Op.61「新たな名前」
「行きたいとこがあるって言うから、どこかと思えば……」
ルナの声が、誰もいない展望デッキに小さく溶けた。
再び足を踏み入れた魔導戦艦の展望デッキには、数十分前まで繰り広げられていた激戦の爪痕が、まだ生々しく残っている。
床はところどころ抉れ、金属板がめくれ上がり、乾ききっていない赤黒い血痕まで点々と残っていた。
そのせいだろうか。
どこか微かに鉄臭い匂いが残っている気がする。
それでも、その向こうに広がる茜色の空はあまりにも綺麗だった。
西の果てへ沈みかけた陽が、雲の端を朱に染め上げている。
茜と橙と薄紫が幾重にも溶け合う黄昏の空。
その色彩に照らされた世界は、傷ついた甲板さえもどこか遠いもののように見せていた。
耳を澄ませば、ゴォオオ……と腹の底に響くような魔導戦艦の駆動音が絶え間なく足元から伝わってくる。
静かなようでいて、ここが今もなお大空を駆ける戦艦の上なのだと嫌でも思い知らされる音だった。
俺とルナは、傷跡の残る甲板をゆっくりと歩いていく。
「『愚者と約束の木』を読んだ直後にあの騒動があったからさ……この景色の意味を、ちゃんと味わえなかったんだよ」
俺は、正面に見える夕焼けに照らされた巨大樹へ目を向けたまま答えた。
「そっか……」
ルナは短くそう返すと、それ以上は何も言わなかった。
ただ自然と同じ足取りで手すりの方へ歩いていき、俺の隣に並ぶ。
視界の先には、先ほどよりずっと近く、大きく見える一本の巨大樹。
夕暮れの光を浴びたその姿は、まるでこの地を静かに見守るように、そこに立っていた。
――約束の木。
かつて、この地でユエとノクティスが願いを託し、誓いを刻んだとされる一本の木。
それが数百年もの時を経て、今の巨大な姿へと育ったとされる。
(改めて見ても、壮観だな……)
空を覆うように生い茂る緑葉と、太く分厚い幹。
その巨大樹の根元を中心に、無数の家屋や建造物が立ち並び、光を反射する川が流れ、山や森が遠くまで続いている。
そして、魔導戦艦が空を駆け抜けるたびに、景色は少しずつ形を変えていった。
巨大樹の見え方も、街並みも、山の角度も、ゆっくりと移ろっていく。
俺たちはしばらく、並んだまま黙ってその光景を見つめていた。
それから三分ほど経った頃だろうか。
不意に、隣からルナの声がした。
「そういや、ありがとね」
「ん?」
不意に隣から投げかけられた言葉に、俺は約束の木から視線を外してルナの方を見た。
すると、彼女は柔らかい表情のまま真っすぐこちらを見つめていた。
「私の本、守ってくれたじゃん」
「あー、そういうことね」
数十分前のアレクたちとの騒動が頭に蘇る。
本音を言えば、ルナの本を守ろうとしたというより、せっかく面白いと思った本を雑に扱われたのがムカついた、という方が近い。
だが、今ここでわざわざそれを口にするのは無粋だろう。
「どういたしまして。できれば次から、大事なものは簡単に預けないでくれ。危うく押収されて持っていかれるとこだったぞ」
「あはは……私もまさかあんな事態になると思ってなかったからさ」
ルナは軽く笑い、それから無邪気な笑みを浮かべたまま、ほんの半歩だけ俺との距離を詰めた。
「それで! 『愚者と約束の木』どうだった?」
どうやら、ちゃんと感想を聞かせろということらしい。
まぁ、たしかに大切な本を借りて読ませてもらったのだから、それくらいはちゃんと返しておくべきだろう。
俺は少しだけ言葉を選びながら、手すりの向こうに広がる景色へ視線を流した。
「面白かったよ。このアルタイル共和国の成り立ち、歴史、過去の偉人たちの功績。今こうして目の前にある景色の重みとか、見え方がここまで変わるとは思わなかった」
素直にそう感想を口にした。
だが、言い終えた直後、隣の金髪少女がなんとも言えない表情をしていることに気づく。
「……」
茜色の瞳が、じっとこちらを見ていた。
何とも言えない微妙な表情を浮かべつつ、何か言いたげな雰囲気だ。
そこまで的外れな感想ではなかったと思うのだが。
「なにその微妙な顔……」
「なんか思ってた感想と違くて」
「なんだよそれ。じゃあ、逆にルナはどうなんだよ」
そう返すと、ルナは待ってましたとばかりに表情をぱっと明るくした。
さっきまでの微妙な顔が嘘みたいに、茜色の瞳がきらきらと輝いている。
「やっぱ私は、ユエとノクティスの二人が好きなんだよね。ノクティスってちょっと意地悪っぽいのに、ちゃんと優しくて一途だし、ユエはどこまでも真っすぐで強いじゃん。最初は敵同士だった二人が、少しずつ相手のことを知って惹かれ合っていくのがすっごくいいし、ただ好きになって終わりじゃなくて、その想いのまま本気で国の未来まで変えちゃうのがすごいじゃん。それに、あの巨大樹を見てると、二人の約束が今も生きてるみたいで胸の奥がぎゅっとなるんだよね」
意気揚々と語るルナは、さっきまでよりずっと生き生きとして見えた。
