第41話 「滄溟」その一
3489年 木乙月 第三風甲日
仏が寂滅し、修羅が現れた。
「俺様には、人間の体はちょいと弱すぎるな……だが、てめえを倒すには十分だ。今ならまだ降参できるぜ、フィルちゃん」
両の瞳がほの暗い青に染まり、凶悪な冷光を放った。
「うーん、ごめんね。僕にも、負けられない理由があるんだ」
目の前にいるのは、もうアキラではない。強大な邪霊なのだ。そう意識して、フィルの声も低くなった。
「いいだろう。アキラも俺様も、チャンスはやったんだ。それでもやるってんなら、俺様の力を思い知らせてやる!」
「邪霊と戦うのは初めてなんだ。がっかりさせないでね、滄溟!」
「無駄口はそこまでだ!!!」
純粋な呪力が奔流となって現れ、次第に大鎌の形を取った。
滄溟は片手で大鎌を握り、素早く回した。
刃が空気を裂き、唸りを上げる。
その速さは、限界に迫っているように見えた。イノリは目を見張った。
そう、走っているというより、瞬間移動に近かった。
刹那、影がよぎった。滄溟はすでにフィルの背後に回り、容赦なく大鎌を振り下ろしていた。
ただの一撃だった。けれど、恐ろしく速い。目で見てから反応していては、次の瞬間には斬られてしまうだろう。
フィルは呪力の気配を鋭く捉え、素早く横へ身をかわした。
大鎌の切っ先が地面へ突き刺さった瞬間、滄溟はもうフィルの正面に現れ、猛烈な斬撃を次々に繰り出した。
背後からの奇襲なら、経験を頼りに避けることもできる。だが、正面から畳みかけられては、刀で受けるほかなかった。
滄溟の力も速さも、人間をはるかに上回っていた。何度か刃を交えるうちに、フィルは次第に攻勢を支えきれなくなった。
必死にかわし、受け止めても、反撃の機会が見つからない。
退いて距離を取っても、滄溟は一瞬で詰め寄り、さらに激しく攻め立てた。
フィルの動きが、少しずつ弱く、遅くなっていた。体力が残り少ないのだろう。観客席のイノリは、ひそかに不安を募らせた。
「このまま接近戦が続いたら、きっと……」
そして、最も恐れていたことが起きた。
立て直す暇も、息をつく暇もない。回避と防御を繰り返すうち、ついにフィルに隙が生まれた。
星滅の刃が大鎌に強く弾かれ、一瞬、体勢が崩れた。
滄溟が蹴りを放った。少女の腹を、正確に捉えた。
フィルは凄まじい衝撃で吹き飛ばされ、地面へ落ちた。
「はっ、もう終わりか?」
倒れた相手を前に、滄溟は勝負を決めようとはしなかった。見下すように首を傾げると、関節がぼきりと鳴った。
「ちくしょう……」
フィルは歯を食いしばった。
「おや? おとなしく這いつくばって降参しねえなら、呪術を使わせてもらうぜ」
「まだ、終わってない――」
フィルは痛みをこらえ、ゆっくりと立ち上がった。
まだ戦えると告げるように、揺るぎない目で滄溟を見据え、その首へ切っ先を向けた。
それを見て、滄溟は嘲るように鼻で笑った。
「また俺様の親切を踏みにじるってわけか……なら、虫けらみてえに、俺様が用意した地獄へ沈みな」
強烈な呪力が大鎌の刃に集まり、津波のように轟く潮の音が響き渡った。
「人間の魔法なんざ、弱くて、ちゃちなもんだ。見せてやるよ。俺たち亡霊の戦い方を――」
滄溟は吼え、大鎌を地面へ勢いよく突き立てた。
「水と影・霊の式・幽冥螺旋!!!」
地面が一瞬でほの暗い青の水に覆われた。無数の渦が水面に現れ、少女の足を捕らえて引きずり込もうとした。
フィルは深呼吸をした。落ち着いて水面を軽やかに跳び、渦の中心を避けていく。
滄溟が拳を固く握ると、渦から巨大な水柱が立ち上がり、螺旋を描いて昇った。
水柱は不意に向きを変え、何匹もの大蛇のように少女へ襲いかかった。
四方八方から迫る水柱を見つめ、フィルは小さくため息をついた。
抵抗を諦めたかのように、深く息をして、静かに目を閉じた。
次の瞬間、無数の水柱が少女を打った。




