Op.49「悪童は嗤う」
魔導戦艦の展望デッキに、魔力の嵐が吹き荒れる。
空気の密度そのものが押し寄せてくるような、見えない圧の奔流。
夕焼けに染まる木製の甲板が、悲鳴を噛み殺せず、ギシギシと軋みを掻き鳴らす。
その渦の中心にいるのは、魔術によって拘束された黒髪の青年。
彼を起点に、殺意を剥き出しにした魔力が、蒸気のように立ち昇った。
ゆらり、ゆらりと空間を侵食しながら、ゆっくりと広がっていく。
まるで、この場の全てを支配するように――
「あー、ははっ! なーんかもう全部どうでもいいや」
倒れていたはずの青年が、壊れた玩具のように笑いながら立ち上がる。
次の瞬間。
ビキビキッ――
飛行中の戦艦を囲う魔力障壁に蜘蛛の巣のような亀裂が走った。
同時に、彼を縛る光の鎖が、悲鳴のような軋みを上げる。
もはや、空間そのものが断末魔を上げているような異様な光景。
「……なによ、この魔力は……」
「こんなの、どうすりゃいいんだよ……」
「……これは、マズいですね」
この場に集まった世界調律騎士団の隊員たちは、唖然と立ち尽くしていた。
固唾を飲み、恐れるように後ずさる者。
動けず、震える手でブレードの柄を握り潰しそうになる者。
恐怖と絶望を混ぜた顔のまま、足元だけが小刻みに揺れている者。
皆一様に、同じ予感を抱いていた。
目の前の青年は、軽々しく手を出していい存在ではなかったのだ、と。
その結論に辿り着いた瞬間、誰もが遅すぎたと悟った。
そんな中、この場で彼らを率いるアレクだけが、己を叱咤して声を振り絞る。
「っ……ホルシュ! 拘束を――」
命令は、最後まで届かなかった。
パリンッ――
乾いた破裂音。
砕け散った眼鏡のレンズが、鮮血と混じり、夕焼けを背に宙を舞う。
誰も、何が起きたのか理解できなかった。
突如、黒髪の青年が、先ほどまでいたはずの場所から消えた。
そう思った次の瞬間には、ホルシュの眼前で邪悪な笑みを浮かべていた。
目にも留まらぬ踏み込み。
圧倒的な魔力で身体強化された者の別次元の動き。
青年の鋭い拳が、彼の下顎を容赦なく撃ち抜いた。
「がはっ!?」
衝撃で歯が鳴り、喉が潰れ、細身の身体がふわりと浮き上がる。
声にならない息が漏れた、その瞬間。
黒髪の青年の手が、ホルシュの顔面を鷲掴みにした。
指が頬骨に食い込み、皮膚が軋む。
彼から逃げるという選択肢ごと、奪い取る。
――ドンッ!!
