第7話 「俯瞰」その二
コーヒーの香りが奥の部屋まで流れ込めば、ユナが気にする。それはわかっていた。
イノリは書庫から出て、扉をしっかり閉めた。
「ねえ、ユナ。いったいどこに行ったんだよ」
「フィルなら、さっき入ったばかりだけど」
「どうやら、かくれんぼをしてる人がいるみたいだね」
イノリの我慢は、かなり限界に近づいていた。不満を示すように眉を寄せる。
「あっ、わかった! 実はフィルって……」
そのとき、扉を強く叩く音が三度響いた。
イノリはびくりとして、反射的に背後の扉を見る。
執務室の入口が開いて初めて、音のする方向を取り違えたのだと気づいた。
「あっ! おはよう、アキラくん!」
姉が普段、こんなに明るく温かな声を出すことはまずない。そんな声を引き出せる相手は、おそらく一人しかいなかった。
それに気づいたイノリは、わざと笑みを引っ込めた。
冷ややかな無表情を作り、訪ねてきた客を見つめる。
天雲明。
背が高く、体つきもたくましい。普段は口数が少なく、表情もほとんど変わらない。
茶色の瞳から放たれる鋭い視線は、凶悪な印象さえ与える。
けれど、心配はいらない。少しでもアキラを知っている者なら、実際はこれ以上ないほど心優しいことを知っている。
入口にまっすぐ立つその姿は、荘厳にして慈悲深い、大仏のようだった。
「おはよう」
落ち着いた、短い挨拶。
そう言ったときも、アキラの表情は硬く、ぎこちなかった。数秒たってからようやく、ユナにかすかな笑みを向ける。
「おはよう、アキラ」
イノリは相変わらず無表情だった。
姉がこんな男の子を好きになるなんて。ぼんやりした、木偶みたいなやつなのに。
イノリは以前から、そう思っていた。
もっとも、アキラを嫌っているわけではない。二人はとても仲のよい友人でもある。
こんな顔をしているのは、アキラに向けてではなかった。
その背後に、もっと奇妙な存在がいることを知っていたからだ。
予想どおり、アキラの背後に、青くほの暗い水球が何もない空間から突然現れた。
水球は急激に膨らみ、表面の水が勢いよく流れて形を変え、徐々に大鎌の姿を取っていく。
次の瞬間、大鎌が崩れた。
水流は再び組み上がり、次第に人の形へと変わっていく。
一人の少年が、殻を破る鳥のように、そのほの暗い青の外殻から飛び出した。水でできた殻が一気に砕け、破裂音を響かせる。
少年が手を開くと、空中に残った水が手のひらへ集まり始めた。勢いよく拳を握ると、水はすべてその中へ吸い込まれた。
こんなことは、人間には到底できない。
この少年は、正真正銘の「邪霊」だった。
亡霊族の中でも、人の姿と高度な知性を持つ存在。
「滄溟」は彼の称号であって、名前ではない。
アキラの体に宿ることで、人間の仲間となっていた。
大仏の背後に潜む、残忍で殺戮を好む修羅。
「おはよう、ユナちゃん!」
不良少年じみた声を聞くだけで、イノリは苛立ちを覚えた。
「おいおいおい、誰かと思えば――イノリじゃねえか!」
「最弱」が「最強」に出くわせば、結果は目に見えている。
今日も滄溟にさんざんからかわれるのかもしれない。
イノリは軽蔑の表情を崩さず、黙っていた。
「我らが――大有名人! いやあ、俺様もてめえを見くびってたぜ、イノリ!」
妙にはしゃいでいる滄溟に少し戸惑い、イノリは肩を強く叩かれるがままになっていた。
「『爆弾魔』とは、やるじゃねえか! で、いつやるんだ? そのときは俺様も呼べよ。一緒に塔を吹っ飛ばそうぜ!」
「あっち行ってよ!」
イノリは滄溟の手を強く払いのけ、苛立ちをのみ込んだ。
「おいおい、遠慮すんなって。こっちは本気だぜ! 俺様に任せときゃ安心だっての」
この短気な戦闘狂は、本当に冗談で言っているのではない。心から、何か悪さをしたがっているのだ。
それにしたって、腹立たしいにもほどがある。
「それなら、ほかを当たってくれるかな。僕は爆弾魔じゃないんだ。期待を裏切って悪かったね」
イノリは冷たく返した。
「おいおい、そりゃないぜ……」
滄溟は悲しげに首を振った。すっかり落胆している。
この邪霊の言動は、何から何まで癇に障る。
イノリはじりじりしながら奥の部屋を見た。
今こそフィルに飛び出してきてほしかった。
フィルがいれば、滄溟の不届きな発言を一つ残らず記録させたうえで、本当に警戒すべき危険人物はこいつだと、容赦なく告発してやるのに。
滄溟も何かの異変に気づいたらしい。眉をひそめ、突然、せわしなくイノリの肩を叩き始めた。
「おい、イノリ――」
「いったい何がしたいんだよ!」
とうとう我慢の切れたイノリは、大声で文句を言いながら、滄溟の胸を拳で叩いた。
滄溟はその動きに気づきもしなかった。まともに一発もらい、数歩よろめいて後ずさる。
自分の非力な一撃で、この強い邪霊を傷つけられるはずがない。イノリはわけがわからなかった。
「し――」
滄溟の唇が動く。何かを不明瞭につぶやいているようだった。
首を傾げ、少し離れた一点をじっと見つめている。
震える手を伸ばし、ある方向を強く指し示した。
あまりに奇妙な振る舞いに、イノリまで不安になってきた。すぐにその指の先へ目を向ける。
奥の部屋の扉。
「ひぃ――」
邪霊の喉から、鋭い悲鳴がほとばしった。
皆が見ている前で、水流に変わり、姿を消した。
宿主であるアキラの体が、激しく震えた。心臓のあたりを押さえ、苦しげに身をかがめる。
「アキラ、どうしたの?」
「滄溟が……拒んでる……」
ユナは心配そうな顔で駆け寄り、アキラを支えてソファに座らせた。
アキラは身をかがめたまま、どうにか顔を上げた。歯を食いしばり、奥の部屋へ目を向ける。
「あそこに……何がいる?」
その言葉が頭をよぎった途端、イノリは目を見開いた。不吉な予感が胸に湧き上がる。
まずい。仲間とのやり取りに気を取られていた。
大事な存在を忘れていたことに、今になってようやく気づいた。
「フィル!」




