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第8話 「俯瞰」その三

 イノリは一人で奥の部屋へ駆け込み、振り返って勢いよく扉を閉めた。

 

 室内は数分前と変わらず、風が好き勝手に吹き荒れていた。


「フィル!」

 

 大声で呼ぶ。


「イノリくん――」

 

 フィルの声が聞こえ、イノリはひとまず胸をなで下ろした。だが、まだ姿が見えないことに気づき、不安に駆られてあたりを見回す。


「フィル! どこにいるんだよ! かくれんぼに付き合うつもりはないからね!」

「こっちに来て――」

 

 声はバルコニーのほうから聞こえるようだった。

 

 そこでようやく、風がすでに手がかりをくれていたことに気づいた。部屋の突き当たりの掃き出し窓が全開になっている。だから、風が遠慮なく吹き込んでくるのだ。


「まずい!」

 

 緊張で喉が詰まりそうになった。迷わずバルコニーへ駆け出し、金属の手すりを強くつかんで、懸命に地上を見下ろす。

 

 ユナの執務室は先覚塔の十五階にあり、地上までは相当な高さがある。もしここから落ちたら――

 

 その先は考えたくなかった。

 

 幸い、地面に倒れている人影は見当たらなかった。けれど、フィルの行方はいまだにわからず、焦りは募るばかりだった。


「上を見て――」

 

 イノリは勢いよく顔を上げ、パンツを目にした。

 

 真っ黒な三角形のパンツ。後ろの右側には、真っ白な羽根のかわいらしい刺繍があった。

 

 フィルは頭上三メートルの位置に張りついていた。その姿はヤモリそのものだった。

 

 心の中で彼女の危なっかしい行動に悪態をつきつつ、見事な身のこなしには感心していた。仕方なくため息をつき、察して左へ数歩よける。

 

 フィルは手を離し、隣へ軽やかに降り立った。


「クライミング部の場所なら、今すぐ教えてあげるよ。それと、本当に好きでやるなら、ミニスカートとサンダルはやめたほうがいいと思う」

「まあまあ、落ち着いて。何も見えなかったでしょ?」

 

 少しは恥ずかしがるかと思ったのに、まるで気にしない軽い返事に、イノリはたちまち腹が立った。


「丸見えだったよ! ねえ、新入生でも、自分の安全とか人目とか、少しは気にしてくれよ!」

「うーん。ただの調査なんだけどな」

 

 少女は平気なふりで肩をすくめた。


「イノリくん――爆弾魔なら、この塔をどうやって吹き飛ばすと思う?」

 

 そう言いながら、いたずらっぽくイノリの目を見つめる。


「それなら、きっと――ちょっと待って!」

 

 言葉の罠にはまったと気づき、イノリは慌てて口をつぐんだ。悔しさと気恥ずかしさに、拳を握り締める。


「僕は爆弾魔じゃない! どうして疑うんだよ」

「えっと……僕だって疑いたくはないけど、イノリくんの疑いが晴れたわけじゃないでしょ?」

 

 友人として、真犯人を捕まえる手伝いに来てくれたのだと思っていた。何もしていない自分のほうが疑いを晴らせずにいる。その悲しい事実に気づき、イノリはがっくりとうつむいた。


「ねえ、そんなに落ち込まないでよ。僕もイノリくんの無実を証明したくて、ここで真面目に調べてるんだから」

「そんな調べ方あるかよ! 先覚塔はこんなに高いんだ。僕らの名探偵に転落死なんてしてほしくないよ」

 

 イノリは両手を広げ、呆れまじりに言った。顔を上げ、雲の中へそびえる塔の頂を指す。


「そうだね。本当に高いね……」

 

 フィルはイノリの指すほうを見なかった。その目にかすかな寂しさがよぎり、独り言のようにつぶやく。

 

 しばらく黙ったあと、再びイノリをまっすぐ見つめた。


「イノリくん」

 

 声も真剣なものに変わっていた。


「君が見上げるのは、塔の頂。僕が見下ろすのは、塔の影。君が見つめているのは、雲に覆われた明るい空。僕が見つめているのは、塔の影に覆われた暗い世界なんだ」

 

 新しくやって来たこの探偵には、頼れる相手であってほしいと期待していた。

 なのに、突然こんな感傷的でわけのわからないことを言われると、実は見かけによらず中二病の少女なのではないかと疑いたくなる。


「そんなくだらない話をしてる暇はないよ」

「そう」

 

 澄んだ湖のような紫の瞳に、塔の影が映っていた。冷たい態度のイノリを前に、少女は失望したようにため息をつく。

 

 その気持ちを察し、イノリは一瞬ためらった。だが、すぐにまた顔を引き締める。言葉を優しくするつもりはなかった。


「ああ、そうだ。お前、しばらくここから出ないでくれよ。向こうに、お前を歓迎してない人がいるんだ」

 

 部屋に入ってからの出来事を振り返ると、世界中が自分に逆らっているような気がした。何もかもを混乱させているのは、間違いなく目の前の少女だ。

 

 少女は黙ったまま、何も答えられずにいた。

 数秒後、何かを決めたように顔を上げた。その目には、揺るぎない意志が宿っていた。


 刹那、紫の姿がふわりと跳ねた。

 すべてがあまりにも速く、それでいて、時が止まったかのようだった。

 もう足は床を離れ、手すりを越えていた。

 宙に浮かぶ、少女の体。


「フィル!!!」

 

 最後の瞬間、イノリは彼女の目を見ていた。

 宝石のような、紫の瞳。

 

 けれど、そのまなざしも一瞬で消える。

 

 少女は目を閉じた。

 流星のように、落ちていった。

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