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第6話 「俯瞰」その一

3489年 木乙月 第一風甲日


 血色の桜に覆われた薄桜城王立魔法学園は、新学期の初日を迎えた。

 

 おそらく街の誰よりも早く開花を目にしたイノリは、周囲の異変にもすっかり慣れていた。

 おかげで、学園の混乱ぶりを黙って眺める余裕もある。

 

 名家のお嬢様らしき少女たちは、こぞって傘を差していた。桜の花びらが頭に落ちたり、華やかな制服に付いたりするのがよほど怖いらしい。

 とはいえ、ずっとうつむいて歩くわけにもいかず、誰かしらがうっかり足元の花びらを踏み潰してしまう。

 そうして哀れな花びらの命を奪った当人は、嫌悪に顔をしかめ、悲鳴を上げて走り去る。不幸や呪いが自分にまとわりつくのを恐れるように。

 

 不吉と災厄を示す桜を警戒する女子たちに比べ、男子たちはさほど気にしていないようだった。

 上級生らしき生徒たちが手際よく分担し、地面に散った花びらを道の端へ掃き寄せている。

 中にはまめな生徒もいて、まだ形の残っている花びらを見つけると、踏まれたり掃かれたりする前に、そっとガラス瓶へ集めていた。

 

 普段はあまり姿を見せない大騎士たちも校内を訪れ、年配の大魔法師たちと何かを話している。

 

 桜のおかげで、誰もが忙しそうだった。

 

 みんな桜に気を取られているので、当然、「爆弾魔」の件を気にする者もほとんどいない。

 もし今、爆弾魔が突然現れて、先覚塔を真っ二つに吹き飛ばしたら……しばらく誰も気づかないんじゃないか?

 

 ふと、そのちぐはぐさがおかしく思えて、イノリは口元に小さな笑みを浮かべた。


 三十分後、イノリは先覚塔のふもとに着いた。

 

 巨大な塔の黒い影が、その小さな体を包み込む。

 

 最下階の広間から、階段を一階ずつ上っていく。十五階の廊下にたどり着き、一枚の扉の前で足を止めた。

 

 準備は整った。イノリは行動を開始する。

 呼吸を整える。ただし、息を強く吸いすぎない。大きな音を立てないように。

 指先でそっとドアノブに触れる。

ゆっくりと、手のひら全体をノブに添える。

 手の位置が定まったら、すかさず右腕の筋肉を引き締める。

 少しずつ力をため、肝心の、扉を押す動作に備える。


「今だ!」

 

 極めて素早く、極めて弱い力で、扉を押す。

 決して開けきってはいけない。開く角度は十五度。

 これなら全身を扉の後ろに隠したまま、室内の置き時計だけをちょうど見ることができる。

 時計が視界に入ったら、短針と長針の位置を素早く、正確に捉える。

 

 八時前なら、入る。

 八時を過ぎていたら、逃げる。

 

 五十……七分。

 

 イノリはほっと息をつき、落ち着き払って扉を開け放った。


「おはよう、ユナ」

 

 陶器のカップがそっと受け皿に置かれ、触れ合った拍子に、澄んだ音が鳴った。


「あら。おはよう、イノリ。三分前ね」

 

 日の光に溶け込んだコーヒーの香りが、ふわりと漂ってくる。

 

 姉の笑顔を見るより先に、イノリの目はあるものに引き寄せられた。

 

 入口脇の壁に立てかけられた、真っ白な傘。

 

 一つの合図。小さな約束。

 紫色の少女の顔と声が、脳裏によみがえる。


「僕らの名探偵は、もう来てるんだね」


「十五分前に来たの。思っていたより少し早かったかな」

 

 姉が時間を把握し、守ろうとする姿勢は、少し病的とさえ言える。イノリはそれをよく知っていた。見習い教師としての職業病なのかもしれない。

 

 もし不運にも、八時の鐘が鳴ってからフィルが入ってきていたら。

 南森家から派遣された探偵であろうと、ユナに優しく、けれど厳しく言い聞かせられる羽目になっただろう。

 

 しかし、この探偵の少女は明らかに自分より勤勉で、幸いにも難を逃れたらしい。

 

 よくやった、フィル。

 イノリは心から、彼女の幸運を喜んだ。


 置き時計の歯車が動く音がした。

 

 二人は申し合わせたように口を閉じ、続いて鳴り始めた鐘の音に静かに耳を傾けた。

 

 全部で八回。

 

 イノリの認識では、今頃は三人そろってローテーブルの前のソファに腰を下ろし、コーヒーを飲みながら爆弾魔の件を話し合っているはずだった。

 

 ユナの執務室なら、隅々まで知っている。かくれんぼにうってつけの場所ではないことも。

 

 部屋を見回しても、少女の姿はどこにもなかった。


「フィルなら奥にいるよ。探してみたら?」

 

 先に口を開いたユナが、部屋の奥の扉を指した。

 

 その先はユナ個人の書庫で、彼女の宝物の三分の一が収められている。残りは三分の一が屋敷の図書室、もう三分の一が学園の中央図書館にあった。

 

 ふと、以前ユナに尋ねたことを思い出した。どうして奥の部屋でコーヒーを飲んではいけないのか。本も一緒に読めるのに、と。

 

 そのときユナは、本を読むにもコーヒーを飲むにも、とても大切なのは「香り」だと答えた。

 コーヒーには濃厚な香りがあり、本には草木の爽やかな香りがある。混ざってしまえば、どちらの「純粋さ」も失われてしまう。

 

 知り合ったばかりの友人に、一人で書庫を使わせているのも、そのためなのかもしれない。

 

 本にもコーヒーにもさして興味のないイノリは、二人の少女の暗黙の取り決めを破ることに、何のためらいもなかった。

 

 足早に奥へ向かい、扉を開ける。


「フィル?」

 

 室内は静まり返り、人の気配はなかった。

 ただ、窓の外から吹き込む風が、イノリの髪の先をわずかに揺らした。

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