第9話 「追放」その一
3489年 木乙月 第一風甲日
自分にこれほどの力が出せるとは、イノリは夢にも思わなかった。
体が勢いよく前へ踏み出し、腕がばねのように伸びた。
フィルをつかめば肩が外れるかもしれない。それでも歯を食いしばり、ためらわずに手を伸ばした。
鉤爪のように開いた五本の指が、フィルのマントに届こうとしていた。
限界まで反応したつもりだった。それでも、一歩遅かった。
人差し指の先がマントの裾のひだに触れた瞬間、少女は視界から消えた。
「フィル! だめだ!」
次の瞬間には、少女の体が真っ赤な血に染まるのかもしれない。骨と肉の砕ける音も、きっと聞こえてくる。
イノリは恐ろしくなって目を閉じた。
「やっほー――」
フィルの歓声が空に響いた。
イノリは驚いて目を開け、信じられない思いで下を見た。
少女の体にまとわりつくようにはためいていた黒いマントが、いつの間にか大きく広がっていた。
まるで魔力を宿しているかのように、マントは強風を受けた黒い翼となって、少女を乗せて空を滑っていた。
流星のように地面へ落ちるはずが、今は暴れ回るカラスのようだった。
この速さなら墜落死はしないだろう。けれど、フィルにも着地の仕方はまるでわかっていないようだった。
「ああ――」
うろたえた少女が、力のない悲鳴を上げた。しばらく空中でもがいていたが、やがてすっぱり諦めて、自分の運命をすべてマントに委ねた。
この空中曲芸を見物していたイノリも、思わず手に汗を握った。
幸い、運はフィルの味方をした。
彼女は芝生の上に高く積まれた桜の花びらへ、隕石のように突っ込んでいった。イノリはそれをただ見ているしかなかった。
ぼふっ!
桜が四方へ舞い上がった。
大きな箒で芝生を掃除していた少年が、どんな絶望よりも絶望に満ちた悲鳴を上げた。
イノリが駆けつけたとき、フィルは目を回して草の上に寝転がっていた。
「ぺっ――」
口に入った花びらを勢いよく吐き出し、苦しそうに二度咳き込んだ。
「お前、どれだけみんなに迷惑をかければ気が済むんだよ!」
イノリはフィルの顔の上に手をかざした。少し力をため、人差し指で容赦なく鼻先を弾く。
「痛い!」
フィルは跳ねる魚のように飛び起き、赤くなった鼻先を押さえた。
怪我はしていないらしい。イノリはほっとした。
あまりにしょんぼりした顔をしているので、それ以上責める気にもなれなかった。
「とにかく、もうこんなことはしないでくれよ」
声も少しだけ優しくなった。
「でも、出ちゃだめって言ったのはイノリくんだよ」
「あれは冗談だよ……何でもそんなに真に受けてたら、生きてるだけで疲れると思うけど」
イノリの目がフィルのマントに留まった。端を二本の指でつまみ、軽くこすってみる。手触りから何か特別なところがわかるかと思ったが、何も感じ取れなかった。
「そのマント……普通のものじゃなさそうだね」
フィルは得意げに目をぱちりとさせ、マントに付いた花びらをそっと払い落とした。
「『霧の紗』っていうんだ。高いお金を出して買ったんだよ。すごいでしょ」
「グライダーにするために?」
「君のおかげで、二つ目の使い道も見つかったよ。ありがとね、イノリくん」
「じゃあ、一つ目は?」
フィルは人差し指を唇に当て、もったいぶった顔をした。にこりと笑い、フードをかぶる。
「よく見ててね――」
少女の姿が少しずつ透け、やがて完全に空気に溶けた。
突然、世界から消し去られたようだった。ほんの一瞬、初めから隣には誰もいなかったような気さえした。
「じゃーん――」
次の瞬間、何もない空間に再び姿が現れた。
イノリは思わず拍手をしていた。
「姿まで消せるの? 僕も一着欲しくなってきた」
「それなら、ずっとずっと遠くまで行かなきゃね。でも、そんなにすごくもないんだよ。じっとしてないと、すぐに見えるようになっちゃうから」
不思議なマントの話に、イノリは夢中で耳を傾けた。すっかり、異郷から来た目の前の少女に興味を引かれていた。
フィルも、少しはしゃぎすぎたと気づいたらしい。咳払いをして、話を元に戻した。
「さっきも爆弾魔の立場になって、どんな行動を取るか試してみたんだ。えっと、変なのはわかってるけどね。でも、あらゆる可能性を考えなきゃいけないでしょ」
その調べ方には、イノリは賛同しかねた。誰もが霧の紗を持ち、地面に叩きつけられて潰れる運命を免れられるわけではない。
「先覚塔の外側は全部、ものすごく強い魔法結界に守られてるんだ。まず壊せないと思っていい。爆弾魔が本当にやるとしても……まさか、外壁に爆弾を貼りつければ吹き飛ばせるなんて思ってないよね?」
「そうなんだ。そこまですごいとは思わなかったな……じゃあ、どうすればいいんだろう?」
「それは中から壊すに決まって……あっ、待って――」
日常会話に罠を仕込まれるのは好きではない。また誘導されたと気づき、イノリは慌てて口をつぐんだ。
「本音が出ちゃったね、イノリくん」
少女はにこにこと、こちらをからかうように笑っていた。
またしても思うつぼだ。イノリは悔しさに、自分の太ももを何度も叩いた。
こんなつかみどころのない少女を相手にしていると、普通に付き合うだけでも心身ともに疲れ果ててしまう。
言い返す気力もなく、かえって諦めがついた。
話題が「爆弾魔」に戻ったことで、ふと思い出した。
イノリは真面目な顔で咳払いをした。
「実は僕、あの爆弾魔を見たかもしれないんだ」
一言ずつ、胸の内の秘密を打ち明けた。




