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No,2

「……離してください。私は自力で歩けますわ」

「黙れ。この雪山で二次災害を予言するような女を、一人で放っておけるか」


 気がつけば、私はカイル様の愛馬の背に乗せられていた。

 彼の屈強な腕が私の体を前座に固定しており、背中からは鉄のように硬い胸板の熱が伝わってくる。


 背後では、彼の部下たちが呆然とした顔でこちらを見ていた。

 無理もない。『鉄血伯』と恐れられる男が、行き倒れの令嬢を抱えて馬を走らせているのだから。


「どこへ連れて行くつもりですの?」

「俺の城だ。お前が何者で、その奇妙な計算が何なのか、じっくり吐いてもらう」

「私はただの放浪者ですわ。……それから、私の計算機をあまり強く握らないでいただけます? 繊細な歯車なんですの」


 カイル様は鼻で笑った。

「放浪者だと? その身のこなし、言葉遣い……それに、さっきの雪崩の予測。お前、ただの令嬢じゃないな。王都で『鉄の女』と噂されていた、ベルシュタインの娘か?」


 私は一瞬、息を止めた。

 さすがに隣国の辺境を守る将だ。情報の早さが尋常ではない。


「……過去の話ですわ。私は昨日、すべてを捨ててきましたの。今はただの、計算好きの女です」

「すべてを捨てた、か。あの馬鹿王子の『真実の愛』とやらのせいでか?」


 カイル様の言葉には、明確な蔑みが混じっていた。

 私は、彼の腕の中で小さく肩をすくめる。


「ええ。おかげで清々いたしましたわ。愛という不確実な変数に振り回されるのは、私の性に合いませんから」

「ほう。愛は変数か。面白いことを言う」


 やがて、軍勢は国境を越え、峻険な岩山を削って作られた要塞都市『アイゼン』へと入った。

 グランツ王国の華やかさとは無縁の、鉄と石と、魔導回路の青い光に彩られた無骨な街。

 

 城内の一室に降ろされた私は、すぐにカイル様と対峙することになった。

 彼は大きな机にどっかりと座ると、私から没収した計算機をいじりながら言った。


「ヴィオラ。お前が本当に有能なら、一つ試してやる。俺の領地は魔石の産地だが、その流通と分配の計算が滅茶苦茶でな。文官どもが何年もかかって整理しきれん書類がある」


 彼は足元に置かれた大きな木箱を蹴った。

 中には、埃を被った古い帳簿が隙間なく詰まっている。


「これを三日で整理してみせろ。できなければ、お前を不審者として隣国へ送り返す。……どうだ?」


 私はその木箱を覗き込み、一瞬で悟った。

 これは、意図的に複雑化された利権の迷宮だ。文官たちがわざと計算を濁し、横領や中抜きを隠蔽している「ゴミの山」。


「三日? カイル様、私を侮らないでいただけますか?」

「何だと?」

「この程度の量、今夜中に終わらせてみせますわ。……その代わり、終わったら私を首席事務官として雇っていただきたいの。そして、美味しい食事と、静かな睡眠時間を保障してくださる?」


 カイル様が目を見開く。

 そして、これまで見せたことのない、肉食獣のような獰猛な笑みを浮かべた。


「面白い。やってみろ、ヴィオラ。……もしハッタリなら、その計算機ごと雪山に叩き出すからな」


「ええ、望むところですわ。……あ、カイル様」

「何だ」

「その計算機、左のレバーを引くと計算結果がリセットされますわ。……私の人生と同じように」


 私は彼から計算機をひったくると、さっさと床に座り込み、最初の一冊を開いた。

 背後で、カイル様が「ふん、食えない女だ」と呟くのが聞こえた。


 カイル様が部屋を去ってから、私は一度も席を立たなかった。

 カチカチ、カチカチと、真鍮の計算機が小気味よいリズムを刻む。

 