刹那、強烈な勢いで甲板に叩きつけられたホルシュの身体が跳ねた。
「よぉ、メガネ君。さっきはよくもやってくれたなぁ」
底抜けに軽い声と邪悪な笑み。
まるで雑談の延長みたいに、ご機嫌な様子で語りかける。
そして、倒れ伏すホルシュの顔面へ靴底を置いた。
ぐっ、と体重が乗せられ、表情が物理的に歪んでいく。
「貴様っ! ワタシにこんな真似をして、どうなるか……!」
「どうなるんですかー? バカでも分かるように教えてくださーい!」
震える声で絞り出した威嚇。
それを聞いた青年は、煽るように鼻で笑い飛ばした。
「必ず貴様を……」
「知るかよ。バーカ!」
吐き捨てるような、子どもじみた言葉。
同時に、彼は容赦なくホルシュの顔面を踏み抜いた。
ドンッ――
甲板が大きく沈み、鈍い衝撃が波のように広がっていく。
木材が悲鳴を上げ、細かな木片が跳ねる。
踏み抜かれた勢いで、ホルシュの顔面は木製の甲板に深くめり込んだ。
血が、ゆっくりと滲み出し、夕焼けの赤と混ざり合う。
「ふぅー……スッキリした」
青年は足をどけながら、口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「……まずは一匹っと」
一瞬にして制圧されたホルシュ。
彼はこの場に集まった世界調律騎士団の隊員の中でも、二番手の実力者。
その男が弄ばれるように倒されたことで、他の隊員たちにも恐怖と緊張が走った。
誰も言葉を発せず、動きを止めたまま背中に嫌な汗だけが滲んでいく。
完全に硬直した時間。
それを破ったのは、隊長であるアレクだった。
「ホルシュっ! くそっ……総員、戦闘準備だ! コイツを絶対に逃すな!」
怒号に叩かれ、隊員たちは反射で武器を構えた。
己を叱咤し、震える手足を、無理やり固める。
そんな彼らを前に、黒髪の青年は楽しげに笑った。
「あっはは! 別に逃げないってー。空の上で逃げる場所なんてないんだしさ」
軽い調子で喋りながら、彼は肩をすくめる。
首を傾げ、挑発するように指先を、くいっと動かした。
「せっかくだし、仲良く一緒に遊ぼうぜ」
「ふざけやがって……!」
アレクは怒りで身を震わせながら言葉を吐き捨てる。
一方で、黒髪の青年は楽しそうに笑みを深める。
「ほら、どしたー? そんな人数いてビビってんの? さっさと来いってー!」
その煽るような言葉を合図に、世界が大きく走り出す。
アレクを筆頭に、世界調律騎士団の隊員たちが一斉に踏み込み、黒髪の青年を取り囲んだ。
こうして――
夕焼けに染まる展望デッキで、避けられない戦いの幕が切って落とされた。
♪―♪―♪
ホルシュが甲板に沈んだ瞬間、シアを拘束していた魔術もふっと霧散した。
だが、彼女はその場から動けずにいた。
小刻みに震える手足が、言うことをきかない。
意識がどこか遠のくような感覚。
それでもどうにか腕を伸ばして、隣に転がっていたルナの本を拾い上げ、抱きしめる。
「……すごい魔力……」
目の前に広がっているのは、展望デッキを覆い尽くすように渦巻く魔力の嵐だった。
空気そのものが重く、息を吸うだけで胸が軋む。
その場から動くことすら許さない、支配的な魔力が渦巻いていた。
その中心に立っているのは、黒髪で青い瞳の青年。
彼は全身から魔力を剥き出しにしたまま、狂ったように笑っている。
「あっはは! 別に逃げないってー。空の上で逃げる場所なんてないんだしさ」
軽い声で、悪ガキのようなふざけた態度。
けれど、その周囲に渦巻く魔力は、まるで獣が牙を剥いているみたいだった。
ついさっきまで、同じテーブルで食事をしていた青年。
少しミステリアスで、どこか穏やかな雰囲気の人。
だというのに、目の前にいる彼は、まるで別の生き物のようだった。
胸がざわつく。
本能が、逃げろと叫んでいた。
彼を敵だとは思っていないはずなのに、身体が勝手に震えてしまう。
それでも、シアは彼から目を逸らせなかった。
(もしかして……)
ふと、ある可能性が頭をよぎる。
(自分の魔力に……酔ってる?)
