No,1
「ヴィオラ・フォン・ベルシュタイン! 貴様との婚約を破棄し、私はリリアとの真実の愛に生きることをここに誓う!」
王立学院の卒業パーティー。
きらびやかなシャンデリアの下、エリオット王太子の高らかな宣言が響き渡った。
彼の腕に抱かれているのは、可憐に震える男爵令嬢のリリア。周囲の貴族たちは息を呑み、私——ヴィオラへの同情と、あるいは蔑みの視線を投げかける。
冷徹、無慈悲、鉄の女。
王妃教育に明け暮れ、遊びもせず、ただ完璧であることだけを求められてきた私に付けられた二つ名が、ひそひそと会場を埋めていく。
本来なら、ここで私は泣き崩れるか、あるいは身の潔白を主張すべきなのだろう。
けれど、私の頭の中では別の「計算」が完了していた。
(……ようやく、この日が来た)
私は静かに一歩前へ出た。
エリオット殿下は、私が縋り付いてくるとでも思ったのか、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
「……殿下。お言葉ですが、一つ確認させてください」
「ふん、往生際が悪いぞ。リリアをいじめた罪を認め——」
「いいえ、そうではなく。今、隣にいらっしゃるリリア様が、殿下の『真実の愛』のお相手ということで相違ありませんか?」
私が淡々と問いかけると、リリア様が潤んだ瞳で私を見上げた。
「ヴィオラ様、ごめんなさい……でも、私、殿下を愛してしまったのです。身分違いなのは分かっています。でも、愛は誰にも止められないわ!」
その言葉を聞いた瞬間、私は大きく両手を広げ、弾けるような笑顔を作った。
これまでの「鉄の仮面」を粉々に打ち砕くような、心からの笑みだ。
「素晴らしい! なんて尊い愛なのでしょう! おめでとうございます、お二人とも!」
盛大に拍手を送ると、会場が水を打ったように静まり返った。
エリオット殿下が呆然と口を開ける。
「……は? 祝う、だと?」
「ええ! 愛こそが全て。地位も名誉も金銭も、真実の愛の前では塵に等しい。そうおっしゃるのでしょう? その高潔な精神、私、心から尊敬いたしますわ!」
私は扇を取り出し、あらかじめ用意していた封筒をエリオット殿下の足元へ、恭しく差し出した。
「これは……?」
「婚約解消の合意書、および、私が今まで『婚約者の義務』として代行していた案件の全権利譲渡書です。それから……」
私は、自分が身につけていた最高級の毛皮のケープと、首元に輝くベルシュタイン家の家宝——大粒の魔石のネックレスを、その場で外した。
「ヴィ、ヴィオラ? 何を……」
「愛があれば、このような贅沢品は不要ですもの。これらは全て王宮への返礼として置いていきます。それから、殿下が私の実家の名義で借り入れた五百万レアルの債務。これも『真実の愛』への試練として、お二人に譲渡いたしますわ。愛があれば、一生かけて返済するのも苦ではないはず!」
五百万レアル。
王族の遊興費としてはあまりに巨額だが、彼がリリア様のために注ぎ込んだ宝石や別荘の代金だ。
私の実家が肩代わりしていたが、婚約が破棄された以上、その義務はない。
「あ、五百万レアル……!? なんだ、その額は!」
「愛に金額は関係ありませんわ。……ああ、それから殿下。明日からの公務のスケジュールも、全てリリア様に引き継げるよう机に置いておきました。王妃教育を受けていないリリア様には少々荷が重いかもしれませんが……大丈夫ですわよね? 愛があるのですから!」
私は深々とカーテシーをした。
腰を上げた時、私の瞳にはもう、目の前の愚かな男は映っていなかった。
「それでは皆様、失礼いたします。真実の愛を貫くお二人に、神のご加護……ではなく、相応の現実がありますようお祈りしております」
私は一度も振り返ることなく、軽やかな足取りで会場を後にした。
背後でエリオット殿下が何かを叫んでいたが、知ったことではない。
(さあ、計算通り。私の『自由』へのカウントダウンは、今この瞬間にゼロになったわ)
夜の風は、驚くほど清々しかった。
会場を出てすぐ、私は隠しておいた移動用の簡易ドレスに着替えた。
コルセットを限界まで締め上げた豪華な夜会服は、もはやただの布屑だ。それも、あのお似合いの二人の足元に置いてきた。
「ああ……空気が美味しいわ」
夜の王宮の裏門。私は守衛に賄賂を渡すこともなく、事前に「計算」しておいた警備の死角を突いて、するりと外へ出た。
今頃会場では、エリオット殿下が私が残した『負債内訳書』を見て、顔を真っ青にしているはずだ。
五百万レアル。
それは彼がリリア様に買い与えた宝石代だけではない。彼が「自分は有能だ」と錯覚するために、裏で私が損失を補填し続けてきた事業の穴埋め金も含まれている。
婚約が解消され、実家——ベルシュタイン公爵家が支援を打ち切った瞬間、その全額が彼の個人債務へと切り替わる術式を、あらかじめ書類に組み込んでおいた。
「自力で返そうと思えば、百年はかかるかしら。……まあ、愛があれば平気よね」
私は手元にある、手のひらサイズの魔導計算機を取り出した。
真鍮製の歯車が噛み合い、チチチと小気味よい音を立てる。
「私の残金は……三万レアル。当面の旅費としては十分ね」
実家には戻らない。
