第35話 「朧夜」その二
イノリはさんざん苦労して、欲張りな邪霊を玄関の外へ追い出した。
厄介な相手を説得するのに、ずいぶん手間取った。けれど、彼がいなければ、泥酔したアキラは本当に明日までテーブルで寝ていただろう。
幸い、滄溟がアキラの体の主導権を引き継ぎ、のんびりと歩いて帰っていった。
大仏と修羅の件を片づけ、イノリはフィルへ向き直った。
フィルも、ほかの者より酒に強いわけではなかった。
顔は真っ赤で、全身から酒の匂いがした。
目を細めているが、どこを見ているのかもわからない。
ふらふらと席を離れ、壁に向かって歩き出した。
「ほら。扉はこっち」
「酔ってない……酔ってないよ! 滄溟、滄溟! おいで! 僕ら……まだ飲もうよ!」
「もう、その辺にしてよ。みっともないから」
壁にぶつかる寸前だった。
幸い、フィルは土壇場で気づき、大きく向きを変えて、イノリのほうへふらふらと歩いてきた。
「何言ってるの、イノリくん……僕は酔ってない!」
「酔ってないなら、自分の部屋に帰って寝てよ! 構ってる暇はないんだ」
「ねえ、イノリくん――僕の部屋……どこだっけ?」
「三階。階段を上がって、右の二つ目。間違えないでよ」
「そう! そうだ! 二階……じゃなくて、三階……」
少女は手を振り、よろよろと扉へ向かった。
「またね、イノリくん――」
イノリが素早く開けていなければ、フィルは間違いなく扉に正面からぶつかっていただろう。
使用人たちが食堂の掃除を終えたころ、イノリは時計を見上げた。
九時五十分。
今になって、少し後悔していた。
酒は一滴も飲まなかった。けれど、おいしい甘草コーヒーを十数杯も飲んでしまった。
まぶたが開いたまま凍りついたようだった。回りすぎた機械のように、少しも眠気が訪れない。
使用人たちが去ると、周囲は静かになった。
がらんとした屋敷の中で、イノリは途方に暮れてまばたきをした。
何をすればいいのかもわからない。おとなしく自分の部屋へ戻ろう。
扉を開けた途端、眉を寄せた。
自分は清潔さには気を遣っている。普段なら、部屋に酒の匂いなどするはずがない。
「……フィル――?」
フィルが身をよじった芋虫のように、自分の小さなベッドを占領していた。イノリは絶望した。
「もう、フィル! 三階って言っただろ、三階! 二階じゃない! 僕の部屋じゃないんだよ!」
「むにゃむにゃ」
「ねえ! 聞こえてる? 起きて! 出ていってよ!」
「むにゃ……」
フィルは何かつぶやき、寝返りを打った。
邪魔くさそうに足を蹴り出すと、哀れな掛け布団が宙を舞い、どさりと床に落ちた。
そこで初めて、靴さえ脱いでいないことに気づいた。
出会ったときからずっと履いているサンダルが、まだしっかりと足に収まっていた。
自分のベッドを、こんなふうに踏みにじられるのは我慢できない。イノリは手早くサンダルを脱がせ、入口の絨毯へ放った。
仕返しに足の裏を強くくすぐっても、反応はなかった。すっかり心地よい夢の中らしい。
イノリは長いため息をつき、床にへたり込んだ。
掛け布団を拾って埃を払い、もう一度フィルにかけた。
この匂いのこもった部屋には、一秒もいたくなかった。バルコニーへ続く掃き出し窓を開けた。
冷たい新鮮な空気が、一気に顔へ押し寄せた。思わず身震いする。
そのまま窓を開けておこうと思ったが、振り返ると、フィルがぐっすり眠っていた。
冷えて風邪でも引かれたら困る。やめておこう。
そう思った。
イノリは部屋へ戻り、厚い毛布を羽織った。
再びバルコニーへ出て、後ろ手に窓を閉める。ゆっくりと床に腰を下ろした。
顔を上げた。
満天の星。




