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アカシック・レコード  作者: The third eyes
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20/23

第19章 科学と宗教について



私は本書の冒頭にて

「人類は無条件に神に頼れるほど幼くはない」と書いた。


しかしそれは何割かの人々にとっては

許されざる冒涜として非難されてしかるべき内容であり、

その非難は正当なものである。


私は彼らのいうとおり「神々の理論」についても、

もっと理解を深めるべく努力をするべきかもしれない。




また次元理論では、

標準宇宙理論とは相反する内容をとりあげて、

それを新たに展開することもしてきた。


これも物理学者たちにいわせれば、

無知の極致として嘲笑されてしかるべき内容であり

私はもっと現代物理学の基礎からを理解し、

検討しなおす必要もあるのかもしれない。




けれども私にも「次元理論の著者」として、

彼らと同様にこの「次元理論」を理解していただけるよう

努める義務があり、私はその希望を持つ。



それが著者の「個性」としての役割であり、

自我世界をより広げるための「共有」なのだ。



これまでの私に実に多くの人々が

「新しい視点」を与えてくれたように、

私も自らの視点が数多くの人々の

「第3の瞳」となることを望んでいる。




このように「正当な見地」とは、

それを育む「知識」にこそ由来する。



知識は与えられることによって

人間はそこに自分の自我世界を形成する。

その理解が文化として育まれたのである。


つまり自我世界は理解によって創造される。





そして人間が「求め続ける力学」である以上、

我々の世界に対する探求心も尽きることはない。



こうして人類に蓄積された

世界に対する探求心の結果として

科学や宗教は生まれてきた。



そしてこの「科学と宗教」は

歴史上幾度となく対立し、

あるいは融合をくりかえすという

特別な経緯をもつものである。



これは自我世界が理解によって広がるものである以上、

科学や宗教という「知識を与えること」によって

自我世界のベクトルは決定付けるからである。



つまり科学と宗教は、

人々が求める真理という側面と同時に

知識を与える側にとっては自我の統率という

人間の統合にむけた甘美な罠でもあった。



本当の正しさ、という幻惑。



人間は確かに「ひとつにつながること」を望む。

そしてそれと同じ想いとして

「ひとつにすること」を望む。



だがその真意は

「つながる先が無限大に世界に存在する構図」なのだ。

全ての人々が持つ「統合」への希望は

「さらなる多様性を生みだすためのもの」である。



この「多様性の創造」のために

我々には豊かな個性と

統合されてはならない無数の希望がある。


世界の可能性広げること。

(世界に個性を与えること)


それが多様性の創造であり、

「宇宙」と「宇宙と同じものとして存在する全ての我々」の

同じ構造である。







つまり現代に至るまで、

必ずしも科学が優勢で

宗教に勝利したというわけではないのだ。



それは現代科学が「信じること」を前提に構築されたという、

次元理論の見識のしめすとおりである。




宇宙は科学的に構築されたに違いない、

という信仰を科学と呼ぶのであれば、

人間を取り巻くほとんどの現実は

いまだ未知の領域である。



そしてその無理解の全てを「未知なるもの」と認め

けれども真理はここにありと奢るものが科学、

一方で全ての責任を「未知なるもの」に押し付けて

人間の責任を転嫁するのが宗教とすれば、

人間は「信仰心」の行き場を失ってしまうだろう。




この合理的な宇宙で、

あるいは万能であるはずの神々が、

そんな無駄な欲求「信仰心」を

我々人間に与えるはずはないのだ。




現実世界においては、

現象が定義を生みだしたのではない。


原理が定義や法則を創りだしたのである。


そして現象はそのあとにのみ続く。





つまり本当の科学とは

「原理や法則をみつけだすための手段」ではなく、

なぜ原理や法則がそこにもたらされたのかを、

我々に理解させるものでなければならない。



そしてそのために科学とは

その全てが「理解できるもの」でなくてはならず、

たとえ消えない疑問を記号に置き換えたところで

その解答にたどりつけるはずもないのである。



記号によるパズルゲームは科学でない。

我々は根本的な理由を知らなければならない。

(数字も記号である)



