第36話 「朧夜」その三
一人で星空を眺めるうちに、イノリは次第に見入っていった。
うとうとと眠りに落ちそうな気がして、何となく時間を確かめようとした。
振り向くと、背後に恐ろしい黒い幽霊が立っていた。
「うわああああ!!」
イノリは飛び上がった。
着地した足が、ちょうど毛布を踏んだ。
体勢を崩し、大の字になって床へ倒れた。
けれど、この幽霊には、どこか見覚えがある。それに、この酒の匂い――
慌てて室内を見ると、ベッドは空になっていた。
「イノリくん――」
「フィル!お前が頑張ってくれるおかげで、心臓の発作が起きる日も近づいてる気がするよ」
「うう……イノリくん」
少女は小さくつぶやき、イノリの左隣に座った。
抗議のつもりで、イノリは冷たく顔をそむけた。
「かわいそうなふりをしたってだめだよ、お前――え?」
さっきの恐ろしい振る舞いを、半分冗談、半分本気で責め、自分がどれほど迷惑しているか、大声で訴える。
そのつもりだった。
けれど、少女の目元から伸びる二筋の涙に気づいた途端、声は和らいだ。
フィルが泣く姿を見るのは初めてだった。胸が痛んだ。
ため息をつき、ポケットからハンカチを取り出して、目元の涙をそっと拭った。
フィルは軽く首を傾け、イノリの肩にもたれかかった。
「ねえ。いったいどうした? 夢でも見た?」
「うん。悪い夢」
イノリの知るフィルは、つかみどころがなく、いつも強くて頼りになった。少し中二病なところはあるけれど。
臆病で気の弱い自分とは違い、フィルなら何が起きても鮮やかに解決するか、笑って済ませられるのだろう。
ずっと、そう思っていた。
だが、今、泣いている少女を前にして、見落としていたことに気づいた。
フィルも、ユナと同じ、十五歳の少女にすぎない。
むしろ今、隣で泣いている姿のほうが、本当の彼女に近いのかもしれなかった。
イノリの胸に、責任感が湧いた。
最弱貴族であっても、この仲間をがっかりさせたくはなかった。
「どんな夢? 話してみて。ちょうど今夜は眠れなくて、ここにいても退屈だったんだ……」
優しく声をかけ、毛布の半分をフィルにかけた。
「もちろん、思い出したくないなら、このまま一緒に星を見ていよう」
「うう……金色の夢なんだ」
「夢にも色があるの?」
「うん」
フィルは寂しげな顔でうなずいた。
「眠ると、よく金色の夢に入るんだ……故郷に帰って、友達のそばに戻るの」
「そっか。フィルにも、忘れられないことがあるんだね」
寄り添う二人を、月明かりが優しく照らした。イノリの胸にも、重なる思いがあった。
「ほら、この前、僕も星野孤児院の話をしただろ。その代わりに、フィルの昔の話も聞かせてよ」
「イノリくん。本当に聞きたい? 長い、長い話になるよ」
「もちろん。お前の相棒なんだから。情報交換は大事だろ? ね、名探偵」
「うん……」
フィルはうれしそうにうなずき、ポケットから何かを取り出した。
銀白色の勲章だった。羽根の模様が刻まれている。
「あれ? パンツと同じ模様だね」
「もう。こんなときまで冗談を言うんだから」
「その勲章、何かいわれがあるの?」
「うん。ミナミにもらったんだ」
ミナミ?
その名を聞いて、イノリは目を見開いた。
「ねえ。それって、まさか――」
「うん。南森南」
「すごいな、フィル。そんな大物と、どんな関わりがあったのか気になるよ」
「何年か前、僕はミナミの助手だったんだ。そのころ――」
少女が話し始めようとしたとき、鋭い物音が静寂を破った。
がしゃん!!!
ガラスの割れる音だった。
フィルは反射的に跳ね起き、音のしたほうを見た。
イノリも慌てて立ち上がった。驚いたことに、屋敷の四階の一室に、突然明かりがついていた。
「イノリくん、あの部屋は!」
「祖父の部屋だ! そんなはずない、祖父は今――」
異変を悟り、イノリは恐怖に目を見開いた。
すぐにフィルを見た。その目を見れば、同じことを考えているとわかった。
爆弾魔!!!




