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第4話 『壱の残影・雨の葬式』その一

3489年 風甲月 第四雷庚日


 桜が咲いた。

 今、咲くはずではなかった。

 それでも、桜は確かに咲いた。


 十分前、ベッドに横たわったまま眠れずにいたイノリは、激しい雨音を聞いた。


 起き上がり、寝室を出た。着替える間もなく、寝間着のまま廊下を通り、階段を下りて屋敷の外へ出た。

 玄関前の階段に腰を下ろし、静かに雨音に耳を澄ませた。


 そして十分後の今、午前零時。


 庭の桜がすべて、一瞬にして花開くのを、イノリは目の当たりにした。


 驚きのあまり声も出なかった。急いで玄関へ戻り、傘を一本つかんで、桜の木へと駆け寄る。


「これは……」


 目をこすった。見間違いではない。


 血のように赤い桜が、確かに大雨の中で咲いている。鮮やかなその赤は、死体の血を思わせた。

 花びらが水たまりに落ちると、そこから血の色がにじみ出し、たちまち水たまり全体を赤く染める。まるで、小さな血の池だ。


 辺りに漂う匂いも、異様だった。

 花の香りではない。腐った肉から立ち上るような、強烈な生臭さだった。


 イノリは、自分の行動を少し後悔していた。こんな絶望的な光景を目にすることなど、望んでもいなければ、予想もしていなかった。


 恐怖が、抑えようもなく胸の内に広がり始める。

 体が本能的に拒んでいるのだと、イノリにはわかった。


 屋敷へ引き返し、何もなかったふりをして、偽りの安らぎの中で眠りにつくこともできた。


 だが、それよりも確かめたいことがあった。


 庭を横切ると、蘭空家の敷地の境に立つ、大きな鉄門が見えてきた。

 門を押し開け、外へ出た。振り返り、鉄門を閉めた。


 この瞬間から、イノリはもう、家に守ってもらうことはできない。


 目の前に広がっているのは、外の世界だった。


 三十秒もかからない調査で、イノリはあっさりと結論にたどり着いた。


 異変が起きているのは、庭の桜だけではない。通りの桜も、すべて血のように赤い花を咲かせていた。


「もしかして、街でいちばん先に桜を見たのは僕かな? はは……結構ついてるじゃないか」


 少しでも気持ちが落ち着くことを願って、イノリは力なく自嘲した。


「さすが、優秀な斥候だな、イノリ」


 そう……斥候だ。


 イノリは、自分の職業を思い出さずにはいられなかった。


 魔法学園で学ぶ生徒は、早いうちに自分の職業を決める必要がある。

 魔法が得意なら魔法使いや魔剣士、戦いが得意なら剣士や盾兵、弓使いなどを選ぶのが一般的だ。


 そこで、戦いも魔法もできないイノリは、斥候を選んだ。


 彼に言わせれば、斥候とは、戦う必要のない人間。あるいは、逃げるのが得意な人間だ。

「最弱貴族」のイノリにとって、恥ずべきことではなかった。


 今こそ、家へ引き返す絶好の機会だ。

 桜のことなど忘れて、ゆっくり眠る。それに勝ることなどない。


 そうするはずだったのに、イノリはふと、何かに気づいた。


 大雨と桜の中に潜む……

 黒い人影に。


 降りしきる雨音に、澄んだ太鼓の音が交じっているようだった。

 雨粒が街灯の真鍮の笠を叩いているのだ。淡い黄色の明かりが弱々しく照らし、黒い影の輪郭を少しずつ浮かび上がらせる。


 人だろうか?


 こんな夜に、自分以外の生き物に出くわしても、安心などできない。かえって、恐怖が深まるばかりだった。


 その恐怖に思考を急き立てられ、イノリは次々と考えを巡らせた。


 夜道を急ぐ人だろうか。それにしても、傘の一本も持たずに?

 そもそも、こんな状況で出歩くものか?

 こんな夜更けに、こんな恐ろしい外を、こんな臭いの中で?

 どうも考えにくい。


 亡霊?

 いや。薄桜城の中に亡霊が現れるなんて、そうあることじゃない……


 取り留めもなく考え続ける少年は、その影が近づいてきていることを忘れていた。


 学園で何度も読み返した心得が、不意に脳裏によみがえるまでは。


「王国斥候心得、第二十条。危険に遭遇したら、すぐに逃げろ! 戦いにこだわるな、早ければ早いほどいい!」

 即座に決断した。


 鍵は、制服のポケットの中にある。

 それを取り出し、鍵を開け、鉄門をくぐって閉める。それだけで、温かな家へ帰れるのだ。


 そのはずだった。

 だが……青天の霹靂。


「まさか……」


 体が震えた。思わずうつむき、自分の足元を見る。

 厚手の綿のスリッパ。

 雨を吸ってすっかり重くなり、足に貼りついた鉄の塊のようだった。


「僕……」


 運命のささやかないたずらを信じたくないとでもいうように、ほとんど絶望しながら、いつもどおりポケットに手を入れた。

 何もない。


 まだ寝間着のままだった。

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