魔力酔い。
本来は、魔力の少ない人間が強い魔力に晒されたときに起きる現象。
眩暈や吐き気、意識の混濁などを引き起こす。
だが、例外もある。
ある程度の魔力を保有する魔術師や魔法師でも、薬やアーティファクトによって本来の魔力量や出力を超えたときに、精神が過剰に昂ぶり、理性が揺らぐことがある。
シアは魔導学院の授業でその話を聞いたことがあった。
また、ルナが以前に同じような状態になった姿を見たこともある。
(魔力量が桁違いだけど、やっぱりあの時のルナと同じ……)
記憶を失った彼は、魔力操作の方法さえ忘れている。
自分自身の膨大な魔力を制御できず、呑み込まれてしまっている。
シアは朦朧とする意識の中で、そう結論づけた。
「どうにかして、魔力を抑えるように伝えられれば……」
そうすれば、この状況を穏便に収められるかもしれない。
シアの胸に、わずかな希望が灯る。
だが、その瞬間だった。
「前衛陣で全方位から抑え込むぞ! 後衛はサポートしてくれ!」
野太い怒号が響く。
ブレードを構えた四人の隊員が、四方向から黒髪の青年へ踏み込んだ。
その動きは素早く、もはや捕縛を目的としたものではない。
純粋に相手を討伐するための動き。
シアは思わず息を飲んだ。
「待って! ……え?」
しかし、四方を囲まれて窮地の青年は笑みを浮かべていた。
まるでオモチャを与えられて喜ぶ子どものように。
そして、シアが瞬きをした次の瞬間だった――
「ぐふっ……」
「うあっ!」
「がっ!?」
「ぐぁあああああ!!」
悲鳴と呻き声が、ほぼ同時に弾けた。
四人の身体が宙を舞う。
何が起きたのか、シアには見えなかった。
気づけば、一人は白目を剥きながらその場に崩れ落ち、一人は逆方向に曲がった腕を押さえて甲板を転がり、一人は潰れた鼻から血を噴き上げて吹き飛んでいる。
そして最後の一人が、何かに振り回されたみたいに宙を回転し、木製の床へ叩きつけられた。
「あっはは! これが魔力ってやつ? すげぇなぁ! 楽しいなぁ!」
黒髪の青年は、両手を広げたまま壊れたように笑い続けていた。
その声音は無邪気ですらあるのに、シアの背筋には冷たいものが走る。
刹那、放たれたいくつもの銃弾が、夕焼けの光を裂いて走る。
だが彼は、それを踊るような軽快な足取りで躱していた。
紙一重、という言葉では足りない。
当たるはずの軌道を、最初から知っていたみたいに。
くるり、ふわりと身を翻すたび、黒い髪が揺れ、青い瞳がぎらりと光る。
その目は笑っている。
けれど、そこに宿る輝きは、どこか狂気的。
周囲に渦巻く濃密な魔力もまた、彼に呼応するみたいに大きく脈打つ。
空気がびりびりと震え、肌に触れるだけで痛い。
息を吸うたび、胸の奥まで魔力が入り込んでくるようだった。
目の前で起きているのは、もはや戦いではなく蹂躙。
今も、シアが瞬きをするたびに景色が変わっていく。
「ぎゃあああああっ!」
「安易に距離を詰めるな! 中距離を維持するんだ!」
「腕がぁああ!!!」
怒号と悲鳴が入り乱れる。
誰かが倒れ、誰かが吹き飛び、誰かの武器が甲板を滑って乾いた音を立てた。
目で追うことすら叶わない。
さっきまで立っていたはずの隊員が、次の瞬間には床に転がっている。
振り下ろされたブレードは空を切り、反撃しようとした腕があり得ない方向へ跳ね上がる。
銃を構えた後衛が引き金を絞るより先に、別の誰かが悲鳴を上げて崩れ落ちた。
何がどうなっているのか、もう分からない。
分かるのは、ただ一つ。
黒髪の青年が、楽しそうにこの場を蹂躙していることだけだった。
(こんなの、どうしたら……)
シアは胸に抱えた本を、ぎゅっと強く抱きしめた。
爪が表紙に食い込むくらい力を込めても、身体の震えは止まらない。
「ルナ……早く来て……」
唇からこぼれ落ちたのは、祈るような小さな声だった。
その言葉に根拠なんてどこにもない。
それでも、シアは確信していた。
今の彼を止められるのは、きっとルナだけだと。
だが――
その願いを待つ暇さえ与えないまま、事態はさらに加速していく。
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