第21話 「回天」その三
魔法書が、少女の姿に変わった。
「イノリ――」
ヒカリが、わっと声を上げた。
優しい子猫が跳ね上がり、その胸へ飛び込もうとした。
イノリは急いで右腕を布団の下に隠し、すっぽりと覆った。
左腕を広げ、恋人の熱烈な飛び込みに備える。
「イノリ! イノリ! 目が覚めてよかった! 死んじゃうかと思って、あたし、悲しくてたまらなかったんだから!」
「何言ってるんだよ! そんな簡単に死ぬわけないだろ?」
ヒカリはイノリの胸に顔を埋め、涙を流し続けた。
イノリは肩をぽんぽんと叩いて慰めながら、こっそり顔を伏せて、その髪の匂いを嗅いだ。
ああ、小さな太陽みたいな匂いだ。
ふと、今は恋人と二人きりではないことを思い出した。
何でもないふりをして顔を上げ、恐る恐るフィルを見た。
残念ながら、探偵のいたずらっぽい笑みが、すべてを物語っていた。
ああ、イノリくんって、考えてることが丸わかりだね。思春期の男の子って、こうなんだ。好きな子の前だと、すっかり鼻の下を伸ばしちゃって――
フィルは何も言っていなかった。それなのに、その声が頭の中でいつまでも響いている気がした。
イノリは恥ずかしくなって、顔をそむけた。
「お姉様から聞いたよ。悪い子の『フィル』! イノリをこんな目に遭わせたのは、あんたでしょ!」
ヒカリは涙を拭い、怒りに満ちた目でフィルをにらんだ。八重歯がわずかにのぞき、今にも容赦なく噛み裂きそうだった。
「何それ。かわいそうな被害者は、僕のほうなのに。うう――」
「口先だけじゃごまかされないんだから!」
ヒカリが飛びかかりそうになり、イノリは慌てて顎を撫でた。
「気持ちいい! ごろごろ――」
慣れた手つきで顎を撫でられると、ヒカリはたちまち力を抜いた。
吼える猛虎が、一瞬で気だるげな猫に戻った。
危機を乗り切ったと、イノリはひそかに胸をなで下ろした。そこへ、扉を叩く音がした。
ユナが入ってきた。後ろには、何人かの使用人が続いていた。
その手にした盆には、大小さまざまな焼きたてのパンが並んでいた。
目が合った瞬間、ユナは目を見開き、喉を詰まらせた。
「イノリ――」
少女は、わっと泣き出した。
「ヒカリ、ちょっとどいて! お姉様、右手は押さえないで、右手は――」
イノリは慌てて身構え、飛び込んできた少女と強く抱き合った。
「目が覚めて、本当によかった! イノリ――右手の傷は? 大丈夫? うう、お姉様、心配でたまらなかったよ」
「まあ、みんなのおかげでね。特にヒカリには助けられたよ。見てのとおり、もう大丈夫」
「うう――私が、無理に戦わせたから。ごめんね……」
「お姉様のせいじゃないよ。先にフィルと約束したのは僕だから」
怪我をしたのは自分なのに、今は人を慰めるのに精いっぱいだ。ひどく疲れた。
フィルに始まり、ヒカリ、そしてユナ。
まあ……考え方を変えれば、こんなに大勢の美少女に心配してもらえる自分は、ずいぶん幸運なのだろう。
イノリはそう思った。
すすり泣く少女を小声でなだめ、ハンカチで目元の涙をそっと拭った。
少し落ち着くと、ユナは今度は申し訳なさそうにフィルを見た。
「ごめんね、フィル! 私のせいで、あんなひどい怪我を――えっ?」
元気いっぱいのフィルを見て、言葉が止まった。
フィルはそれに応えるように腕を組み、その場でくるりと一回りした。
「大丈夫だよ、ユナ。僕は何ともないから」
「でも、あのときは全身が焼け焦げていたって、みんな……」
「はは。イノリはあんなに弱いんだから、僕が怪我するわけないよ。あのときは確かに怖かったけど、すぐに自分で治ったんだ」
「そんなことがあるなんて……」
ユナも自分と同じで、フィルの不思議な体質をすぐには理解できないのだろうと、イノリは思った。
けれど、今は自分もフィルも無事でいる。
少なくとも今は、二人が無事だったことを何より喜んでいるように見えた。
「はあ。やっと安心できた。本当によかったよ」
恐怖も不安も、すっかり消え去った。
長く息をついてから、ユナは使用人たちに、食事の盆をテーブルへ置くよう指示した。
「みんな、まずはご飯にしよう」
「お姉様、今から食べてたら、みんな遅刻しちゃうよ」
「もう――」
ユナは怒ったふりをして、イノリの鼻をつまんだ。
イノリはふざけて舌を出した。
「二人とも、心配ばかりかけるんだから。今週はおとなしく家にいなさい。私も休みを取って、ここにいることにするよ」
「やった! ユナ、最高!」
思いがけず休みができて、フィルは大喜びだった。
イノリは一緒に歓声を上げなかった。どう受け止めるべきか、すぐには決められなかった。
だが、包帯だらけのひどく腫れた右手を見て、すっかり気が抜けた。
「まあ、それもいいか」
そう思いながら、窓の外へ目を向けた。
日差しは、変わらず明るかった。