厳格な父は、婚約破棄された私をすぐさま別の政略結婚の道具にするだろう。
だから私は、この国を出る。
目指すは北の国境。そこを越えれば、実力至上主義の隣国、アドラー辺境伯領だ。
私は馬車を乗り継ぎ、夜通し走らせた。
車窓から見える王都の灯りが遠ざかるにつれ、心はどんどん軽くなっていく。
翌朝、私は国境近くの宿場町で、安物のパンを齧りながら情報を整理した。
エリオット殿下の執務室には、今日から始まるはずの『外交使節団への対応』や『魔石鉱山の予算配分』といった重要書類が山積みになっているはず。
あれをこなせるのは、国内では私しかいなかった。
リリア様にできることといえば、せいぜいお茶の淹れ方を工夫するくらいだろう。
「ふふっ。一週間もすれば、王宮の機能は半分停止するわね。……あ、もう一口食べたいけれど、ここからは計算を慎重にしないと」
私は、手元のメモ帳に複雑な数式を書きなぐった。
どのルートを通れば最も効率的に国境を越えられるか。
どの時間に魔獣の活動が低下するか。
私は「完璧な王妃」になるために、あらゆる学問を修めた。
歴史、経済、魔導力学、そして軍事学。
エリオット殿下は「女にそんな知識は不要だ、可愛げがない」と切り捨てたけれど。
「これからは、この『可愛げのない知識』が私の命を救うのよ」
私は乗り合い馬車を降り、いよいよ険しい峠道へと足を踏み入れた。
雪が舞い始めている。
通常、令嬢が一人で越えられるような場所ではない。
けれど、私は知っている。
この峠の魔力密度が急上昇する周期を。
そして、その周期の合間を縫えば、護衛なしでも突破できる確率が九十二パーセントに達することを。
「さあ、自由への最終試験よ」
冷たい風が頬を打つ。
私は計算機の歯車を回しながら、真っ白な雪原へと踏み出した。
「……少し、誤差が出たかしら」
標高二千メートルを超える、国境のシュタルク峠。
膝まで埋まる雪を掻き分けながら、私は手元の魔導計算機の歯車を調整した。
計算では魔獣の活動限界時間はあと十五分あるはずだったが、大気中のマナが急激に濁り始めている。
——グルルル。
雪煙の向こうから、青白い目をした雪狼の群れが姿を現した。その数、十二。
通常なら、熟練の冒険者がパーティで挑む相手だ。
けれど、私は震える代わりに、冷静に懐から数枚の魔導銀板を取り出した。
「マナの偏向を修正。座標、三、二、八。……起爆まで、三秒」
私がプレートを雪に突き刺した瞬間、背後の崖が轟音とともに崩落した。
雪崩だ。
狼たちが驚いて足を止める。私はその隙に、崩落の衝撃波を利用して反対側の岩陰へと滑り込んだ。
しかし、運が悪いことに、大気の振動が予想以上の連鎖反応を引き起こしたらしい。
頭上の巨大な雪の塊が、今にもこちらへなだれ込もうとしていた。
「まずいわね。死ぬ確率は、さっきの十二パーセントから六十八パーセントに跳ね上がったわ」
私が再計算を始めようとした、その時。
突如、視界が真っ黒な影に覆われた。
上空から飛来した「何か」が、轟音と共に私の目の前に着地したのだ。
——ドォォォォォン!
爆風が雪を吹き飛ばす。
そこに立っていたのは、漆黒の毛皮を纏い、身の丈ほどもある大剣を担いだ一人の男だった。
男が剣を一振りすると、私を飲み込もうとしていた雪崩が、まるで目に見えない壁に阻まれたかのように左右へと割れた。
「……何だ、お前は。こんな場所で自殺志願者か?」
地響きのような低い声。
男が振り返る。
冷徹な氷のような瞳と、頬にある古い傷跡。圧倒的な威圧感。
彼こそが、隣国アドラー辺境伯領の主——『鉄血伯』カイル・ヴァン・アドラー。
騎士たちが続々と崖の上から降りてきて、狼の群れを一瞬で制圧していく。
カイル様は剣を鞘に納めると、雪の中に座り込む私を見下ろした。
「おい、聞いてるのか。死にたいなら他所でやれ。ここは俺の領土との境界だ。変な死体は迷惑だ」
あまりに無愛想な言い草に、私は思わず計算機をパチンと閉じた。
そして、スカートの雪を払いながら立ち上がる。
「自殺ではありませんわ。私はただ、このルートが最短かつ安全だと計算して歩いていただけです。それから……カイル様、とお見受けしますが」
「ほう、俺の名を知っているか」
「ええ。ですが、名前よりも気になることがあります。……あと三歩、右へ動いていただけますか?」
カイル様が眉をひそめる。
「……何だと?」
「その位置、地脈の結び目にあたっていますわ。あと五秒で、あなたが先ほど切り裂いた雪崩の残滓が、二次災害として噴き出します。……五、四、三——」
「チッ」
カイル様が私の腰を抱き寄せ、強引に横へ跳んだ。
直後、彼が先ほどまで立っていた地面から、凄まじい勢いで圧縮された雪と冷気が噴水のように噴き上がった。
沈黙が流れる。
カイル様は、腕の中の私を怪訝そうに見つめた。
「……お前、今、何と言った? 五秒だと?」
「はい。正確には四・八二秒でしたが、誤差の範囲ですわ。助けていただいてありがとうございます、野蛮な騎士様。ですが、これでもう貸し借りなしということでよろしいかしら?」
私は腕の中から脱出すると、優雅に——そして少しだけ不敵に微笑んでみせた。
カイル様の瞳に、鋭い光が宿るのが分かった。