それが為せない限り、

現代科学も「科学であることを目標とする」

信仰の枠から抜け出すことはできないだろう。



科学とは真実であり、

事実であり、現実でなければならず、

故に知識の根幹であり、

「サイコロを振らない」この世界の

予定調和を示さなければならない。



科学は人間が作り出してはならない。

科学はこの世界の構造によって

我々人間が学ぶものである。





そして宗教における「信仰心」も

それは全ての人間が「はじめからもつ」感情である。


それは決して

特定の神によって用意された、

人間の精神の仕組みではない。



「信仰心」は人々が

世界から理解されることへの願い、

あるいはその孤独を満たす願望として、

この宇宙や他の対象へと向けられた

愛情や畏敬の念である。



つまり「信仰心」とは、

神様の為だけに準備された感情ではなく、

人間に備わる「求める心」として、

全ての自我世界の希望である。





もちろん「この世界」を「神」として

認識する事は間違いではない。



けれどもその前提として

この世界と神が「おなじひとつの概念」であることを

我々は「理解しなければならない」。



この永遠に存在するこの世界に対して、

その力学を引き継ぎながら

永遠の時間を追いかける我々人間。



それは次元世界としての人間に

発現した力学なのであり、

その力学の中心には「自我のもつ虚空」がある。



人間の持つ

決して満たされることのない心。



その空白を埋めようとして本能が生まれ、

「信仰心」や「求める心」、

そして理解によって満たされる「満足」がある。


これが人間原理なのだ。


これは愛の法則である。







宗教の「正しさ」は、

決して他人からは否定されるべきものではない。



けれども宗教に加入することだけが、

真実に寄りそう

ただひとつの道ではないのだ。



本当の科学であれば、

神の所在も求められるはずである。





したがって宗教の教義も、

科学であれば検証のできるものであるし、

神は実在し、その姿は我々の内側と外側にも

同様に見つけだすことができるはずである。



このように「信仰心」とは、

この「世界」に対して向けられた

人間の融合を求める本能(欲求)である。



そしてここで言う「この世界」とは

次元世界のことであり、

それは人間、物質、自然界などの、

あらゆる現象のそのなかに共有された

結局はひとつの同じ概念なのだ。





全ては「ひとつの世界」の

同じ「存在する無」から生まれた

同じ力学である。



我々の「求める心」は重力であり

本能なのだ。





長年にわたり対立をつづけた「科学と宗教」。


これは科学と宗教が、

ともに「真理」の2面性、

同じものの表裏を見つめつづけた

同じ探求の競合関係であったためである。


真理の探求。


そのことは次元理論によっても

説明づけられることだろう。



科学と宗教は、

それぞれがともに「世界と人間」とを

人間が理解するために必要とした

「知識」である。


人間の虚空が育む「さまよう心」は

真実を見つけるための世界の構造(欲求)なのだ。



それが分かれば次元理論は

「科学とは何か」、「宗教とは何か」というように、

それぞれをより深く追求するための

「さらなる視点」ともなれるのである。



それは同時にこれまでに行われた

全ての哲学の解答でもある。




「知識」は「信じるもの」ではない。

「理解するために学ぶ」べきものなのだ。




科学と宗教はともに人類の歴史を創り、

我々の生活とは切りはなすことができない程に

人間の形成とは深い結びつきをもつ。


だからこそその根底を

我々が理解することは、

そのままで宇宙と自我世界の本質を

我々が理解することである。




科学や宗教の前に、

我々は世界のあり様を

理解しなければならない。



これが学問である。



科学とは何だったのか、

そして宗教とは何か。



これも我々が知るべき「知識」であり、

その知識が我々を「さらなる信仰」、

あるいは「さらなる科学」へと導くことだろう。




我々が追い求め、

ずっと見続けてきた「同じもの」の姿。


その「同じもの」がつくり出した

現実世界の異なる様相。



我々はこの世界が存在する理由を理解し、

科学と宗教を肯定するものでなければならない。



だからこそ科学も宗教も共に

間違ってはならないものなのだ。







ではこの「科学と宗教」の本質を理解するために、

次元理論における植物世界の問題にまで、

再び話をもどすことにする。



これは先ほどとおなじく

「植物は意志をもつのか、あるいは意志はもたないのか」

という疑問である。




