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第3話 「血桜」その三

「気楽にいこうよ、イノリ。よけいなことなんて、あたしたちにはあんまり関係ないでしょ。まずは毎日を楽しむこと。それがいちばんじゃない?」


 ヒカリの言葉は、黄昏の空に残る光のように、暗くなりゆく世界へ、最後のかすかなぬくもりをもたらした。


 純粋で、美しく、どこまでも楽観的。幼い子供だからこそ言えそうな答えだった。


 つい先ほどまで、ヒカリは自首すればいいとイノリをからかっていた。


 けれど今は、彼がどんな気持ちでいるのか、ちゃんとわかっている。

 いちばん大切な相手なのだから、精いっぱい慰めようとするのも当然だった。


「ほら、お菓子食べて。元気出るよ」


 少女は卓上の四角い缶からビスケットを一枚取り、そっとイノリの口元へ差し出した。


 香蘭果のジャムを挟んだビスケットだ。


 正直なところ、イノリはこういう「自然の風味」がする食べ物をあまり好まない。

 しかも、香蘭果はたいてい砂糖の原料にされる果実で、そのジャムときたら、嫌になるほど甘い。


 けれど、それより何より、ヒカリの気持ちがうれしかった。

 胸を温かくしながら、ひと口で頬張る。


「もぐ、もぐ……おいしい」

「でしょ? だからさ、ここで桜とか爆弾魔とか心配してるより、まずはおなかいっぱい食べて、元気を蓄えとこ? 明日の朝、目が覚めたら、なーんだ、たいしたことなかったって思うかもしれないよ」

「うん……ありがとう、ヒカリ」


 イノリは彼女の柔らかな髪を、そっと撫でた。


 ヒカリも、こうして撫でられるのが大好きだ。


 そのままごろんと横になり、イノリの膝に頭を載せる。

 気だるげな笑みを浮かべ、満ち足りた喉の音で応えた。


 二人きりで過ごす、二人だけの時間。


 イノリはそれがうれしかった。

 焦りと落胆に沈んでいた心も、少しずつほぐれていく。


 そのとき、ヒカリが突然跳ね起き、扉のほうをじっと見つめた。

 すっかりくつろいでいたイノリは、その反応にびくりとする。


「どうした?」

「お姉様の足音がした」


 三秒後、扉が開いた。


 少女が軽やかに姿を現す。


 蘭空悠奈。


 薄手の桃色の魔法衣は、裾と袖口を真っ白な綿の起毛地に縁取られていた。

 大きなとんがり帽子の下から、淡い桃色を帯びた柔らかな髪が、ふっくらと巻きながらこぼれ、肩の後ろへ垂れている。

 丸い銀縁眼鏡は、博識の証。

 二枚の薄いレンズの向こうで、美しい瞳がそっと瞬いた。

 瞳の縁を彩る淡い桃色は、三月に咲く桃の花びらのようだ。

 白い頬には小さなそばかすがいくつか散り、いつも清らかで愛らしい印象を残す。


「お! 姉! 様!」


 さっきまでのんびり撫でられていたヒカリが、はしゃぐ猫のように、勢いよくユナへ飛びついた。


 妹の熱烈な歓迎に、優しい笑みが返る。

 ユナは両腕を広げ、ヒカリをしっかりと受け止めた。


 姉の指が髪に触れると、ヒカリは気持ちよさそうに、猫さながらに喉を鳴らす。


 二人の少女の仲睦まじい様子を黙って眺めながら、イノリはしみじみと思った。


 ユナがヒカリと契約を結んでくれたからこそ、ヒカリは冷たい一冊の魔法書から、彼にとっていちばん大切な仲間になったのだ。


 はあ……これも、自分が「最弱貴族」だからか。


 ユナくらい魔法が得意だったら、ヒカリと契約する機会だって、つかめたかもしれないのに。

 イノリはそんなことを考えていた。


「こんばんは」


 いかにも「先生」らしい挨拶だった。優しく穏やかな表情と声の奥に、鋭く厳しいものが潜んでいる。


 短いその挨拶は、聞き慣れたものだった。


 ただ、家族を相手に、ユナがこんな態度を取ることはあまりない。


 人に厳しく、何かと口うるさいというわけではないのだ。むしろ蘭空家の子供たちの中で、ユナは誰もが認める、いちばん頼れる存在だった。


 きっと今日は少し疲れていて、「先生」から「姉」への切り替えを忘れているのだろう。

 イノリはそう考えた。


「こんばんは、ユナ――」

「ん?!」


 ヒカリの険しい視線に、イノリは身震いした。


 さっきも同じ失敗をして、一度注意されたばかりだ。今度の強い反応を見る限り、言い方には気をつけなければならない。


「えっと……こんばんは、お姉様。今日は……どうだった?」

「あまりよくなかったかな。桜のことで、ずいぶん騒ぎになっていて……でも正直、今気になっているのは、そっちじゃないの」

「――爆弾魔、だよね?」

「うん」

「いたずらとか、冗談とか、そういうのじゃないの?」

「ううん……」


 予想どおりの答えだった。それでも、かすかな期待が潰えると、やはり気落ちせずにはいられない。


「お姉様。僕はどうすればいい?」


 ユナは静かにイノリを見つめた。


「爆弾魔の事件を解決するために、南森卿が探偵を一人派遣してくださるそうよ。イノリは、その人の調査に協力して。それがいちばん安心だと思う……」

「南森? 千代城の、あの『南森』?」


 その名を聞いて、イノリは思わず目を見開いた。


 最近、千代城が人類王国を離れ、独立した国になろうとしているという話が、世間を騒がせていた。

 だからこそ、今この時期に南森家の人間と関わるのは、決して賢明ではない。イノリにも、それはわかる。


「心配なのはわかるよ、イノリ。でも、南森家に力を借りるのがいちばんいいと思うの。爆弾といえば、火に関わる魔法か、南森家の工業製品か、そのどちらかでしょう? だから南森卿は、火の元素に詳しい探偵を派遣してくださったの……」


 筋は通っている。爆弾といったものに最も詳しいのは、ずば抜けた科学技術と工業力を誇る千代城に決まっていた。


「わかった、お姉様。その探偵について、何か知ってる?」

「若い女の子だそうよ。年も、私たちと同じくらい」

「待って……今、火って言った?」

「うん」


 その瞬間、イノリの脳裏に炎が浮かんだ。

 何かが、見えた気がした。


 そう、激しい雨の中で。それでもなお燃え盛る、消えない炎。


 イノリは目を閉じ、思いの中に世界を形づくらせた。


 あの暗い雨の夜に、立っているようだった。大粒の雨が容赦なく顔を叩く。感じられるのは、骨まで染みる寒さだけ。


「は……お姉様」

「どうしたの?」

「僕、もう……その子に会ってると思う」


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