その熱弁を聞き終えた俺は、今度は逆に何とも言えない顔になっていたらしい。
「……なによ、その微妙な顔」
「なんか思ってた感想と違くて」
「真似すんな」
茜色の光に染まる中、ルナがどこか拗ねたように口先を尖らせた。
同じ本を読んだはずなのに、抱く感想はまるで違う。
俺は国の歴史や過去の人物たちの功績に目を向けていて、ルナはユエとノクティスの想いや関係の方を見ていた。
そのズレが、妙におかしかった。
たぶん、ルナも同じことを感じていたのだろう。
気づけば、どちらからともなく笑いがこぼれていた。
「ふふっ」
「ふっ」
そのまま二人で意味もなく笑い合ったあと、ルナは目の前の手すりを両手で掴んで、正面に佇む巨大樹を見据えた。
「でも面白いよね。同じ物語を読んでるのに、私と君で全然感想が違うんだもん」
「まぁ、そういうもんだろ。逆に同じ解釈、同じ感想しかなかったらつまんないし」
「確かに。それもそっか」
ルナは納得したように笑って、再び手すりの向こうへ目を向けた。
俺もつられて視線を戻す。
夕暮れに照らされた約束の木は、黄金色と朱色に染まっていた。
黄昏の色に染まる街並みも、川も、山々も、言葉にし難いほど美しい。
微かに残る鉄の匂いも、足元を震わせる駆動音も、今はこの景色の一部のように思えた。
この景色はずっと忘れない。
そんな確信が、静かに胸の奥へ落ちていった。
その後もしばらく、俺とルナは並んだまま目の前の景色を眺めていた。
ときどき物語の感想をこぼし合い、また黙っては黄昏の余韻に浸る。
貸し切りのように誰もいない魔導戦艦の展望デッキでの贅沢なひと時。
このままずっとこうしていたい。
ふと、そんなことまで思ってしまうくらいには心地いい時間だった。
それからどれくらいそうしていただろうか。
不意に、ルナが何かを思い出したように声を上げる。
「そういやさ、君の名前どうしよっか? いつまでも『君』って呼んでるのも変だもんね」
「あー、言われてみれば確かに……」
名前。
思い返せば、これまで出会ってからずっと『君』や『彼』などと呼ばれていた。
そもそも俺はこの世界の人間ではない上に、今は記憶喪失の青年ということになっている。
だから、前世の名前『天道暁斗』とも名乗れない。
つまりは、今の俺は名無しだ。
(そういや、シアちゃんも俺に名前がないから呼びにくそうにしてたっけな……)
この世界で生きていくなら、名前はどうしたって必要になる。
だが、この世界の常識を知らない俺には、どんな名前を名乗れば自然なのか、その基準すら分からない。
(新しい名前、ねぇ……)
夕焼けに染まる金髪の少女と、ちょうど視線がぶつかった。
「じゃあ、ルナが決めてくれよ」
「えっ、私!?」
ルナはぱちりと目を見開き、本気で驚いたように自分を指差した。
その反応を見る限り、そこまであっさり任されるとは思っていなかったらしい。
「だって、俺はどんな名前がいいのか基準が分かんないしさ」
「んー……そうだよね……」
ルナは少しだけ考え込むように唇へ指を当て、それからすぐに、にやりと口元を緩めた。
「じゃあ、ルナさんがとっておきの名前を考えてあげようじゃんか!」
その瞬間、妙に嫌な予感がした。
胸の奥に、言いようのない不安がじわりと広がっていく。
「……待った。やっぱ後でシアちゃんに相談する」
「なんでシアなのよ」
上機嫌だったルナの表情が一変し、じとっとした目をこちらへ向けてくる。
そんな責めるような視線を受けつつ、俺はそっと目を逸らして小さく答えた。
「だって、ちゃんと考えてくれそうだし」
「私だってちゃんと考えられますー!」
ぷくっと頬を膨らませたルナは、不満げに声を張り上げたあと、ふと思い出したように言葉を続けた。
「言っとくけど、シアのお気に入りのクマのぬいぐるみの名前、ドヴォルザークだからね?」
「……マジか」
俺が絶句している間にも、ルナの追撃は止まらない。
「あと、よく使ってるヘアブラシはグラディオンで、お気に入りの傘はレインハルトね」
なんでどれもこれも、そんな無駄に強そうな名前になるんだ。
シアはあんな可愛らしい雰囲気の女の子なのに、名前の付け方だけ妙にいかつい。
この流れだと、俺も変な名前をつけられるかもしれない。
それだけは勘弁願いたい。
「……やっぱルナに頼む」
「よろしい♪」
ルナは満足そうに胸を張ると、夕焼けに照らされながら得意げに両腕を胸の前で組んだ。
「そうだなぁ。君の黒髪とか雰囲気って、『愚者と約束の木』のノクティスっぽい感じあるし、それにちなんだ名前がいいと思うんだよね」
そう言いながら、ルナは俺を見てから『約束の木』へ視線を移す。
俺も自然とその先を追った。
ノクティス・ベガ。
『愚者と約束の木』におけるもう一人の主人公であり、最後には『最強の愚者』とまで呼ばれた男。
響きは普通にカッコいいが、気になるところがないわけじゃない。
そもそも愚者は、この国において馬鹿や不吉の象徴みたいな扱いじゃないのか?
