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第38話 「試写」その二

 イノリはバルコニーをせわしなく行き来し、どうすべきか迷っていた。


 爆弾魔やフィルのように、自分も飛び降りたかった。


 けれど、理性が何度も警告していた。衝動に任せて飛べば、間違いなく地面へ落ち、潰れてしまう。


 フィルのことが心配でたまらなかった。それでも、仲間を信じることにした。


 彼女の言葉を思い出し、ユナの部屋へ急いだ。


 扉の前まで来ると、ためらわずに押し開けた。


 酒の匂いを漂わせる少女は、魔法書の姿のヒカリを抱いて、心安らかに眠っていた。


「お姉様、お姉様!」


 イノリは掛け布団をめくり、ユナの頬を強くつねった。


「ヒカリ、やめてよ――」


 ユナは眉を寄せながらも、無邪気な笑みを口元に浮かべた。


「ねえ、ユナ!!!」


 イノリは叫び、ユナの頬を平手で叩いた。


「わあっ!」


 少女は勢いよく目を開けた。抱いていた魔法書が、危うく飛んでいくところだった。


 頭を振り、怯えた様子で起き上がった。魔法書を枕の上へそっと置き、寝間着の襟元を軽く引っ張る。


「えっ? どうしたの?」

「爆弾魔が来た! 祖父の部屋に押し入ったんだ!!」


 ユナの顔に驚きが浮かび、続いて、その目が険しくなった。


「行こう、イノリ」


 裾を払い、ベッドから飛び降りた。ためらいなく、杖を固く握り締める。


 祖父の部屋へ戻ると、ユナは眉を寄せた。


「鍵は壊されて、窓も割れてる。床には、少し焦げた痕があるね」


 空気の異変を感じ取ったのか、注意深く匂いを確かめた。


「魔力が残ってる……イノリ、ここで戦ったの?」

「うん。爆弾魔が罠を仕掛けてたんだ。フィルが助けてくれたから、何とか逃げられた」

「フィルは?」

「犯人を追ってる。ユナを呼んで、部屋を調べてもらうようにって」


 ユナは黙って考え込んだ。


「ユナ、フィルは僕らに何をしてほしいんだろう?」

「うーん……何を考えていたのか、少しわかる気がする」


 ユナはゆっくりと口を開いた。


「この様子だと、壊すことが目的というより、何かを狙って入り込んだように見えるの」


 身をかがめ、床の灰を指で拭った。


「本当にこの家を吹き飛ばすつもりなら、もっと激しい手段を取れたはずだから」


 立ち上がり、イノリをまっすぐ見た。


「祖父の部屋に、爆弾魔の欲しいものがあるのかもしれない。フィルより私たちのほうが、この部屋には詳しいでしょう。だから、調べてほしかったんだと思う」


 ユナは足早に室内を回り、見落としそうな隅々まで目を配った。

 祖父の机へ向かい、上にあるものを丁寧に確かめる。


 すぐに異変を見つけたらしく、表情がこわばった。

 小さな木箱を手に取り、開けた。


「見て、イノリ。鍵が盗まれてる」

「鍵? 何の鍵?」

「先覚塔の、祖父の執務室の鍵」

「そんな――」


 その言葉で、イノリは危険を悟った。


 先覚塔では、地位も人望もある者ほど、高い階に執務室を構えることが多い。

 階段で行けるのは五十階より下までで、それより上の各階には、鍵で起動する専用の魔法転送装置がある。


 祖父の執務室は、八十五階だった。


 引退したあと、祖父はその鍵をユナに渡そうとしたことがある。並外れた才能を持つ孫娘に、大きな期待をかけていた。

 政に携わる貴族の一族で、姓を称号として名乗れるのは、その長だけだ。

 

 祖父の意図は明らかだった。いずれユナに、「蘭空卿」の称号を継いでほしいのだ。


 ユナはその願いを素直に受け止めた。けれど、まだ経験を積む必要があると考え、祖父の執務室で働くことは断った。

 自分はただの「見習い教師」で、「蘭空卿」ではない。少なくとも、今はまだ。

 そう考え、先覚塔の十五階で働くことを選んでいた。


「やっぱり、爆弾魔の狙いは先覚塔なんだ。くそ……鍵がないなら、どうすればいい?」


 先覚塔が再び危険にさらされる。そう思い、イノリは歯を食いしばった。


「こういうときの備えはあるよ。執事が予備の鍵を持っているから、私が受け取ってくる」


 ユナは落ち着いて答えた。


「家の財産に手を出したり、学園を危険にさらしたりする人を、私は絶対に許さない。祖父も、蘭空家の誰も、許さないよ」


 きっぱりと言い切った。


 そのとき、扉の外から足音がした。


 二人ははっとして、同時にそちらを見た。


「イノリくん、ユナ……」


 フィルの声だった。


 顔は汗にまみれ、髪はひどく乱れていた。

 服の裾には土埃がつき、膝からは血がにじんでいた。


 その姿を見て、イノリの胸が強く締めつけられた。


「おい、フィル……大丈夫?」


「ごめん……だめだった。爆弾魔を逃がしちゃった」


 少女の声は震え、少し言葉を詰まらせているようだった。


「爆弾魔のことは、今はいいよ! その怪我――」


「大丈夫。膝を少しすりむいただけ」


「無事なら、それでいいよ……もう、お前ってやつは。あんまり無理しないでくれよ」


 胸が痛んだ。イノリは目を赤くし、フィルへ駆け寄った。


 ポケットからハンカチを取り出し、膝についた汚れをそっと拭った。


「医務室から薬を持ってくるね。ここで少し待っていて、フィル」


 ユナはため息をついた。


 フィルの前に歩み寄り、そっと抱き締めた。


「お疲れさま、名探偵」


「ごめん……ユナ」


「ううん。謝らなきゃいけないのは、私たちのほうだよ」


 ユナは悲しげに首を振り、背を向けて去っていった。


「もう謝らないで、フィル。十分頑張ってくれたよ。さっき、僕も一緒に行けてたら、もしかしたら……」


「イノリくん……」


「そうだよ。僕らは、これくらいで諦めたりしない。爆弾魔――今回はあいつが運よく逃げ切っただけだ。次は絶対に捕まえよう。絶対に!」


 悲しみと怒りを込めて、イノリは言い切った。その声が、静かな夜に響いた。


 闇に隠れたすべてが、静かに耳を澄ませているかのようだった。


「いつか、何もかも明らかになる。爆弾魔の影だって、日の光の下で消えるんだ!」


 話すうちに、気持ちはますます高ぶった。ただ、目の端から涙がこぼれ落ちるのを感じていた。


 窓の外では、月明かりが変わらず静かに降り注いでいた。


 瞬く間に過ぎ去るこの夜が、果てしなく長く感じられた。


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