次元理論においても、

植物はその器官に精神をやどすという構造は持たない。



したがって「植物は意志をもたない」ということが、

ひとつ目の「事実」である。



けれども植物世界も、

概念的には「生きていたい、存在したい」という

ゆるぎない意志を保持することは、

次元理論における重要な認識であった。



空間を持つこと、

時間を持つこと、

物質であること、

遺伝子をもつこと、

そして命を持つこと、

それ自体が「生命世界」の意志なのだ。



命に先行するのは

物質世界における力学であり、

すなわちこの「生命の形」も既に世界の意志である。



したがって「植物世界は意志をもつ」、

これが二つ目の「事実」である。




無はあるのか、ないのか。



ゆえに次元理論でのこの議論は、

最終的に「無は0次元に存在する」、

あるいは「0次元は無ゆえに存在しない」という問題にまで発展し、

持ちこされることになるだろう。



つまり「学術的」な見識による次元理論では、

「植物は生命の生き残るための形態であり、

生きていたいという意志、想いは持たない。

あらゆる可能性の中で生き残ることに成功した遺伝子だけが、

今もなお存在をつづけている。これは生命世界の力学であり、

脳をもたない植物世界にとっては当然の認識である。」

と結論づけることになる。



この認識は、

「0次元は存在しない。

0次元が存在しないからこそ1次元世界は生まれ、

2次元世界、3次元世界へと次元世界は昇華する。

最終的に5次元世界は存在する。

したがってそれ以前の次元世界は、

現実世界としては存在するものではない。

次元原理はこの現実世界の中にこそ、共有されている。」

という解釈を成りたたせるものである。



そしてこの科学的思考は、正しくもあり現実的である。

けれども科学者たちがいくら否定しようとも、

次元世界の概念的な存在までを

否定することはできない。



なぜなら「0次元」の概念が実在しなければ、

この宇宙もまた次元世界として

現実に誕生することはなかったからである。


科学は実在によって成立する。


したがって「次元共有の大原理」は、

「宇宙、あるいは科学の真理」ではあるが、

これを神々の奇跡とよぶ人々がいれば、

科学に神を否定することはできないのである。





一方たとえ概念世界でも、

物理的な実証が成されればそれは存在するものとして、

我々のこの現実世界の存在こそを

異なる次元世界の存在する証しとするものが、

宗教的、思想的な見地に立つ次元理論である。



こちらの次元理論では、

「次元共有の大原理は、植物世界に種族拡大の法則をあたえた。

これは生きていたいという生命自体の願いであり、意志である。

0次元世界が存在するからこそ世界は誕生し、

植物世界の力学も

同じ世界の力学としてそこから生まれている。

当然ながら我々(自我の力学)も、彼らの願いや想いにふれ、

共感することはできるはずである。」

という立場を明確にする。



この認識は、

「0次元は存在する。0次元が現実世界として存在するからこそ、

全ての次元世界も同様に存在している。

人間の存在についてもそれは同様であり、

あらゆる次元世界は0次元によって統括されている。

つまり次元原理の中にこそ、この世界は共有される。」

という、先程とは異なる視点の現実世界を出現させることだろう。



我々とは異なる次元世界の存在を、

現実世界としても存在するとして結論づけたのであるが、

こちらも決して間違いではない。



けれども宗教家や思想家たちが、

「ある特別な次元世界の存在」をいくら肯定しようとも、

概念世界は異次元世界に「存在するもの」ではない。

概念世界が「現実に存在する」のは「この世界の内がわ」であり、

それが「現実に世界の構成要素」である。



したがって「次元共有の大原理」は、

確かに神の意志、あるいは神々の奇蹟ではあるが、

それを「宇宙、あるいは科学の真理」として研究し

探究する人々の存在も、

彼らは同様に認めなければならないのだ。





このように次元理論では、

次元世界の概念を追求するものが「宗教」であり、

概念ではなく次元世界の原理を理解しようと努めたものが

「科学」である。





この世界の中の全てに大原理が共有されるのか、

大原理の中にこの世界が存在するのか、

そこに違いがあるだろうか。




したがって彼らがともに求めたものは

「宇宙の真理」であり、


「我々はどこから来たのか、そして我々はどこへ向かうのか」


という人類にとっての共通の命題であることに、

何ら変わりはなかったのだ。




存在するものとして無を捉えるのか、

無である故に存在しないものとして捉えるのか、

