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第17話 『弐の残影・野良星』 その二

 三分後、イノリは涙を拭いた。


 何でもなかったような顔をして、ゆっくりと階段を下りた。


 少女がこちらへ手を振っていた。


「蘭空さん」

「あら、ユナでいいって言ったでしょう? もちろん、『お姉様』って呼んでくれたら、うれしいけど」

「うん、ユナ」

「そんなにかしこまらなくていいよ。これからは、家族なんだから」


 ユナは小走りに近づき、イノリの手をそっと取った。


 その温かな笑顔に、偽りはなかった。

 イノリはふいに鼻の奥がつんとした。


「もしかして、ユキとユネに会ったの?」

「うん。追い出された」

「ふふ、気にしないで。二人とも悪い子じゃないんだよ。七つ八つの子供なのに、私にも何を考えているのかわからないことがあるの」

「僕だって、まだ十一歳なのに」

「十一歳? 私と一つしか違わないんだね! でも、イノリって、あまり子供っぽく見えないな。うーん、かっこいいね!」


 イノリは困ったように笑った。


 毎日をのんびり過ごしている貴族たちに、自分の気持ちはわからないだろう。そう思った。

 生まれてすぐに捨てられた子供は、生きるだけで精いっぱいなのだ。

 それでも、ユナに悪気がないことはわかっていた。この「新しい姉」には、自分も優しくしたかった。


「そういえば、どうして屋根裏に行こうと思ったの?」

「うーん。それは、話すと長くなるんだけど。暮光城にいたとき、屋根裏に住んでたんだ」


 イノリは、これまでのことを思い出さずにはいられなかった。


 星野孤児院の一員だったが、ある日、そこから逃げ出した。

 どうにか伯爵家の少年に気に入られ、霧間家の屋敷で、従者兼友人として暮らすようになった。

 頼れる相手はできた。けれど、霧間瞳という少年のそばでの生活は、楽しいものではなかった。

 やがて赤月が降り立ち、暮光城は滅びた。

 逃げ延びたイノリは、蘭空家に引き取られた。


「そんなことがあったんだ。だから、屋根裏に住めれば、それで十分なんだけど」

「でも、ユキとユネは秘密基地を譲ってくれないと思うな。大丈夫。祖父が、とっても広い部屋を用意してくれるから」

「ありがとう……どうやって恩返しすればいいのか、わからないよ」

「もう、そんなに気を遣わなくていいのに。ここに慣れれば、きっと大丈夫だよ」

「僕、頑張るよ。あの、仕事はいつから始めればいいの? 蘭空卿の……えっと、蘭空家のみんなのために、何ができるかな?」


 イノリは真剣だった。


 ユナは愉快な喜劇でも見たように、思わず声を上げて笑った。

 だが、イノリの表情を見ると、すぐに笑みを収めた。どうやら失礼だったと気づいたらしい。


 少女も真面目な顔になり、声を改めた。


「イノリ、最初に話したでしょう。今のあなたは『蘭空祈』。父の息子で、祖父の孫で、私の大切な弟なの。蘭空家の子供であって、働きに来た使用人じゃないんだよ」


 嘘も取り繕いもない、心からの言葉だった。


 イノリは鼻の奥がつんとして、また目に涙がにじみそうになった。


 懸命に表情を整え、感謝の笑みを返した。


「ありがとう、ユナ」

「ううん。これからは私も、イノリにお世話になるんだから」


 花のように芳しく、炎のように温かな、桃色の少女。


「イノリ。兄さんのところへ行こう。待ってるよ」

「うん」


 二人は屋敷の二階、廊下の突き当たりの部屋に着いた。

 大きな扉を開けると、奇妙な匂いが押し寄せた。

 大小の瓶には、さまざまな液体が入っていた。

 液体で満たされた四角い容器には、死んだ動物が何体も保存されていた。

 大きな机の上には、見慣れない金属の道具や器具が、雑然と並んでいる。

 石のように分厚く重そうな本が十数冊、高い塔を作っていた。


「ああ、来たんだね」


 少年は拡大鏡を金属の箱にしまった。

 小さなピンセットを慎重に持ち上げ、綿布の上の虫の死骸をつまんで、隣のガラス瓶に入れた。

 死骸が底へ沈むと、蓋をねじって閉め、机の隅に集まった瓶の中へ戻した。


「蘭空悠憫です。初めまして、よろしく」


 声は大人の男性のようだった。

 けれど、見たところ、それほど年上ではない。優しく、頼れそうな印象だった。


「僕はイノリ。よろしく、ユミン」

「うん。じゃあ、イノリ。前に話したとおり、健康診断をさせてもらうね」

「兄さんは、うちの将来の首席医師なんだよ。安心して、イノリ」

「うん、わかった。ところで……」


 突然、イノリの体がびくりと震えた。


 言葉にしがたい、それでも覚えのある感覚だった。


 ここへ来たことは、絶対にない。

 けれど、似た場所へ来たことは、確かにある。


 形容しがたい吐き気が、激しく喉へせり上がった。


 イノリは苦しげに深呼吸した。だが、それではすぐに気づかれてしまうと思い、緊張して息を止めた。


 頭が酸素を求め、全身がしびれ始めてからようやく、無理をするべきではなかったと後悔した。


 声にならないものが喉に詰まり、体が勝手に傾いた。

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