第19話 「回天」その一
3489年 木乙月 第一水丙日
朝の日差しが部屋を照らし、イノリの鼻をくすぐっていた。
大きなあくびをして、目を開けた。
天井が少し違って見えた。自分の寝室の天井は、こんなふうではなかった気がする。
何かの匂いが漂っていた。鼻を利かせてみる。
ひどくかすかな匂いだった。初めから存在しない、幻のようにさえ思えた。
けれど、イノリはすぐに思い出した。
――ユミンの医務室。
ユミンが天時郡で働くようになってから、この医務室はほとんど使われなくなっていた。
それでも、ときどき帰ってくるので、中のものはきちんと保管されている。
ただ、普段は鍵がかかっているはずだった。
どうして自分がここにいるのか、イノリは考え始めた。
ふと、昨日のフィルとの戦いを思い出した。
まばゆい星河が少女の全身を焼き、自分も気を失ったのだ。
体はまだひどく疲れていた。右手は感覚を失っているようだった。
どうにか顔を横に向け、枕元の棚を見た。
一冊の魔法書が、静かに横たわっていた。
「ヒカリ……ヒカリ!」
呼びかけた。
魔法書は反応しなかった。初めから命など宿っていないかのように。
世界で誰よりも自分を大切に思ってくれる彼女は、傷を治そうとして、光の魔法――癒術を使いすぎたのかもしれない。
そのせいで魔力が尽き、一時的な眠りに落ちているのだろう。
鼻の奥がつんとした。胸にさまざまなつらい思いが込み上げた。
「ヒカリ……」
今にも泣き出しそうな、かすかな声が漏れた。
「ねえ、イノリくん――」
聞き間違いではなかった。フィルの声だ。
「フィル?」
慌てて振り向いた。
少女の姿は見当たらなかった。けれど、隣のベッドには、確かにミイラが寝ていた。
その不気味なものが恐ろしくて、イノリは唇を震わせた。ただの幻であってほしいと、心の中で祈った。
そして顔を背け、ヒカリを視界に入れた。少なくとも、こうしていれば安心できる。
「イノリくん――」
フィルの声が聞こえ、もう一度振り向いた。
全身を包帯で巻かれたミイラが、すぐそばに直立していた。
「うわあ――亡霊だ!!!!」
脳が真っ先に身を守ろうとしたのか、意識が遠のき始めた。
同時に、体は無意識に反撃に出ていた。
右手はずしりと重く、かすかに痛んでいた。
それでも、生き延びようとする本能が、一気に力を湧き上がらせた。右手を振り上げ、ミイラの頭を思いきり殴った。
痛みが、神経細胞をつなぐ道を稲妻のような速さで駆け抜け、頭へ届いた。
恐怖で気絶しかけていたのに、右手から走った激痛で、一瞬にして目が覚めた。
「痛い痛い痛い……イノリくん、降参! 降参だよ! お願い、もう殴らないで!」
「もう、フィル! 僕が心臓を悪くするまで脅かさないと、気が済まないのかよ!」
「起きて、ちょっと手伝ってほしかっただけだよ」
「手伝うもんか……って、どうしたの?」
「包帯を取るの、手伝ってくれない? 何も見えなくて、つらいんだ」
イノリは少しためらい、自分の右手を見下ろした。
包帯が幾重にも巻かれ、大きなおにぎりのようになっていた。
自分でさえ、こんな状態なのだ。昨日、全身を焼かれた少女なら、なおさらだろう。
生きていてくれただけで幸運だった。これ以上、危険な目に遭わせるわけにはいかない。
「まだだめだよ! 今取ったら、全身の傷が化膿しちゃう!」
「もうっ! こうなったら――」
フィルは忠告をまるで気にせず、ベッドの脇に立てかけられた黒い刀を手探りで見つけた。
左手で鞘を押さえ、右手で柄をつかむ。軽く左右に引いた。
かちゃり――
鋭い刃があらわになり、暗紅色の炎が燃え上がった。
フィルは右手を炎にかざした。巻かれた包帯が黒く焼け焦げていく。
右手が自由になると、改めて柄をしっかりと握った。
「フィル、だめだ!」
イノリは切羽詰まった声で叫んだ。
今すぐ止めたかった。だが、体が重く、少しも動けなかった。
ためらいなく自分の命を絶とうとするかのように、少女は首元へ刀を当てた。
深く息を吐いた。
刀を振るった。