無にたいする解釈が異なるだけであり、

それはひとつの同じ理解である。



力学と捉えるのか、

意志と捉えるのか。



「存在する無」の内側に広がる世界と

無が存在する為にその外側へと広がる世界は

同じものである。

存在しないものの、

内側と外側が等しくこの「世界」なのだ。


それは同時に「わたし」とも

同一のものである。



人類史において、

あらゆる学問、

そしてあらゆる信仰の原点は

ここに回帰する。





世界を作り上げた「無の力学」を

神の意志として認識し、

この世界の全てを「ひとつの神の姿」と捉える。

それは現実に対する正しい「捉え方」である。


そしてこの同じ「無の意志」を物理学として認識し、

この世界の全てを等価原理によって認識する。

これも今後の科学の正しい着地点である。






どちらにせよ物理学における重力は

宇宙の意志であり、

人間の意志が宇宙の物理学である以上、

正しい科学と正しい信仰は同じ理解(知識)である。



科学と宗教は

そこにたどり着くための

同じ道筋だったのだ。





この根本的な理解があれば、

枠組みの相違など些細な違いに過ぎない。




宇宙を理解することは

神を知ることであり、

それは自分自身を理解することである。









はじめて夜空を見上げて

この宇宙の存在に気づいた頃の人類と、

今を生きる我々の間に、

果たしてどれほどの違いがあるというのだろうか。



おそらくこの両者は

ほとんど何も変わらないはずである。

我々と彼らとの間に違いがあるとすれば、

それは共有する知識と経験の差でしかないのだろう。



とすればこの「知識と経験」が、

我々と彼らとを分かつ最大の要因である。



したがって「科学と宗教」によって、

自我世界は育てられたのだ。



そして「知識」とは

絶えずこの世界に共有されて、

それを見つけだしてきたのが人間の歴史である。



そこにある「本当のこと」。



ゆえに知識には、常に正確さと正しさとが求められたのだ。



けれどもこの「知識」が不完全である期間、

我々は感性が知る正しさを

その指針とするしか方法をもたなかった。




「感性が知る正しさ」とは、

各々の人間が「感じることの正しさ」である。



だが一方の理性も

知識の基盤が伴わない現状では

各々の人間が「信じることの正しさ」である。




つまり実際は、

「感性によって認識する正しさ」と、

「知識によって認識できる正しさ」は

同じものでなければいけなかったのだ。




世界を科学的に見つめるまっすぐな瞳と、

世界の力学に心を重ね

同じものとして歩む人間の信仰心は、

同じ感性であり同じ理性である。





だが現状では

我々の認識が及ばない現実として、

個々の正しさの乱立する時代が続いてる。



これはまだ正しさの生まれる前の状態である。

本当の正しさとは「現実」でなければならない。




無数の価値観が生まれることは「正しいこと」であり、

「各々の正しさ」が生まれてこないことが「間違い」である。



まず我々は

本当の正しさとは他者を否定しないものであることを

学ばなければならない。




その知識の根幹を今、

我々は共有する必要がある。



それはこの宇宙の仕組みとして、

あらゆる世界の力学として、

この世界を統括する原理である。




次元理論ではそれを「次元共有の大原理」と呼ぶ。




けれどもそれを「科学の真理」ととらえることも、

「神々の奇跡」として唱えることも、

ともに間違った事ではなかったのだ。



宗教家や思想家、科学者たちも、

それを知るために扱う視点がことなるだけで

本来はおなじ目的をもち、

同じ探究をすすめる人々であることに変わりはない。



だからこそ彼らは、これまで争うことも、

そして手を取りあうこともできたのである。




本当の科学は

神を愛する。




次元理論によって科学と宗教の

それぞれに助言できることは、

宗教家たちは神の存在によってその思考を停止させてはならないし、

科学者たちは数式によって

感じることを止めてはいけないという事である。



宗教家たちが真の信仰へとたどりつく為には、

「0次元」の実在を認識し、

我々の神々の所在を明らかとし、

ほかの宗教や神々を必要とはしない人々の存在を

決して否定してはならない。


偉大なる神は

その思想に関わらず全ての人間を平等に包み込み、

この宇宙の全ての力学を彼の力で統括し世界を導くことを

我々は知るだろう。




そして科学者たちが宇宙の真理へとたどりつく為には、

「次元共有の大原理」を理解し、

人間の感性を信じるしか方法はないのだ。


感性と理性は同じものである。


