第25話 「縁起」その二
滄溟が反射的に逃げ出そうとしたので、イノリは慌ててその腕を固くつかんだ。
「ほら、滄溟。何を怖がってるんだよ。本当の臆病者はどっちだろうな」
「な……何言ってやがる! 俺様は怖がってなんかねえ!」
「じゃあ、どうしてずっと震えてる?」
「ちょっと寒いだけだ! 悪いかよ!」
フィルが二人の前に来ると、滄溟は怯えて目を閉じた。
フィルは呆れたようにため息をつき、イノリの左隣に座った。
「強い亡霊ならいろいろ見てきたけど、こんなに臆病なのは初めてだよ」
「お……俺様は臆病じゃねえ!」
「僕を仲間だと思う亡霊だっているのに。見ただけで逃げるのは、君が初めてだよ」
「おい! いきなり刀を抜いたのはてめえだろ! あんなことされたら、誰だって怖がるに決まってる!」
「仲間の中に邪霊が紛れ込んでるってわかったら、僕だって落ち着いていられないよ。それに、君がいきなり逃げなきゃ、わざわざ追いかけたりしなかったのに」
「てめえ……!」
言い返せないが、どうしても屈したくはないらしい。滄溟は悔しげに草地を殴り、恥ずかしそうに顔をそむけた。
普段あれほど威張っている不良少年が、今では一人の少女にすっかり頭が上がらなくなっている。
そう思うと、イノリは胸がすくようだった。
ふと、いいことを思いついた。口元にずるい笑みが浮かぶ。
「まあまあ、二人とも。誤解も解けたんだし、仲よくしようよ。ほら、握手」
左手でフィルの右手を、右手で滄溟の左手を取った。二人が気づくより早く、勢いよく合わせる。
フィルは無表情で、落ち着き払っていた。
その陰で、滄溟の指をこっそりつまんだ。
「うわああ――」
滄溟は魂が抜けたように、力なく草の上へ倒れた。
「まずいね、イノリくん。怖がらせて死なせちゃった」
「かわいそうに。あとでごみ箱に埋葬してあげようか」
「おい、俺様はまだ死んでねえ!」
「ん?!」
フィルの鋭い目に射すくめられ、滄溟は一瞬で悟りを開いた。
柔らかな草の上こそ、自分の帰る場所だと気づいたのかもしれない。神の奥義を悟った至高の者のように、澄みきった穏やかな心で、世界の静けさを感じていた。
果てしない恐怖は少しずつほどけ、見えない掛け布団となって、哀れな邪霊をそっと覆った。
その優しい子守唄の中で、滄溟はかすかに微笑み、安らかに目を閉じた。
世界が静かになった。
イノリは、少し離れたところにいる、熱愛中の二人へ目を向けた。
二人は今、花畑で仲睦まじく過ごしていた。
アキラは鮮やかな花をいくつか摘み、草で編んだ輪にそっと挿した。
姫に冠を授ける騎士のように、それをユナの頭へ優しく載せる。
ユナは恥ずかしそうに顔を真っ赤にした。
「ずるい」とつぶやきながら、アキラの胸を拳で軽く叩いた。
それでも、お嬢様らしく気取ってみせ、頭の花冠を何度も撫でていた。
「――ああ。デートか。いいなあ」
イノリは小声でつぶやいた。
その言葉に、フィルはたちまち興味を示した。
「あれ? 何を考えてるの、イノリくん。もしかして、好きな人のこと?」
「えっと……」
「誰かな、誰かな?」
立て続けに問いかけられ、イノリはうんざりしたように目をそらした。
けれど、別に秘密でもない。正直に答えることに抵抗はなかった。
「ヒカリだよ、ヒカリ。探偵なのに、それもわからないか?」
「イノリくんって、やっぱりえっちだね。自分の妹にまで手を出すなんて」
フィルの言葉は、痛いところを突いてきた。
イノリはたちまち顔を赤くし、慌てて両手を振った。
「おい! 僕は祖父に拾われた子で、ヒカリは魔法書なんだ。僕らが付き合って、何が悪いんだよ」
少女が答えるより先に、イノリは反撃に出た。
「じゃあ、フィルは? お前の好きな人は誰なんだよ」
「え?」
フィルは不意を突かれて固まった。すぐに何かを思い出しているようだった。
ぼんやりと顔を上げ、空を流れる雲を眺めた。
少し黙ってから、イノリを見た。
「教えてもいいよ」




