第5話 『壱の残影・雨の葬式』その二
黒い影が、イノリの背後にやってきた。
「あの……」
少し低めの声だった。だが、今のイノリには、死神の呼び声に等しい。
「ぼ、僕……」
唇の震えが止まらない。
最後の勇気を振り絞り、イノリは振り返った。
漆黒のマントは、雨に打たれてすっかり濡れていた。
斜めに吹きつける風が、その裾をわずかに持ち上げる。下に隠れていたものが、イノリの前にあらわになった。
薄紫色の上着。ごくありふれた平民の服装に見える。
赤い帯。その脇には、一振りの刀が提げられていた。黒い鞘と柄の間、わずかにのぞく刀身から、暗い赤の光がかすかにちらついている。
薄紫色の短いスカートに、サンダル。その格好では、下半身の肌の大半を、雨夜の厳しい冷気にさらすことになる。
黒いフードが、目元をすっぽりと隠していた。その縁からしずくが一つ滑り落ち、足元の水たまりに小さな花を咲かせる。
沈黙の中、彼女はわずかに顔を上げた。
ほんの一秒。それでも、イノリにはその瞳がはっきりと見えた。
深く、澄んだ紫色の双眸。亡霊の目のようだった。
人間の体をしているのに、目だけが亡霊のようだ。
「ひっ――!」
少年の喉から、絶望の悲鳴が漏れた。
耳障りな音が、静寂を破った。
刃が鞘を擦る音だ。
その瞬間、暗い赤の光がひときわ強く輝いた。わずかに反った長い鞘に、暗紅色の紋様が見え隠れする。
鞘と鍔は、すでに少し離れていた。その間からのぞく冷たい刃こそが、不気味な光の出どころだった。
「まずい……」
戦闘力はゼロでも、戦いの基本的な知識くらいは、イノリにもある。
間違いない。刀を抜く前触れだ。
次の瞬間には、あの刀が容赦なく喉を断つのかもしれない。少年の血を、血色の桜と一つにしてしまうのだ。
迫りくる凶兆を前に、イノリには何もできなかった。
冷たい雨水が口に流れ込み、思わず唇を結ぶ。
かすかな苦みと、塩気を帯びた生臭さ。
幸い、まだ雨だ。血ではない。
だが、黙っていればどんな結末を迎えるのか、イノリにはよくわかっていた。
何かしなければ。何か言わなければ。たとえ無意味でも、諦めるわけには……。
イノリは歯を食いしばった。
「あの、僕! えっと、雨が降ってるから! だから、その……僕の傘、あげるよ!」
口をついて出た言葉は、この上なく愚かで、滑稽なあがきのようだった。
「……」
少年に返されたのは、ただ沈黙だけだった。
一瞬にして、刀が抜かれた。
暗紅色の炎が、その刃に燃え上がる。
雨粒は炎に触れた途端に蒸発した。降り注ぐ大雨さえ、その不気味な炎を消すことはできない。
圧倒的な魔力は、イノリの無力さを嘲笑っているかのようだった。
相手が刀を高く振り上げるのを見て、イノリは目を閉じた。
体が完全に崩れ落ちる前に、立ったまま死のうと決めた。
ひゅっ――。
刃が振り下ろされた音がした気がする。
「ああ、次の瞬間には、僕の首が地面に落ちるんだろうな。本当に、運命ってやつは。今日はおとなしく寝ていればよかった。」
命が尽きようとするそのとき、イノリは心の中で最後の言葉をつぶやいた。
覚悟はできていた。
――そのはずだった。
「ねえ、どうしたの? 傘、くれるんじゃなかった?」
「え?」
目を開けると、少女の顔がはっきりと見えた。
炎は消え、刀も鞘に収まっている。
フードはそっと下ろされ、雨に濡れた紫色の短い髪があらわになっていた。神秘的で美しい紫の瞳が、軽く瞬く。
イノリは反射的に傘を差し出した。
「ありがとう。ちょうど欲しかったんだ」
途端に大雨が頭へ降り注ぎ、激しく打ちつけた。その感触で、イノリは自分の頭がまだ首の上にあるとわかった。
ようやく意識がはっきりする。
「殺されるかと思ったよ」
「街灯が暗かったから、火で照らそうとしただけだよ……真夜中にじっと動かない人がいたら、僕だって少し怖いし」
「ところで、誰なんだ? こんなところで何してるの?」
「フィルって呼んで。……新入生、かな? 魔法学園は知ってる? もうすぐ新学期だから、早めに出てきたんだ」
「こんなに早くなくても……始まるのは明日じゃないか」
「う……ごめん。それはわかってるよ。ただ、今朝のうちに一度見ておこうと思って」
興味津々な少女を前に、イノリはすぐには返す言葉が見つからなかった。
「それで、君は?」
「僕は蘭空祈。同じ魔法学園の生徒だよ」
フィルは少し真剣に考え込み、それからかすかに笑った。
「会えてうれしいよ、イノリくん。もう少し話していたいけど、またすぐに会えるよね? はい、ちょっとこれを持ってて」
イノリは頷き、差し出された傘を受け取った。
「傘を貸してくれたお礼ってことで」
自信に満ちた挑戦者のように、フィルはイノリを締め出した鉄門を見据えると、軽やかに跳び上がった。
瞬く間に門のてっぺんまでよじ登り、向こう側へふわりと降り立つ。イノリはただ見つめていた。彼女が手際よく閂を持ち上げると、鉄門が開いた。
一連の動きにかかったのは、わずか三十秒。イノリは心の中で感嘆せずにはいられなかった。
「はい、どうぞ、イノリくん。今度は鍵を忘れないようにね」
少女の顔に、いたずらっぽい笑みが咲いた。
「それじゃ、またね」
フードをかぶり、傘を再び手に取る。小さく手を振って、イノリに別れを告げた。
イノリは何も言わず、去っていく少女を黙って見送った。
少女の姿が見えなくなると、イノリはため息をついた。
張り詰めた風船から急に空気が抜けたように、全身の力が抜け、底知れない眠気が押し寄せてきた。
鉄門を閉め、庭を横切って屋敷の玄関へ戻る。かちゃりと鍵をかけた。
何気なく、もう一度、外の桜へ目を向ける。
桜は相変わらず、音もなく咲いていた。何も変わっていないようだった。
だがその瞬間、また何かが目に入った。
桜の木の下に立つ。
黒く、背の高い人影だった。




