第28話 『参の残影・虚湖』その二
「もしもし、星。聞こえるかな?」
「もしもし、星。聞こえるよね」
「もしもし、ユキ? ユネも?」
水晶玉からの声は、次第にはっきりしてきた。
「ああ、こちらはユキ。声が聞けてうれしいよ。今はどんな様子?」
「うん、こちらはユネ。記憶が見られてうれしいよ。どんな気分かな」
「すごくいいよ! 実験は大成功だね! 予定どおり、ちゃんと自分の心相世界にいるんだ」
「うん。新世界を通して、こちらからも心相世界を観測できるよ」
「うん。水晶玉を通して、こちらからも姿が見えるよ」
「何だよ。ここは僕だけの場所だと思ってたのに」
せっかくの新しい体験だ。一人でこの世界を味わいたかった。
二人に見られていると知って、少し残念だった。
けれど、ユキとユネのおかげで、初めて自分の心をこの目で見られたのだ。
そう気づくと、すぐに気持ちは上向いた。
「まあ、いいか。時間を無駄にしないでおこう。二人とも、僕が遊ぶところを見ててよ!」
「心相世界は安定した存在だけど、人の夢と同じように、突然の混乱や未知のものに満ちている。そうだよね、妹よ?」
「気をつけてね。帰りたくなったら、手にした水晶玉を割ればいい。そうだよね、兄さん」
こんなに穏やかで安らかな世界にいるのだから、危険なことなど起こらないだろう。
「割る? そんなの嫌だよ! この楽園を、もう少し楽しんでいたいんだ。それじゃあ、またあとで」
「無事を祈るよ、星」
「うまくいきますように、星」
水晶玉の光が、少しずつ弱まっていった。
あたりは静まり返った。
自分の息遣いまで聞こえた。
イノリは浮き立つ気持ちで、湖畔の草地を跳ね回った。湿った小石が、足元から滑り落ちた。
指先で湖面に触れ、幾重にも広がっていく波紋を眺めた。
歓声を上げ、思いきり叫んだ。
自分一人だけの世界で、果てしない自由に浸っていた。
やがて――
湖の真ん中に、人影があることに気づいた。
イノリは驚いて目を見開いた。
確かに、誰かが静かな湖面を歩いていた。
輝く人の輪郭だった。その中には、無数の天体と宇宙の物質が詰まっているようだった。
こうして互いを見つめているのに。隔てているのは、ただ一面の水だけなのに。
なぜか、あの人はこちらへ来ず、自分も向こうへは行けないのだと、悲しく思えた。
イノリは黙って、湖の真ん中の人影を見つめた。
時間が過ぎるほどに、その悲しみが、ますます心を満たしていった。
「そうだね。こんなに近いのに、僕は向こう岸にたどり着けないんだ」
遠い。どこまでも遠い。手の届かない遠さ。
どうしてだろう。
どうして、こんなことばかり考えるのだろう。
足元の湖水へ目を落とした。大きな湖に、答えを求めるように。
湖は静かに黙っていた。
イノリは悲しくなって、すすり泣いた。
熱い涙が、静かな湖面に落ちた。
波紋は広がらなかった。涙は、音もなく湖水に溶け込んだ。
初めから、二つに違いなどなかったかのように。
途方に暮れていると、足元の草が突然、透き通る水面に変わった。
岸辺はいつの間にか、数メートルも後ろへ退いていた。
イノリは、自分が湖面の上の宙に浮いていることに気づいた。
ざぶん――
声もなく、落ちた。




