第13話 「萌芽」その一
3489年 木乙月 第一木乙日
鮮やかで温かな黄昏だった。
それなのに、イノリの心は、豪雨の降りしきる永遠の夜のようだった。
放課後、フィルと連れ立って帰るはずのイノリは、ユナの執務室に来ていた。
「お姉様、僕の偉大なお姉様。お願いだから、せめて今夜だけでも、ここにいさせて! 頼むよ!」
恥も抵抗もかなぐり捨て、「かわいくて素直な弟」を演じながら、姉に懸命に頼み込んでいた。
ユナは聞こえなかったふりをして、コーヒーを飲み続けていた。
真っ白なカップをゆっくりと持ち上げ、温かなコーヒーから立ち上る香りに鼻を寄せる。
そっと香りを吸い込み、満足そうに小さく微笑んだ。
濃い茶色の液体に唇をつけ、舌の上を通して、喉へと流し込む。
「うーん。少し苦いかな」
眉を寄せ、カップを受け皿へ戻した。テーブルの隅のガラス瓶から、角砂糖を一つ取り出す。
雪のように白い角砂糖が、茶色の大海原へ音もなく沈んでいった。
「うう……」
完全に空気扱いだ。イノリはすべての希望を失った。
「ほら、イノリの分も用意してあるよ。好みに合わせて、白雪角砂糖を三つと、南山町特産の大麦ミルクをスプーン一杯。飲んでみて」
「今はコーヒーなんか飲んでる場合じゃないよ! 僕、もうおしまいなんだ! お姉様、お願いだから、かわいそうな弟を助けて……」
「もう、イノリ。姉だからって、弟が無責任なことをするのは見過ごせないよ」
「僕は……」
「そうでしょう? フィルと戦闘訓練をするって決めたのは、イノリ自身だもの。約束した以上、簡単に逃げてはいけないよ」
希望がすべて潰えると、かえって心はすっきりと晴れ渡った。
どうやら逃げ道はないらしい。でも、おしまいになる前に、おいしいミルクコーヒーを一杯くらいは飲める。
イノリはため息をつき、カップを手に取った。そっと息を吹きかけ、温かな液面に唇をつける。
「おいしい」
ユナは辛抱強く待っていた。
イノリが最後の一滴まで舐め終えると、ゆっくりと口を開いた。
「さあ、もうこんな時間。フィルと合流してきて。外で待たせたら悪いでしょう」
「ぐう――」
「イノリも、もう少し戦う練習をしたほうがいいと思うよ。優秀な斥候には必修科目なんだから。約束して。今夜の訓練には、絶対に遅刻しないこと。ぜっ、たい、に」
「あと三十分、ここで待ってちゃだめ? 片づけが終わったら、一緒に帰ろうよ」
「イノリ――」
ユナは目を細め、優しく微笑んだ。
けれど、そのまなざしがすべてを物語っていた。
これ以上食い下がれば、姉は教師として、きつく叱るつもりだ。イノリにはわかった。
仕方なくため息をつき、ユナに別れを告げた。
死を覚悟した者のように先覚塔を出て、夕日に向かって歩いていった。
蘭空家の庭に足を踏み入れるなり、フィルは待ちきれない様子で手をすり合わせた。
「さあ、イノリくん!」
イノリは荘厳な彫像のように動かず、夕日を仰いでいた。
運命が尽きる前に、この美しい世界をもう一度見ておきたかった。
その反応に気づき、フィルはいたずらっぽく笑った。
手のひらを鞘に添える。
親指で鍔を押し上げると、鍔と鞘の境目で、かちり、かちりと音がした。
「ぐう――」
イノリは膝の力が抜け、その場にへたり込みそうになった。
絶望しながら振り返り、フィルの細長い黒い刀を見つめる。
わずかにのぞく刃は、地獄からの凶悪な冷光を放っているようだった。
「フィル、一つだけお願いしてもいい?」
「どうしたの?」
「練習するときは気をつけてよ。お前の炎で、僕を灰にしないでくれる?」
「うーん――」
フィルはうなずいた。
「イノリくん、すごく弱そうだし、魔法は使わなくてよさそうだね。鞘さえいらないかな? まずは素手の僕に勝ってみる?」
そんなふうにからかわれて、イノリはたまらなく恥ずかしくなった。
フィルの見立ては、おそらく正しい。自分はどうしようもなく弱く、素手の少女にさえ勝てないかもしれないのだ。
真実は嘘より深く突き刺さる。イノリは腹を立て、戦いの構えを取った。
「それじゃあ、頼むよ。『細雪』」
心の中で、己の武器に語りかけた。
抜剣!




