜の執務室。羽ペンの走る音と、計算機の歯車が回る音だけが室内に響いていた。
領地全体の魔導暖房の効率化は、予想以上に私の魔力を削っていた。本来、術式の構築は数人の魔導師で分担するもの。それを一人で、それも驚異的な速度で書き換え続けてきた代償が、今、不意に襲いかかってきた。
「あ……」
視界がふわりと揺れる。
手に持っていた羽ペンが指先から滑り落ち、羊皮紙の上に黒いシミを作った。
急激な寒気と脱力感。魔導師にとっての「ガス欠」——魔力欠乏症だ。
「おい、ヴィオラ! 顔色が真っ白だぞ!」
隣のデスクからカイル様が立ち上がる音が聞こえたが、私は椅子の背もたれに身体を預けるのが精一杯だった。
近づいてくる足音。大きな手が私の肩を掴む。
「……申し、訳ありません。少し、計算を詰め込みすぎましたわ」
「少しどころではないだろう。三日間、まともに寝ていないのは知っているんだ。……魔石を持ってこい!」
「いえ、魔石からの抽出では……変換効率が悪くて、今は……」
魔力欠乏が深刻な時、不純物を含む魔石から力を取り込むのは逆に身体へ負担がかかる。
カイル様は私の状態を瞬時に悟ったのか、短く舌打ちをした。
「……チッ。効率重視のお前なら、これが一番手っ取り早いと分かるはずだ。拒否するなよ」
「え……?」
次の瞬間、私は椅子ごと強引に引き寄せられた。
カイル様が自分の椅子に座り、そのまま私を軽々と抱き上げ——。
なんと、私を自分の膝の上に乗せたのだ。
「カ、カイル様!? 何を……」
「黙っていろ。魔石の産地を守る我が一族の魔力は、お前ら王都の人間よりはるかに高密度だ。直接触れれば、術式なしでお前に流し込める」
カイル様の太い腕が、私の腰をがっしりと抱き込む。
そして、彼の額が私の額にそっと重ねられた。
「……っ」
熱い。
触れた部分から、暴力的なまでに濃密で、けれど驚くほど澄んだ魔力が、雪崩のように私の内側へ流れ込んできた。
枯れ果てた回路が、潤いを取り戻していく。あまりの心地よさに、思わず吐息が漏れた。
「……ふ、う……。カイル様の、魔力……すごく、綺麗……」
「……お前、こんな時に何を言っている」
至近距離で、カイル様の瞳が揺れるのが見えた。
彼の低い声が、少しだけ掠れている。
魔力供給は、文字通り心臓の音まで共有する行為だ。私の鼓動が速まっているのも、彼の大きな手のひらが緊張で硬くなっているのも、すべて伝わってくる。
「……ヴィオラ。お前は本当に、危機感というものがないのか? 男の膝に乗せられて、こんなことをされて……」
「……だって。これが一番、効率的ですもの。……それに、カイル様の隣は、不思議と落ち着きますわ」
魔力が満たされていく充足感と、彼から伝わる体温。
私は無意識のうちに、彼の胸元に頭を預けていた。
「……全く、計算高いんだか無防備なんだか分からん女だ」
カイル様の手が、私の背中をあやすようにゆっくりとなでる。
その独占欲を孕んだ熱い眼差しに気づかないまま、私は温かな魔力の海の中で、数日ぶりの深い眠りに落ちていった。