無と等価なものとして全ての宇宙は存在し、

世界は同じものとして

「ひとつの力学」によって確立する。


その結果、あらゆる現象は

「同じ」個別の力学を発現させたのである。




おそらく科学と宗教は、

それぞれがさらなる領域を

広く残こしているはずである。





かつてまだ「科学」が未熟であったころ、

人間の世界を守ってきたものは「信仰」であった。

信仰によって人間は「知識」へと導かれたのである。


けれども間もなく

今度は知識が信仰を高めるという時代も

逆に訪れるのかもしれないのだ。



私には科学や宗教は、

世界が人類を高め広げるための

「双子」のような存在にも思えている。


それは「同じ信仰心」である。


もともと我々を導く為にある「あらゆる知識」が、

「この世界」によって共有されたものである以上、

これは当然のことである。




「科学」も「宗教」も、

「次元世界」としての現実が

我々人間にもたらした「異なる視点」である。




けれども私はそのことによって、

科学と宗教の統合を果たそうとするわけでは断じてない。




我々が認識すべき現実は、

「人類はおなじ価値観をもって生まれ、

科学も宗教もそのおなじ価値観から生まれた同じ目的であり、

我々が同一であることに変わりはない」

という事実である。



人類はこの一点において、すでに統合されている。



人類はその「数多の視点(第三の眼)」において、

一つの物事をあらゆる観点から

同時に検証する能力をもつ。

そしてその主観を共有することによって初めて、

我々はその事象に対する本質的な理解を、

さらに深めあうことができるのだ。



私が期待するのは、

人類がもつこの「第三の眼」である。





この「数多の目」が、人類の力の集大成であり、

人間にやどる最大の理解力、

あるいは創造力である。



次元理論であれば、

本来共有するべき者同士が今なお否定しあうその姿に、

いつかは和解をもたらすことも

出来るのではないだろうか。




また次元理論においては、

「この宇宙は永遠である」ということを人間が理解することは、

「人間の可能性にも限界はない」ということを、

我々が理解することと同じである。



これまでの人類が感性によって認識してきた現実を、

今度は「知識」としても理解する。


それは、不安に満たされていた存在への疑問を

その知識によって確定することである。




この態度は人間が「存在することへの不安」を振り払い、

我々が生きることへの「確信」を手に入れることである。


それが我々が次元理論を学ぶ、

その意義である。

次元理論によって感性に知性が追いつく日は、

必ず訪れくるはずなのだ。


「感性と知性の不調和」


この不安定さが、

現在の我々のかかえた「もろさ」である。



けれども「相互に高め合う感性と知性の間に

存在する自我」という

ゆるぎない構図が我々にもたらされれば、

人間は「自我」という次元世界を恒久的に確立し

広げつづけることもできるだろう。



それによって「科学」や「宗教」に代表された

我々の「探究心」や「信仰心」も、

さらなる発展をとげることができるはずである。





ここまで次元理論がしめしてきたように、

人間は意志をもたないあらゆる次元世界に対しても、

「概念としての意志」を感じとる能力をもつ。



力学と意志は等しい。



それは認知力というよりもむしろ理解力であり、

もはや想像力という方が正しいのかもしれない。



けれども次元理論においては、

第8次元「自我世界」は

無からはじまる時間や空間、自然、生命、精神という、

第7次元世界までの

全ての次元世界を共有する「宇宙」なのだ。



つまり自我の構成要素には、

宇宙や自然、そして命など、

我々の身の回りに存在するあらゆる概念が

最初から全てふくまれている。



その結果「次元理論」は、

「この宇宙は自我であり、自我もまた宇宙である」という

結論にまで到達した。



そして我々の自我は、

そのことでさえ最初から知っていた。



この「多重次元構造」という現実世界が

宇宙の構図であるからこそ、

人間が世界を理解することは

そのままで自我世界の探究へとつながったのである。



したがって人間は

「この世界を理解しなければならない」という必然性をもって

ここに生まれている。



この世界を正しく理解することが、

人間が人間を知るための唯一の方法であり、

人間もまた「この世界を理解すること」を望んでいる。



人間は「分かりあえること」をその希望とし、

それが人間の果たすべき義務なのだ。





学問や信仰、音楽、絵画、文学などの、

人間の創作活動における究極のテーマは

常にこの「次元共有の大原理」である。