その由来の名前になって、妙に悪目立ちしないだろうか。
そんな不安が脳裏をよぎるが、隣で無邪気に目を輝かせるルナを見ていると、そんな考えも自然と薄れていった。
(まぁ、ここは任せてみるか……)
そんなふうに一人で納得している間にも、ルナの頭の中では順調に名付け会議が進んでいたらしい。
やがて熟考を終えたルナが、俺の方へ視線を戻して満を持して口を開く。
「もういっそのこと、ノクティスでどう?」
一切の工夫なし。思わず、ずっこけそうになった。
「そのまんまかよ。せめて、もうちょいひねってくれよ」
「えー、普通にカッコいいと思うんだけどなぁ……」
口では不満そうに言いつつも、ルナは俺から視線を外さないまま、指先を口元に添えて再び考え込む。
「んー、ノクティ……ノクタ……ノクチ……ノクテ……」
ぶつぶつと口の中で転がしながら、語呂を確かめているらしい。
頼むから、せめて無難で目立たない名前であってくれ。
そんな願いを込めて見守っていると、ルナが自信満々に顔を上げた。
「よしっ、決めた!」
その一言に、胸の奥がわずかに強張った。
この世界での俺の新しい名前が決まる瞬間。
たかが呼び名、されど呼び名。
これから長く付き合っていくであろう名前が、今まさに決まろうとしている。
ごくり、と喉が鳴る。
「ノクト、なんてどうかな?」
「ノクト……」
思わず、その名を小さく繰り返す。
ノクティス・ベガ。
そして、俺の本当の名前『天道暁斗』。
ルナは俺の本名なんて知るはずもないのに、偶然にもその二つが重なったような響きだった。
ほんの少しだけ不思議な巡り合わせを感じる。
しかも、驚くほどしっくりきた。
「ノクト……か……」
もう一度、今度は確かめるように口の中で転がしてみる。
響きは自然で、妙に馴染んだ。
借り物の名前のはずなのに、違和感もなくしっくりくる。
悪くないかもしれない。
そんな風に俺が新しい名前の響きを確かめていると、ルナがやわらかな声でその由来を語り始めた。
「ノクティスにどことなく似た君が、『愚者と約束の木』の逸話が残るこの国にやって来たのも、なんか運命っぽいじゃん?」
茜色の瞳が、夕焼けの光を受けてやわらかく揺れる。
「だから、彼みたいな『最強の愚者』になってほしいなって想いを込めてみたんだ」
ルナがやさしい声で、その名前に込めた想いを語る。
だが、その内容にはツッコまずにはいられなかった。
「いや、愚者にはなりたくないんだけど……」
「愛する人のために強くあれって意味だし、めっちゃ素敵じゃん!」
ぐいっと顔を近づけて主張するルナ。
俺はどこか気恥ずかしくて、逃げるように目を逸らすしかなかった。
「そもそも愛する人がいねぇよ」
「今はそうかもしれないけど、未来は分かんないでしょ?」
ルナはそう言って、どこか悪戯っぽく笑う。
「それに、君が自分の名前を思い出すまでの仮の名前なんだしさ。どうかな?」
黄昏の光に照らされながら、ルナは真っ直ぐにこちらを見つめていた。
冗談半分の軽い調子のくせに、その目だけは妙に真剣だった。
「まぁ、意味と由来はともかく、響きは結構気に入ったかも」
そう口にした瞬間、ルナの表情がぱっと華やいだ。
夕焼けに照らされたその笑顔は、まるで花が咲いたみたいに明るい。
「ほんと!? じゃあ、決まりね!」
嬉しそうに身を乗り出したルナが、にししっと悪戯っぽく笑って拳を差し出してくる。
「改めてよろしくね、ノクト!」
「あぁ、よろしく」
そう返しながら、俺も右手を伸ばし、ルナの拳に自分の拳を軽くぶつけた。
コツン、と乾いた音が響く。
たったそれだけのやり取りなのに、不思議と胸の奥が弾むような感覚があった。
新しい名前を得て、新しい人生が始まっていくような期待感。
何か壮大な物語が動き出したような高揚感。
きっと、この世界での生活は退屈しないだろうという確信。
胸の内に広がっていくその感覚を、俺は自分の中でゆっくりと噛み締める。
そして、熱を落ち着かせるように小さく息を吐いた。
視線の先では、夕陽がゆっくりと地平の向こうへ沈み、世界は少しずつ夜を迎えようとしている。
周囲の空気もわずかに冷え始め、黄昏に染まる巨大樹の姿もまた、静かにその表情を変えていく。
この日、ノクトとしての俺の人生が静かに幕を開けた。
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