第32話 「宵闇」その一
3489年 木乙月 第一氷己日
黄昏が幕を下ろし、夜が訪れた。
蘭空家では、特別な夕食会が開かれようとしていた。
「みんな、見てよ! ほら――」
はさみがちょきんと鳴り、包帯が一巻きずつ床へ落ちた。
数日前まで、右手は痛くてたまらなかった。今では、すっかり元気を取り戻している。
ユナとヒカリが世話をしてくれたことを思うと、感謝が込み上げた。
右腕を高々と上げ、五本の指を広げて、右手の凱旋を宣言した。
一斉に拍手が起こった。
皆の視線を一身に集め、イノリはますます調子に乗った。
自分が学園中の人気を集めるボディビルの王者になったつもりで、この年頃の少年なら誰でも知っている、格好をつけたポーズを次々に取った。
わざと腕に力を入れ、うっとりと自分に見とれたような顔をする。
「イノリ! かっこいい――」
ヒカリは目を輝かせた。
「おい! 俺様の目がおかしくなったのか? こいつのどこに筋肉があるんだよ?」
滄溟は露骨に顔をしかめた。
「イノリくん、スタイルもいいし、顔もかわいいし、声も女の子みたいだよね。女装したら、さぞかし……」
フィルは意地悪な笑みを浮かべた。
「お前ら――」
イノリが怒鳴ってつかみかかろうとすると、アキラが慌てて引き止めた。
「お待たせ、みんな。コーヒーにしよう!」
大きなポットがテーブルの中央に置かれ、周囲には繊細な作りのカップが並んだ。
ユナは一人ひとりのカップに、丁寧にコーヒーを注いでいった。
いつもなら、気の利く姉は角砂糖とミルクも持ってきて、イノリのカップへ入れてくれる。
いぶかしげに視線で訴えたが、ユナは微笑むだけだった。
コーヒーに青臭い草の匂いが交じっているのに気づき、イノリは眉を寄せた。
「ねえ、お姉様。これ、何?」
「甘草コーヒーだよ」
「あああああああ!!!」
イノリは取り乱して髪をかきむしった。フィルの顔を指で突き破ってやりたいほどだった。
「フィル、お前の仕業だろ! かわいそうなお姉様をそそのかして、こんな恐ろしい飲み物を作らせたんだな!」
「飲んでみてよ、イノリくん。きっと気に入るから」
二人の少女が息ぴったりに手を打ち合わせるのを、イノリは絶望しながら見つめた。信じられず、目を見開く。
蘭空家のみんなが牛のように道端の草を味わう姿を想像すると、自分の人生も終わりを迎えそうな気がした。
「あら。でも、コーヒーだけだと、少し物足りないかな。ね、イノリ」
「ああ、お姉様。そんな無邪気な顔をして、僕にこそこそ悪いことをしてこいって言いたいの? まずは、この気持ち悪いコーヒーをどけてよ」
「お酒? 持ってきたよ」
フィルはどこからともなく、光を反射する酒瓶を四本取り出した。整列させるように、テーブルへきちんと並べた。
イノリは呆然とした。今夜はいったい、あとどれほどおかしなものを見せられるのだろう。
「おい、泥棒! そのお酒、どこから持ってきたんだよ?」
「地下の酒蔵だよ。お酒の匂いがしたから、たどっていったら、全部見つかったんだ」
「探偵として、そこまで調べてたの?」
「もちろん」
「ごまかさないでよ。地下一階への階段は、物置の奥に隠れてるんだ。簡単に見つかる場所じゃない! この家に地下があるって、誰に教えてもらったんだよ?」
イノリは憤然と問いただし、その場の一同に鋭い視線を巡らせた。
誰も答えないので、いっそう確信が深まった。
「おい、どうしてみんな黙ってる? まさか、一日中屋根裏にいるユキとユネが、フィルの共犯だなんて言わないよね!」
フィルに手を貸した者は、誰であろうと見逃さない。
「ふん、見つけた――」
イノリはもったいぶって笑った。まるで、自分こそが本物の名探偵であるかのように。
ある人物の上で、視線が止まった。
「犯人は、君だ!」