「……酷いわね。帳簿上の魔石の純度と、実際に支給されている熱量が一致していないわ。係数に不自然な偏りがある。……ここね」


 羽ペンを走らせ、不正の接点を数式で繋いでいく。

 この領地の文官たちは、複雑な『魔導換算式』を利用して、一般人には分からないように少しずつ魔石の配分を掠め取っていたのだ。

 エリオット殿下の執務室で、国の財政を一人で支えていた私からすれば、子供の遊びのようなトリックだった。


 夜が更け、部屋の魔導ランプが細くなった頃。

 背後の扉が開き、重い足音が近づいてきた。


「おい、まだやっているのか。……いい加減にしろ、三日と言ったはずだ」


 カイル様が、湯気の立つマグカップを手に立っていた。

 私は最後の一行を書き終えると、大きく伸びをして振り返った。


「カイル様、お言葉ですが……三日もかけるほどの内容ではありませんでしたわ」


「……何だと?」


 私は整理し終えた十数冊の帳簿と、それらを一枚にまとめた総括表を彼に差し出した。


「これが結論です。過去三年間で、領地の北東部へ送られた魔石の約十五パーセントが、実体のない『備蓄用倉庫』へ流れています。その額、合計で八十二万レアル。中抜きを主導しているのは、おそらく財務次官のバルトロ氏ですね」


 カイル様が総括表をひったくるように手に取る。

 彼の目が、驚愕に大きく見開かれた。

 私が書きなぐった数字の羅列は、複雑な魔導流通の矛盾を一分の隙もなく突いていた。


「……これを、たった数時間でか? バルトロは俺の古参の家臣だ。証拠がなければ——」


「証拠なら、その三冊目の帳簿の裏表紙を見てください。隠し術式で、実際の受領印が焼き付けてありますわ。……私の魔力を流して、浮かび上がらせておきました」


 カイル様が裏表紙を指でなぞると、青い光とともに不正な取引の記録が浮かび上がった。

 沈黙が部屋を支配する。

 カイル様は、信じられないものを見るような目で私を見つめた。


「ヴィオラ。お前、一体何者だ。……ただの公爵令嬢に、こんな芸当ができるはずがない」


「言ったはずですわ。私は、あのおめでたいお二人のために『可愛げのない知識』を積み上げてきたのです。……でも、ようやく分かりました。私の知識は、彼らに捧げるためのものではなく、私自身の自由を守るための武器だったのだと」


 私は、カイル様の手にあるマグカップを自然な動作で受け取った。

 中身は、甘い香りのするココアだった。


「ふふ、これ、美味しいですわね。徹夜明けの脳に染み渡ります」


 一口飲んで、私がふにゃりと頬を緩めると、カイル様は毒気を抜かれたように大きなため息をついた。


「……呆れた女だ。八十二万レアルの横領を暴いておいて、ココア一杯で満足か」


「あら、ご褒美はこれからいただく約束でしょう? 首席事務官の椅子と、平穏な生活ですわ」


 カイル様は不意に、私の頭に大きな手を置いた。

 乱暴にかき回すような手つきだったが、その温かさはエリオット殿下の冷たい視線とは正反対のものだった。


「認めよう。お前は今日から俺の首席事務官だ。……だが、平穏な生活というのは取り消しだ」


「えっ? 契約違反ですわ!」


「これほどの知略を持つ女を、静かに眠らせておくほど俺は物分かりが良くない。……ヴィオラ。俺と一緒に、この腐った領地を、いや、この大陸の常識を塗り替えてみる気はないか?」


 カイル様の氷のような瞳が、熱を帯びた野心で燃えていた。

 私は一瞬、呆気に取られた後——。

 

「……いいですわね。効率の悪い世界を書き換えるのは、私の得意分野ですもの」


 私たちは、深夜の事務室で不敵な笑みを交わし合った。

 これが、後に世界を震撼させる「最強のバディ」が誕生した瞬間だった。


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