第18話 『弐の残影・野良星』その三
幸い、ユミンが素早く支えてくれたので、そのまま気を失わずに済んだ。
「はあ……僕の医務室って、そんなに怖いかな」
若い医師は困ったように肩をすくめ、壁を指した。
「子供の絵でも飾ろうか。それとも、椅子にぬいぐるみを置くとか?」
ユミンを嫌な気持ちにさせたくなくて、イノリは慌てて首を振った。
「もう大丈夫……少し疲れただけだから」
弱々しい声を聞き、ユミンはため息をついた。
「ごめん……無理をさせるべきじゃなかったかな」
イノリの右手を握り、真剣なまなざしを向けた。
「信じて、イノリ。力を抜いて。すぐに終わるから」
イノリはうなずいた。
五分後、三人は一緒に医務室を出た。
どうやら、前に負った傷を確かめただけだった。
数日前、逃げる途中で脚を切り、腕の皮を大きくすりむいて、頭をぶつけて痣を作った。それだけのことだ。
その程度の傷を、イノリはあまり気にしていなかった。どうせもうかさぶたになっているし、数日もすればすっかり治る。
暮光城の大災害から生き延びられただけで、十分だった。
「どうだった、兄さん?」
「うん、心配いらないよ。イノリは健康だし、傷もひどくない。異常なし。さっそく祖父に報告書を届けてくる」
そこで初めて、イノリは気づいて驚いた。ユミンはいつの間にか、一枚の紙いっぱいに、びっしりと報告を書き上げていた。
「えっ! いつ書いた? 全然気づかなかったんだけど!」
「はは。医師なら、これくらいは基本だよ」
「本当に魔法じゃないの?」
「僕にとっては、医学が魔法なんだ」
いかにも几帳面で落ち着いて見えるユミンも、今はお茶目で快活な一面を見せていた。
意味ありげにイノリの肩を叩き、いたずらっぽい顔で、楽しそうに笑った。
「さて、冗談はここまで。それじゃあ、ひとまず失礼するよ。ユナ、イノリのことを頼んだよ」
そう言って、背を向けた。
三秒後には、もう姿が見えなくなっていた。
「歩くのまで、どうしてあんなに速いんだろう」
「医師なら基本なんだよ」
二人の少年の冗談を聞いて、ユナは笑いっぱなしだった。
イノリも少しずつ、ここに馴染んできたらしい。そう思うと、うれしくて笑みがこぼれた。
「それじゃあ、休もうか。イノリの部屋はまだ掃除中だから、先に私の書斎へ行こう。そうだ、コーヒーは好き?」
「コーヒー? えっと……わからないな。前にヒトミっていう友達がいたんだけど、すごくまずいって言ってた」
「何ですって!!!!」
怒り狂った獅子のような声だった。ついさっきまで優しく愛らしい少女だったとは、信じられなかった。
「だめ! そんなの失礼だよ! どうしてそんなことを言うの!」
憤然と背を向け、大股で歩き出した。
「ついてきて、イノリ! 今日は私のおごり! あとで、公平で正直な感想を聞かせてもらうからね!」
十分後。
「うーん……」
イノリは部屋に一人きりで、空になったコーヒーカップを見つめていた。
もう一杯飲もうと立ち上がりかけたが、コーヒーを淹れた経験がなく、諦めた。
大きな本棚には、立派な本が何百冊、何千冊と並んでいる。一冊選んで読んでみたかったが、汚すのが怖くて、それも諦めた。
仕方なく柔らかなソファに座り、静かに時が流れるのを感じていた。
「少し味が強すぎるかな。角砂糖とかミルクとかを入れたら、ちょうどよくなりそうだけど」
イノリは心の中で感想をつぶやいた。
五分前、ユナは突然、大事なことを忘れていたと言い出した。
「大変! 祖父と約束してたんだ。二時前に庭へ行って、魔法の練習をするって! どうしよう、どうしよう! 遅刻なんかしたら、自分を許せないよ!」
そうしてコーヒーを一気に飲み干し、本棚から一冊抱え取ると、振り返りもせず部屋を飛び出していった。イノリはそれを見送った。
この三十分で、蘭空家の四人と知り合ったばかりだった。
周囲が再び静かになると、かえって落ち着かなくなった。
「ユミン、ユナ、ユキ、ユネ。僕も今は、蘭空祈なんだね。いいなあ……」
長く息をついた。さまざまな思いが胸に込み上げた。
ぼんやりしていると、扉を叩く音がした。
「お姉様!」
心を癒やす、宝石のように澄んだ、どこか浮世離れした少女の声だった。
イノリの心臓が、大きく一度跳ねた。
「ヒカリだよ。お姉様と遊びに来たの! あれ、いないの……?」
イノリの目に光が宿った。少女の姿が、はっきりと見えた。
突然やって来た、金色の少女。
初めて、彼の世界に足を踏み入れた。




