第34話 「朧夜」その一
3489年 木乙月 第一氷己日
夜九時、宴会は終わった。
イノリが思っていたより、少し早かった。
いわゆる美酒というものは。
目の前の若者たちには、まだ刺激が強すぎたらしい。
フィルはさすがに優秀な探偵だと、イノリは感心した。
地下の酒蔵にある酒の中から、最も度数の高い四本を選び出し、全員を酔い潰す。そんなことができるのは、彼女くらいだろう。
酒のグラスに触れさえしなかったイノリには、酔いに身を委ねる夢心地など、味わえるはずもなかった。
それでも、理性を保った素面の「普通の人」として、酔った皆の奇妙な振る舞いを眺めるのは、それはそれで面白い体験だった。
今夜の主催者であるユナが、テーブルに突っ伏したままなのは、あまりにも礼儀に欠ける。
イノリは肩を強く揺すった。
「ねえ、ユナ。起きて。お客さんを見送らないと」
「ううん――」
頬を赤く染めた少女が、ふらふらと立ち上がった。
「あら、アキラくん――今日は泊まっていかない? 私の部屋に来て、少しお話ししようよ」
あの上品で落ち着いた姉が、堂々とこんな恥ずかしいことを言っている。イノリは途方に暮れた。
ほかの客にも対応しなければならず、姉にばかり構ってはいられない。
ヒカリは魔法書だ。魔法書がどれほど酒に強いのか、イノリにはわからなかった。
けれど、ほかに頼めそうな者も見当たらない。ユナを送り届ける大役は、彼女に任せることにした。
「ヒカリ。起きて。お姉様を部屋に連れていってあげて」
「お姉様、お姉様……えへへ、えへへ」
ヒカリはとろんとした顔で立ち上がり、イノリをじっと見つめた。
「イノリ……えへへ、かわいい」
ちゅっ――
頬に軽く口づけた。
イノリは一瞬で顔を赤くし、緊張して何も言えなくなった。
次の瞬間、ヒカリは魔法書に戻り、どさりと床に落ちた。
姉も妹も、酒でこんなことになってしまった。イノリは呆れて、何度も額を叩いた。
使用人たちは一日中働き、あとで掃除にも来なければならない。今の休憩を邪魔したくなかった。
執事も十数年、蘭空家に誠実に仕えてくれている。もう年なのだから、あまり手を煩わせたくなかった。
「もう。大人たちがいてくれたら……いや、違うな。勝手にお酒を飲んだって知られたら、もっと大変なことになるか」
一年前、ユミンが天時郡皇家病院の研修医に任命され、伯父夫婦は息子とともに王都へ移り住んだ。
叔父夫婦は三年前、招かれて千代城の中央研究所へ向かった。その実子である双子のユキとユネは、一日中屋根裏で神秘学の研究をしていて、あまり出てこない。
ユナの両親は今も王国南部の都市を巡り、薄桜城王立魔法学園の視察団を率いて、各地の学園との交流行事に参加している。
祖父の蘭空卿は先週、上層部から密命を受けて王都へ発ち、帰るのは来週の予定だった。
「つまり、こんなに大きな蘭空家が、今は僕一人にかかってるってこと?」
使命感が胸を満たした。喜ぶべきか、悲しむべきか、わからなかった。
姉と妹は、自分で寝室まで連れていくことにした。
残った客たちは、好きにしてもらうしかない。
フィルもこの家に住んでいるのだから、ひとまず放っておいていい。
アキラはというと――
少年は何事もなかったように、飽くなき食欲でテーブルの料理を平らげていた。ほかの者の様子など、まるで気にしていない。
「おい――」
イノリは軽蔑の表情を浮かべ、入口を指した。
「手伝わないなら、さっさと帰ってよ」
少年は皿に残った最後の肉の煮込みを口へ放り込んだ。
イノリの声を聞くと、素早く酒瓶を取り、残っていた半分ほどの酒をごくごくと飲み干した。
「何だよ――俺様はまだ食い足りねえぞ」




