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第26話 「縁起」その三

「誰?」

「南森」


 その答えに、イノリは驚かなかった。


 フィルはもともと南森家に仕えているのだから、一族の人たちとも親しいのだろう。


 南森南。千代城の若き城主。

 イノリは会ったことこそないが、その名を知らない者はいない。


 フィルが思いを寄せているのは、そんな、誰もが注目する一城の主だったのか。

 たいしたものだ。

 ――と、イノリは勝手に納得した。


「それなら、頑張らないとね。フィル」

「うん」


 少女は微笑んでうなずいた。


 ふと、誰かを忘れている気がした。

 イノリは下を向き、滄溟の頬を指で強く弾いた。


「ほら、起きてよ」


 大きなスライムのように、いくら揺すっても反応しなかった。


「ああ、わかった。僕にもフィルにも恋人がいるって聞いて、妬いてるんだろ? はは! 一人身だからって、同情してあげないよ」

「な――ん――だと!!!」


 滄溟は目を見開き、勢いよく起き上がった。イノリをきつくにらみつける。


「俺様をそこまで馬鹿にするとはな!」

「へえ? じゃあ、教えてよ」

「ふん、いいだろう! 今回は俺様が情けをかけてやる。世間知らずのてめえら二人に、よく見せてやるよ!」


 滄溟は得意げに指を鳴らした。


 空中に水の幕が現れ、そこに切れ目が走った。


 黄ばんだ羊皮紙が一枚浮かび上がり、そっと手に落ちた。


 亡霊族がどうやって恋をするのか、イノリには想像もつかなかった。興味津々で顔を寄せる。


 羊皮紙には、誰かの肖像が描かれていた。


 背の低い女の子で、愛らしい幼子に見えた。

 真っ白な髪。

 髪というより、何本もの長い触手だった。

 灰色がかった肌の色が、真っ白な触手の髪と鮮やかな対比をなしていた。

 幼い顔には、黄金のように輝く瞳があった。


「うわっ! ロリコンだ――」

「何言ってやがる! こいつは俺様よりずっと年上だぞ!」


 滄溟は誇らしげに胸を張った。


「ふん、教えてやろう。こちらは我らが亡霊連邦の大賢者、『異蛸』だ。子供みたいに見えても、とんでもなくすげえんだぞ」


「異蛸? その名は知ってるよ」

「やるじゃねえか、フィル!てめえが物知りだってのは認めてやるよ」

「じゃあ、君は? 滄溟。何があって、故郷を離れて僕たち人間の仲間になったの?」

「ああ、それか……」


 邪霊は、尽きない悲しみをにじませて、長いため息をついた。


「話せば長えんだ。とにかく、何百年も前に、俺様は『黒燭』の怒りを買っちまった。それで名前を奪われて、滄溟っていう大鎌に封じ込められたんだ」

「邪霊の長、黒燭か。その名なら、僕もよく聞いてるよ」

「そんなことまで知ってんのか。とにかく、強い呪術で追放されて、どことも知れねえ場所に埋められた。それから、長いこと眠ってたんだ」

「それはまた、ついてないね」

「まったくだぜ。だが、ある日、アキラが大鎌を地面から掘り出してくれたんだ。おかげで俺様も目を覚まして、あいつに取りついたってわけだ」

「それは困ったね、滄溟。アキラのそばから離れられないなら、異蛸にまた会えるのは、いつになるんだろうね」

「ふん、フィル。てめえ、ほんとに口が悪いな……」


 三人が楽しく話していると、双子がひっそりとそばへやって来た。


「星。聞いて」

「紫。見て」


 ユキがイノリの袖を引いた。

 ユネがフィルの髪を撫でた。


「どうした、ちびっ子たち。二人も恋人を紹介しに来たの?」

「ユキに恋人はいないよ、星。そうだよね、妹よ?」

「ユネに恋人はいないよ、星。そうだよね、兄さん」


 双子は不思議そうに顔を見合わせた。


「星。君に聞きたかったんだ。『心相』の儀式は、準備ができたよ。明日、実験に参加してくれる?」

「紫。君に伝えたいのかもしれない。『世界』の旅は、準備ができたよ。明日、実験に参加してほしいよ」


 ユキはイノリに、真摯に頭を下げた。

 ユネはフィルに、愛らしくお辞儀をした。


「待って。それって、心相世界のこと?」

「そうだよ」

「そのとおりだよ」


 イノリは驚いて双子を見つめ、目を見開いた。


 長く閉ざされていた記憶が、頭の中にそっと浮かび始めた。


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