第27話 『参の残影・虚湖』その一
3487年 土戊月 第二木乙日
時刻、不明。場所、不明。
イノリは目を開けた。
虚無の上に立っていた。
足元には蒼白の空があり、周囲も頭上も、同じ色に覆われていた。
果てしない天地に、ほかには何も存在しなかった。
とうに壊れてしまった、異常な世界のようだった。
自分の体を見下ろした。
透明な白い輪郭。空気を詰めた風船のようだった。
「僕は誰? ここはどこ?」
イノリは自分に問いかけた。
この誤った世界に、ただ一人残された、誤った存在なのか。
ただ一人のために用意された夢に沈み、あてもなくさまよう者なのか。
この果てしない墓の中で、最期を待つ、死にゆく者なのか。
何も思い出せなかった。
感じられるのは、刻一刻と時間が過ぎていくことだけだった。
五秒が過ぎた。
刹那、すべての記憶が潮のように、イノリの魂へ流れ込んだ。
ユキとユネの研究に協力するため、自分の「心相世界」に入ったのだと思い出した。
双子の説明によると、「心相世界」とは、心を具体的な形で表したものだという。
抽象的で実体を持たない、精神上の「思い」を、形のある「物質」として再現し、一つの仮想世界を構築するのだ。
実験への協力を引き受けたことが、幸運なのか不運なのか、イノリにはまだわからなかった。
ただ、小さな願いが一つあった。
自分の心は、いったいどんなものなのか。その中には、どんな景色が広がっているのか。知りたかった。
イノリは、この実験に身も心も委ねようと決めた。自分だけの、この夢に。
一人で進もう。心の世界の果てまで。
「ねえ、ユキ? 聞こえる?」
手にした水晶玉へ、大きな声で呼びかけた。
現実の自分は屋敷の屋根裏に横たわり、深く眠っている。イノリはそう理解していた。
だから、この水晶玉が、現実にいる双子と連絡を取る唯一の道具だった。
「……」
雑音に交じって、不明瞭な声が聞こえた気がした。何を言っているのかは、聞き取れなかった。
心相世界が、まだ完全には構築されていないのかもしれない。もう一つ、小さなきっかけが必要なのだろう。
深く息を吸った。
目を閉じた。
もう一度、開いた。
虚無の世界は消えていた。
蒼白の時と空間は、新たな景色に塗り替えられていた。
耳元で、かすかな風の音がした。
世界のどこかから吹いてきた微風が、青い空を渡っていくのを感じた。
やがて風の音も止み、あたりは静まり返った。
大きな湖が、目に映った。
湖面は遠くの丘まで広がり、その果ては見えないようだった。
きらめく水面は、宇宙のプリズムのように、星空をまるごと映していた。
さざ波の歌が聞こえる気がした。ダイヤモンドが滴るような音符が、果てしない楽章となっていく。
静かな湖水の中で。澄みきった水鏡の中で。
岸辺には、銀白色の珊瑚が群生していた。湖面から頭をのぞかせる姿は、真っ白な雪山のようだった。
澄んだ湖水に、銀白の影がまだらに映っていた。
遠くには、丘が連なっていた。
丈の低い草が一つ、また一つと丘を覆い、やがて山野のすべてが、濃い緑に沈んでいた。
そのすべてが、心相世界という幻想の中に現れていた。
「湖か。悪くないね」
イノリは素直に受け入れ、満ち足りた気持ちになった。
自分の心は、波乱に富んだ、胸躍る叙事詩のような壮大な世界ではなかった。
それでも、静かな湖だけで、十分に心が晴れた。
目の前の景色に、うれしさで体が震えた。
魂の奥底から湧き上がる、熱い喜びだった。
そのとき、水晶玉がかすかに光った。
輝く球体の中から、声が届いた。