その原理において我々の自我は、

過去、現代、未来と変わることのない存在である。


そのために自我世界は

「次元共有の大原理」を目の当たりにするにつれて、

それだけで時間をこえても共有することができるのだ。



果たして「彼ら」はどのような立場で、

どの場所からそれを見つめたのか。



その視点を共有することが重要であり、

その体験が「我々」の自我世界をさらに拡大する。

これもまた人間の「数多の目」の成果である。



これまでの「科学」が「芸術」からは離れた場所にいたのも、

そのことが理解できなかったためである。



「科学」と「芸術」、

この双方もおなじ場所から出発した、

おなじ人間の「求める心」である。







さらに自我世界は当初から、

「我々はどこから来たのか、そして我々はどこへ向かうのか」

という人類共通の苦悩を背負って誕生する。



この「さまよえる心」は、

自我世界における「自我の空間穴」であり、

その結果人間には「求める心」も発現する。



それを模索した結果、宗教は生まれ、

科学や芸術は誕生したのだ。



したがって人間は

たとえ特定の宗教に属することはなくとも、

この宇宙に対しては絶えることのない信仰心と探究心をもつ。



だからこそ人間がもつ「苦しみ」とその「信仰心」は

同一なのである。



このように宇宙や自然、

命の神秘にふれるにつれ我々は、

この宇宙を統合する不変の原理の存在を認識するだろう。



そしてその時にこそ我々は、

自分たちもその一部分であるという現実を

自覚することができるのだ。




この「次元世界をささえる」という意味においては、

宇宙や人間、全ての生命体、命をもたないあらゆる存在が

全て「等価」である。






結果として次元理論は、

世界宗教であるキリスト教やイスラム教を

理解することもできるだろう。


力学は意志であり、

愛であり、

世界は等価である。


あるいは次元世界の構造を表図として現わしていけば、

それは仏教でいう曼荼羅である。


姿を変える統一神も

次元理論では同じ力学として理解出来る。


次元理論が「世界理論」として存在する以上、

あらゆる「科学」のみではなく、

ほとんどの「宗教」までを理解していけることは

当然のことである。



けれども逆に

そのことが次元理論のもつ「危うさ」でもある。



次元理論によって自分たちの「聖域」が侵されたと感じる人々は、

科学界にも、宗教界にも、同様に多数存在することだろう。



だが誤解だけはしないでいただきたい。

次元理論は科学や宗教を否定するものではなく、

科学や宗教のもつ「正しさ」を証明するための学問なのだ。



いかなる場合においても、

世界に対する人間の探究心は正しい。

この世界が「正しい姿」をもつからこそ、

我々の知識もまた磨かれるのである。


そのことが、自我世界が

宇宙や自然に共有されるその所以である。



そして貴方々のもつ科学や宗教がもし「正しい」ものであれば、

「次元理論」はその探究をさらに深めるための

「手引書」ともなれるはずである。




そして将来、

さらに発展した科学と宗教は、

それぞれがともに

同じことを物語るだろう。









人間はだれもが皆、さまよい悩み苦しんだ分だけ、

強くなれる可能性を宿している。


人間がもつ「虚空」、これが大きければ大きいほど、

人間が引きよせる「空間」もまた同時に広がるのだ。


したがって憎しみは愛と等しく、

臆病は勇気である。

心に闇をもつ人々は光を求め、

痛みを知る人間はかぎりなく優しい。

傷ついた人たちは皆、我々の希望である。


さらに愛は憎しみであり、

勇気は無謀である。

心に光ある人間は闇を自覚し、

優しい人間はかぎりなく冷酷にもなれる。


求める人々よ、

あなた方は決して否定してはならない。


あなた方が探究をつづけるのであれば、

その全てを背負う以外に方法はないのだ。


しかしあなた方を導くのも、

またあなたが背負う「彼ら」である。

そしてあなたもまた、人類の希望である。




人間は「空間穴」と「重力」とをあわせ持つ、

一つの「原子」である。



「存在する無」という世界は、

その内側に完全無という永遠の奥行きと

その外側に無限大という悠久の拡大を

同時に創り出してしまう一つの「あなた」である。




我々はひとりとして

自らの奥行きを求めなければならない。

宗教によって。


我々は世界として

世界の拡大を求めなければならない。

科学によって。



それは同じ

「求める希望」

である。















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