堕ちる天使。嗤う悪魔。夜惑なネオン。6
聖はグラスに手を伸ばし、震えを隠すように氷をひとつ落とした。
ーからん、と乾いた音が卓の上で小さく響く。
「ウィング・リッパー、ロックでよろしかったですよね?」
「ええ」
男――アスモデウスは、相変わらず穏やかに微笑んでいる。
端から見れば、気前のいい上客と、それに応じる少し緊張したキャスト。
聖が琥珀色の液体をグラスへ注ぐ。その手元を眺めながら、アスモデウスは何気ない調子で口を開いた。
「綺麗な手ですね」
「よく言われます」
「羽を隠すのも、そのくらい器用だといいのに」
聖の指先が止まった。だが、顔は崩さない。笑顔のまま、ゆっくりと視線だけを上げる。
「……何のことですかぁ?」
「惚けなくていい」
声色は柔らかいまま。なのにその一言で、卓の温度がぐっと下がった気がした。
「君、自分がずいぶん目立つことをしている自覚はあるんでしょう?」
「お客様、酔ってます?」
「いいえ。むしろ冴えていますよ」
アスモデウスはようやくグラスを手に取ったが、飲みはしない。ただ、聖をじっと見つめた。
「この街は香りが多すぎて嫌になります。酒、香水、欲望、虚栄、嫉妬……下に堕ちてまでこんな場所に潜み、安酒と男の欲に塗れている羽虫が」
聖の喉が小さく鳴る。
「あなた、何者?」
「それを君が聞くんですか?」
くすり、と笑う。人好きのする優雅な仕草なのに、どこか残酷な笑顔で聖に微笑む。
「……好きでこんなとこにいるわけじゃない」
「だとしても、見苦しい」
「黙って」
今度は聖が言葉を遮った。声は小さいが、芯に尖った怒気があった。
しかしアスモデウスは意に介した様子もない。
「君たちはいつもそうだ。高い場所から見下ろし、綺麗な顔で赦しを語るくせに、落ちれば誰より醜い」
「黙ってって言ってるでしょ」
「君も同じですか? それとも、もっと惨めかな」
その瞬間、聖の笑みが完全に消えた。藍色の瞳が冷たく細まり、そこにいるのは愛らしいキャバ嬢・聖ノエルではなくなっていた。
「……あなたに関係ない」
「ありますよ。狩りの前には、獲物の質を見極めたい」
アスモデウスがやっと酒を口に含む。まるで会話の区切りを味わうみたいに、ゆっくりと喉へ落とした。
「天使というからには、もう少し品があるかと思った。お前はあのお方の祭壇の贄に相応しくない。」
「……っ」
聖の肩が震える。怒りか、恐怖か、その両方か。
「どこで私を嗅ぎつけたの」
「君が隠れるのが下手だっただけです。あまりにも目立ちすぎなんですよ貴方。こちらのネットワークを舐めないでください。貴方、もう我々に近いところまで堕ちてますよ」
その一言で、聖の中で何かが切れた。
「……っ、」
彼女は立ち上がった。勢いよくソファから離れ、椅子の脚が床を擦る音がした。
周囲の客が一瞬だけ何事かと目を向けるが、店内は派手な音楽と歓声で満ちている。小さな異変はすぐに飲み込まれた。
「気分悪いので、少し外します」
聖は営業用の声を辛うじて保って言う。
「すぐ戻りますから」
「ごゆっくり」
アスモデウスが穏やかに言った。
遠くから2人の様子を伺っていた狭間は違和感を感じた次の瞬間、彼女は駆け出した。ドレスの裾を翻し、人波を縫うようにしてフロアの奥へ抜ける。普通のキャストが客を放ってこんな逃げ方をするはずがない。
(やっぱりおかしい……!)
少し離れた位置から様子を見ていた俺は、反射的に聖を追いかけた。
(やり取りの声はほとんど聞こえなかった。だが見えた。ただの接客トラブルじゃない!)
走り出した後ろには中央卓の方でひときわ大きな歓声が上がった。
「アマネさーん! こっち向いて!」
「代犠様、すごーい!」
「セリナさんも入って! 写真撮るよ!」
「ヘルプだから私はいいわよ」
視線を向けると、御子柴セリナがアマネの隣へ寄り、さりげなくヘブンリー・ドロップのラベルが正面に来るよう位置を整えていた。シャンパンタワーは卓の左寄り、アマネの笑顔がいちばん映える角度、そして翼を模した白銀のボトルがきらりと光る位置。慣れた手つきだった。
セリナはスマホを構えたボーイに軽く角度を指示し、それから自分でも別の端末を取り出す。
レンズ越しに卓を覗き込み、ほんの一瞬、無表情になった。――撮った。
だが今はそれどころじゃない。
アスモデウスは聖が走り去ったのを見て立ち上がった。
「すみません!ノエルちゃん今日調子が悪かったみたいで、お客様大変申し訳ございません…」
田村が走りそう言ったら、
「お会計を」
「えっ、もうお帰りですか?」
「ええ。お目当てが席を外してしまったので」
「はっ!大変申し訳ございませんでした!!2番卓さんお会計です」
アスモデウスは伝票を受け取り、さらさらとサインを書き、そっと退店した。
***
裏口の扉は少しだけ開いていた。冷気が吹き込み、布越しでも分かるほど温度が落ちる。
「聖さん!」
呼んでも返事はない。外へ出ると、雑居ビルの脇に取り付けられた螺旋状の外階段が、夜の闇へ巻き上がるように伸びていた。
かすかに、上の方で足音がした気がした。
「くそっ……!」
俺は階段を駆け上がる。
鉄の段が足裏に冷たく、踏むたびに甲高い音が響いた。下を見れば歌舞伎町のネオンが遠く滲んでいる。風が強く、看板の明かりがちらちらと壁に反射する。
「聖さん!どこにいますか?」
返事はない。ただ、どこかに“気配”だけがある。
数階分を上がったところで、俺は足を止めた。息が白く漏れる。見回しても、人影はない。
(見失った……?)
いや、そんなはずはない。一本道だ。どこかの踊り場に身を潜めているのか。
「……あなた」
すぐ背後から声がした。不意打ちだった。
ぐらり、と視界が傾く。鉄が軋む。次の瞬間には、体がもう支えを失っていた。
「っ――!」
足元が消える。世界が反転した瞬間だった。
ようやく落ちました。




