第22話 「暗流」その一
3489年 木乙月 第一火丁日
のどかな午後だった。
昨日一日休んだおかげで、イノリの体はずいぶん回復していた。
右手も、もう痛まない。週末には包帯を外せそうだった。
来週にはいつもどおり学園へ戻り、爆弾魔を捜す調査に取り組めるだろう。
廊下の窓辺に寄りかかり、物思いに沈んだ顔で、庭の桜を眺めていた。
ふと、思いがあの雨の夜へ戻った。
血色の桜の下に立つ、大きな人影。
続けざまに響く足音が、イノリを現実へ引き戻した。
つかみどころのない双子が、目の前で足を止めた。
「知らない人かな、妹よ?」
「知らない人だね、兄さん」
少年は大きな木箱を抱え、フィルの前で立ち止まった。
少女は分厚い巻物を抱え、フィルの前で立ち止まった。
「紫。紫なのかな?」
「紫。やっぱり紫だね」
少年は興味深そうに目をぱちぱちとさせた。
少女は疑わしげに片眉を上げた。
「不思議だね。予言はできるかな、妹よ?」
「不思議だね。予言はできないよ、兄さん」
双子は顔を見合わせた。
「そのときが来たら、星を訪ねよう」
「時間があったら、紫を訪ねよう」
少年は振り返らずに去った。
少女はそのあとに続いた。
「あの二人、あんまり変わらないな」
「ユキとユネ、だよね。やっぱり一味違うね」
フィルは双子の背中を見送り、感心したように何度もうなずいた。
ポケットから何かを取り出して口へ放り込む。しゃくしゃくと噛む音がした。
蘭空家の菓子職人が、緑色の菓子を焼いたことは、これまで一度もない。
イノリは目を細め、疑わしげにフィルのポケットを見つめた。
「うわっ! 牛がいる! お前、その草、どこから持ってきたんだよ! それに、どうして食べてるんだ!」
「もぐ、もぐ……甘草っておいしいんだよ。さっき庭で摘んできたんだ。イノリくんも、少しどう?」
「あっち行ってくれよ!」
「食べてみてよ。本当に甘いんだから」
ひとつかみの甘草を口に詰め込まれそうになり、イノリは絶望して背を向け、走り出した。
フィルも心得たように、そのあとを追った。
二人は階段を駆け下り、屋敷の応接間へやって来た。
ユナが心配そうな顔でソファに座り、執事と何かを話していた。
「やっぱり、少し心配なの……もしかしたら……」
「私にも判断しかねます。報告書をまとめ、蘭空卿とユミン様へお送りいたします。それでは、失礼いたします」
執事は真剣な顔で答えた。
イノリとフィルが来たことに気づくと、急いで一礼し、去っていった。
ユナはうなずいて見送り、重い表情でため息をついた。
ふざけ合う二人に顔を向け、口元にかすかな笑みを作った。
「こんにちは、イノリ、フィル」
「どうした、ユナ? 何か心配事?」
ユナは険しい顔でイノリを見つめた。
少しためらったあと、うなずいた。
「大したことじゃないよ。爆弾魔のこと。この数日、私たちは学園に行っていないでしょう。その間に、何か起きたらと思って――」
「大丈夫だよ、ユナ。向こうで何か起きたら、むしろイノリくんの無実を証明できるでしょ。ね、イノリくん」
フィルはおどけるように目をぱちりとさせた。
「何言ってるんだよ! あんな爆弾魔に、僕らの学園を脅かさせるわけにはいかないだろ!」
イノリは義憤に駆られ、胸を叩いてフィルの冗談をはねつけた。
「それなら安心して、イノリ。爆弾魔は学園には行かないと思うよ」
フィルは両手を広げた。
そして、よからぬ笑みを浮かべてイノリに顔を寄せ、声をひそめた。
「ねえ、イノリくん。実は僕も見たんだ。昨日の夜に」
「な、な、何を――」
「部屋のテラスから下を見たら、大きな影が、一つ下のテラスに立ってて……」
フィルの寝室は屋敷の三階、自分の寝室の真上にある。
全身に寒気が走った。
「おい、脅かしてるんじゃないか!」
「違うよ。帰る前に、予告状まで残していったんだ。今日の午後四時までに、この屋敷へ君に会いに来るって。イノリくん」
イノリは思わず震え、暖炉の脇の大きな置き時計を振り返った。
三時五十五分。
慌ててフィルを見ると、彼女は重々しい顔でうなずいた。
「まあ、そういうこと。爆弾魔のお目当ては君だし、僕は邪魔しないでおくよ。元気でね、イノリくん」
フィルは悲しげな顔でため息をついた。ゆっくりと立ち上がり、服の裾を払った。
「お前――本気じゃないだろ。ちょっと、フィル!」
フィルは呼びかけを無視し、振り返りもせず階段を上っていった。
その態度に、イノリはすっかり追い詰められた気分になった。急いでユナを振り返り、すがるような顔を向ける。説明でも、助けでも、何でもよかった。
ユナは両手を広げ、困ったように笑った。
そして、ふと思い出したように立ち上がった。
「もうすぐお客様が来るから、コーヒーを淹れてくるね」
フィルと示し合わせていたかのように、ユナまで階段を上っていった。イノリはそれを見送るしかなかった。
どうすればいいのかわからず、力なくソファに沈んだ。動揺しながら、またすぐに時計へ目を向けた。
三時五十七分。
どん――どん――どん――
約束どおり、玄関の扉が叩かれた。
「待っ――」
イノリが声を上げて止めるより早く、若い使用人が扉を開けていた。
扉の向こうに立つ、大きな人影。




