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第42話 「滄溟」その二

 道場は静まり返っていた。


 観客たちは目を見開き、水流に呑まれたフィルを見つめていた。

 その流れの中から、少女が再び姿を現すのを待ち望んでいるようだった。


 だが、戦場に残っているのは、果てしなく荒れ狂う水流と、邪霊の傲慢な笑い声だけだった。


 イノリの隣に座っていた、フィルを応援する少年たちは、祈るように胸の前で両手を合わせていた。


 後ろの席では、一人の少女が悲しみに耐えきれず、すすり泣き始めていた。隣の少女が小声で慰めているものの、その表情も同じように沈んでいる。


 応援席に漂う重苦しい空気に、イノリはいても立ってもいられず、拳を強く握り締めた。


「フィル……絶対に諦めるなよ!」


 心の中で、必死に叫んだ。


 そのとき、何かに火をつけられたかのように、会場全体から割れんばかりの歓声が上がった。


 イノリは目を見開いた。幽かな青に覆われた世界に、不意に一筋の黒が見えた。


 水流の中から、フィルがゆっくりと姿を現した。


 霧の紗にも、星滅にも、炎が燃え上がっている。イノリは息を呑んだ。


 以前見た暗赤色の炎とは違う。今度の炎は、純粋な黒だった。


 果てしない夜の帳が光を呑み込むように。闇よりもなお深い闇のように――黒炎が、激しく燃え盛っていた!!


 水流はその炎を恐れるかのように、少女へ近づくそばから、一瞬で蒸発して消えていった。


「滄溟!!!」


 フィルの声が、鐘の音のように響き渡った。


「何だと! ありえねえ!」


 自慢の水がことごとく炎に呑まれていくのを目の当たりにして、滄溟は歯ぎしりしながら地団駄を踏んだ。


 その炎の色に気づくと、一瞬動きを止めた。瞳に、ふと狼狽の色が走る。


「おい、てめえ! その炎――」


 紫の双眸で剣のように鋭く滄溟を見据え、フィルは一歩前に出た。


「どうしたの? 怖くなった? さっきの言葉、そっくり返すね。降参するなら、まだ間に合うよ」

「ちっ――」


 少年の顔が一瞬険しくなったが、すぐにいつもの不敵な表情に戻った。


 大鎌を振り回すと、周囲に再び凄まじい水流が湧き上がった。


「水の霊・修羅水葬!!!」


 巨大な竜巻が水を巻き上げた。無数の刃が高速で回転するように、少女へと唸りを上げて襲いかかる。


「黒炎斬!」


 少女が刀を振るう。燃え盛る黒の三日月が、竜巻を焼き払い、水煙へと変えた。


「くそっ! 水の空想・奈落回廊!!!」


 突如、少女の視界がぐるりと回った。足元へ目を向けると、いつの間にか冥河に架かる古びた橋の上に立っているようだった。


 意識も身体も呑み込まれる、その寸前。彼女は力いっぱい足を踏み下ろした。


 橋全体が燃え上がった。炎は咆哮とともに沈み込み、冥河の水面に巨大な裂け目を穿った。


「水の空想・黄泉千刃!!!」


 空を暗雲が覆い、激しい雨が降り注いだ。その一滴一滴が、鋭く硬い無数の銀針となって、少女へと襲いかかる。


 フィルは、少し離れた地面に青嵐が転がっているのを見つけた。すぐさま駆け寄り、拾い上げようとする。


「重い――」


 腕に激しい痛みが走った。


 慌てて星滅を地面に放り、両手を空ける。そうして、どうにか盾を立てた。


 盾の表面に背中をぴったりとつけ、刀を拾って、斜めに地面へ突き刺す。

 押し潰されないよう力を加減しながら、盾をゆっくりと傾けていく。やがて刀の柄が盾の内側に当たり、しっかりと支えになった。

 身をかがめて盾の下へするりと潜り込み、身体を丸める。


 青嵐は即席の巨大な天幕となり、鋭い雨粒をすべて防いだ。


「くそっ! そいつはアキラの武器だぞ! さっさと手放せ、この卑怯者!」


 宿主の武器を敵に利用され、滄溟は激怒して地団駄を踏んだ。


「これが空想級の呪術? 霊級とあんまり変わらない気がするけど。邪霊っていっても、この程度なんだね!」


 フィルは盾の陰から顔を出し、わざと挑発するように瞬きをした。


「くそっ!!! 俺様の力が残ってりゃ……」

「人生に『もしも』なんていらないよ」

「ふん! ごちゃごちゃうるせえ! 水の空想・三途鎮魂!!!」


 水流が、泣き叫ぶ無数の悪鬼や亡霊へと姿を変えた。水で形作られた地獄の門から次々と飛び出し、少女へと迫る。


 フィルがふっと息を吹きかけると、青嵐の表面に黒炎が燃え上がった。

 盾を支えたまま、そっと前へ押し出す。


 盾の表面から炎の風が巻き起こり、襲い来る亡霊をことごとく灰に変えた。


「彼らの魂が安らかに眠れますように――僕の炎で、ね」


 フィルは余裕があるようにひらひらと手を振り、いたずらっぽく舌を出した。


「てめえ! 許さねえ!!!」


 滄溟は額に青筋を浮かべ、怒り狂った。

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