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第29話 『参の残影・虚湖』その三

 しぶきが瑠璃の蝶となって、空中を四方へ舞い散った。


 全身が冷たく、イノリは目も開けられなかった。


 湖水がこれほど冷たいとは、思ってもいなかった。


 水は軽やかに流れ、優しく体を支えていた。

 けれど、そこには少しの温もりもなかった。


 氷の地獄のようだった。


 水温は急激に下がり、手足をもぎ取ろうとするかのようだった。


 仮想の心相世界の中にいるはずなのに、魂を直に貫く痛みは、紛れもなく本物だった。


 イノリは大声で叫んだ。現実の世界から、少しでも応答がほしかった。


 同じように湖水へ沈み、冷たくなった水晶玉からは、途切れ途切れの不明瞭な声しか聞こえなかった。


 全身の激痛に耐えながら、水をかいた。


 丸く膨らんだフグのように、銀白の透明な体を、少しずつ湖面へ浮かせていく。


 空。空だ。あと少しで、水面を越えて空が見える。


「ぷはっ!!!」


 頭が水から出た。しぶきが跳ねた。


 イノリは目を開けた。


 青空などなかった。芳しい草も、美しい丘も、銀白の珊瑚もなかった。


 世界が、本当の姿をあらわにしていた。


 空を埋める白い霧。吹き荒れる寒風。


 太陽の姿は見えなかった。ただ、残された無数の光だけが、白霧に容赦なくのみ込まれていた。


 湖。

 そこには、変わらず湖があった。


 ただし、とうに凍りついた湖だった。

 蒼白の湖面は、この荒れ果てた世界と同じように、果てしない氷に覆われていた。

 無数の赤い錦鯉が、鮮やかな彫刻のように、氷の中で命を散らしていた。

 その亡骸は、長い間、静まり返っていた。


 死神が降り立ったような、音もなく滅びた「虚妄の湖」。


「くそっ。このままじゃ、ここで死んじゃう。何か、何かしないと――」


 水晶玉……水晶玉だ!

 今すぐ割れば、まだ――


 下を向いた。


 湖面の氷が、すでに首を挟み込んでいた。

 頭だけが凍った湖面に取り残され、奇妙な角度で、暗くかすんだ空を見上げていた。

 体はすべて水中に沈み、身動きが取れなかった。


 透明な水晶玉も氷の中に閉じ込められ、切り離せない一部になったかのようだった。


「まずい……」


 ユキとユネからは、聞いていなかった。

 心相世界の中で死んだら、どうなるのだろう。


 悪夢から目覚めるように突然起きて、無事だったことを喜ぶのだろうか。

 それとも、本当に死を迎え、ここにいる自分も、現実の自分も、二度と目覚めなくなるのだろうか。


 怖い。

 後悔した。

 温かな家へ帰りたい。ヒカリとユナのそばへ帰りたい。


 イノリは思わず苦笑した。


 体は完全に凍りつき、震えることさえできなかった。


 銀白の、実体のない体から流れる涙さえ、たちまち凍り、小さな欠片になった。


 少しずつ硬直し、少しずつ温もりを奪われていく――


 そのとき、白霧の中に、星空のような人影が再び現れた。


 イノリには、やはりその姿がよくわからなかった。

 見えるのは、夢の中のように美しく、壮烈な星空だけだった。


「助けて……助けて……」


 イノリは呼びかけた。


 何でもいい。せめて、何かしてほしい。


 けれど、その小さな願いさえ、冷えきって死のように静かな湖面に消えた。


 その人は、ただイノリを見つめ、動かなかった。


 体の中では、天体と宇宙の物質が衝突し、炸裂し、澄んだ高い音を響かせていた。


 いつしか、イノリの声が届いた。


 銀河を伴い、ゆっくりと歩いてきた。


 ようやくイノリのそばまで来ると、足を止めた。


 星空。

 言葉にできない、美しい星空。盛大な葬儀を見物する番人のようだった。


「僕に……何の関わりがある?」


 交錯し、ぶつかり合う星々の中から、そのつぶやきが聞こえた。


「何……?」

「僕に何の関わりがある!!!」


 刹那、咆哮が世界に響き渡った。


「ああああ!」


 その人の体に包まれた天体が、高速で巡り始めた。


「あああああ!」


 天体が爆ぜ、物質が消滅した。

 銀河は小さな特異点へと崩縮し、次の瞬間、周囲へ広がった。

 宇宙の大爆発がもたらすような凄まじい衝撃が、世界を丸ごと覆そうとしていた。


 湖は、なおも静まり返っていた。


 不気味な白霧が、散らばる星河をすべてのみ込んだ。

 大爆発の轟音さえ、果てしない湖水に凍りついた。

 だから、この世界は、変わらず静かだった。


 イノリは星空が消えるのを見送った。

 同時に、自分の命も、もう終わりに近づいていると悟った。


 骨を刺す寒さに耐えきれず、目の前が少しずつ暗くなった。

 体温が急速に失われ、意識がかすんでいく。


「さよなら。さよなら……」


 星の光は白霧に消え、白霧は闇に消えた。

 心相世界は、ついに砕け散った。


 最期の別れを済ませ、イノリは安らかに目を閉じた。


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