◇《第26話 邂逅の灯(あかり)》
風が冷たい。
夜の街はいつも通り喧騒に満ちていたが、その奥底にある空気はどこか張り詰めていた。
ストリートの縄張り争いが続き、街の裏側では血と恐怖の匂いがこびりついている。
その夜もまた、ルミナは静かに歩いていた。
誰かのためにではない。
ただ、無秩序な夜を正すために。
彼女の存在が噂として広がるにつれ、街の影は怯え、同時にざわめき始めていた。
「おい……出たらしいぞ。蒼月のルミナってやつ」
「マジかよ。メチャクチャ強ぇって噂だぞ」
「ヤツに目つけられたら終わりだ」
ルミナは屋上から街を見下ろし、遠くのネオンを見つめた。
青白い光が髪に反射し、風が頬をかすめる。
この街を覆う腐敗を、誰かが止めなければならない。
そう思っても、彼女の心の奥底には虚無だけがあった。
守っても、誰も感謝しない。
救っても、誰も近づかない。
ただ、孤独と戦うだけ。
その夜…
裏通りの倉庫街から怒号が響いた。
ルミナの聴覚がわずかな異音を拾う。
金属の衝突音、怒鳴り声、肉の打撃音。
数人の男の呼吸音の乱れが瞬時に脳内に展開された。
彼女は跳ぶようにビルの縁から降りた。
落下の途中、空気の抵抗を殺すように膝を曲げ、音もなく着地。
そこでは、十人規模の乱闘が起きていた。
金属バット、ナイフ、怒号。
街灯の下で倒れている男の姿が見えた。
血が頬を伝い、手にはナイフが握られている。
「……止めなさい」
その声は、喧騒の中に溶け込んでも異様なほど冷たく響いた。
男たちが一斉に振り向く。
「おい、なんだ…女じゃねぇか」
ルミナは無言で一歩前に出た。
その瞬間、男たちの視界が一瞬で揺らいだ。
動いたと思った時には、三人の男がすでに倒れていた。
音が遅れて追いつく。
骨が折れる鈍い音と、金属が転がる音。
「次は、誰?」
静かに、冷たく。
彼女の瞳は夜よりも深い紫色に染まっていた。
残りの男たちが動揺している隙に、倒れていた男がかすかに身を起こす。
血だらけの顔。
だがその瞳だけがまだ死んでいなかった。
「おい……何やってんだ、逃げろ。あいつら…お前を」
彼の声に、ルミナは一瞬だけ目を向けた。
その声に宿る誰かを守ろうとする意志が、ほんの一瞬、心に触れた。
―その時。
背後からの殺気。
バットが振り抜かれる。
ルミナは振り返ることもなく、右手でその金属を掴み取った。
ギリッと軋む音。
「ねぇ、女に向かってバットを振るとかあんたダサ過ぎじゃない?」
ルミナはその一言の後にそのまま腕を捻り上げ、一撃で相手を沈めた。
「おい、まさか、ちょっと待て…この女…噂の蒼月の…」
一斉に残りの人数がかかってくるが、ルミナはそのまま飛び上がり、宙返りをしながら連続回し蹴りで全員を吹っ飛ばし、着地と同時に最後の1人に打撃で攻撃し、その頭上に飛び乗り、脚で相手の首を絞め、そのまま地面に転がるように投げ飛ばし、関節技を決めた。
まるでどこかの軍隊が暗殺で使うようなコマンドサンボの技だ。
そして戦いは、終わった。
静寂の中に、雨の雫のようにアスファルトに血が滴る。
ルミナは立ち上がり振り返る。
さっきの男が壁に寄りかかりながら立ち上がろうとしていた。
「……助けて、くれたのか?」
「別に助けたつもりはないわ。ただ放っておけなかったから…」
ルミナの声は淡々としていたが、その瞳はどこか揺れていた。
男はかすかに笑った。
「理由はどうあれ、結果的にオレは助かった。だから、君は命の恩人だ」
その笑顔を見た瞬間、ルミナの胸の奥で何かが微かに鳴った。
小さな、忘れかけていた音。
彼女は無言で踵を返した。
だが背中に、男の声が届く。
「おい! お前がほんとに噂の…ルミナなのか?
さっきの奴が、君を見て蒼月のってなんか言いかけてたから」
その声にルミナは、ほんの一瞬だけ振り返りかけた。
「だったらなに?」
ルミナは踵を返し、倒れた男たちの傍らを無言で通り過ぎようとした。
超人化された力の残滓と、誰にも理解されない孤独だけが、彼女を再び殻へと引き戻そうとする。
「おい、待ってくれ、ルミナ!」
アサヒは、壁にもたれながら、痛む体を押して一歩、彼女に向かって踏み出した。
「さっき助けたつもりはないって言ったけど、オレは知ってる。お前、あいつらを殺そうとはしてない。ただ、もう動けないようにしただけだ。それはオレを助けるためだっただろ?」
ルミナの足が止まった。彼女の超感覚は、アサヒの問いの裏に偽りがないことを知る。
「……殺す必要なんてなかったからよ。それに私は自分の強さで人を恐怖に陥れたいわけじゃないわ。
ただ…守りたい。それだけ…」
彼女は、反射的な最適解を実行したにすぎない。
しかし、彼はルミナが人殺しを避けたことに着目した。
「結果的にオレは助けられた。オレもこの場で闘ってたが、見ての通り情けないがヤられててな。
普通なら誰も関わりたくないと思うはずだ。
なのにお前は……なぜ、見知らぬオレのために、そこまでして助けてくれたんだ?」
その言葉が、ルミナが心の奥底に閉じ込めた感情を揺さぶった。
彼女の強すぎる力と、周囲の恐怖によって封印されていた『人間性』が、疑問となって反発する。
(なぜ、見知らぬ誰かのために?)
それは、ルミナ自身が答えの出ない、記憶の欠落からくる本能的な問いだった。
「さぁ、知らないわ。さっきも言ったわよ。ただ……放っておけないって、それだけよ」
アサヒは、ルミナの群青のグラデーションの髪と、硬く閉じられた瞳の奥に、深い悲しみと孤独を読み取った。
他の連中のように『恐怖』で逃げるのではなく、
『人間的な繋がり』を信じた。
「……そっか。放っておけなかった、か。それって、誰かを守りたいってことだろ? 何はともあれオレはルミナに感謝してる。ありがとう」
ルミナは、胸の奥を射抜かれたように言葉を失った。
誰も踏み込めなかった領域に、目の前の男が優しさだけで踏み入ってきた。
彼は痛む指で、なんとか煙草を咥える。
「なあ、この後、時間あるか? 助けてくれた礼だ。お礼に一杯奢るよ。なんか飯でも行かねえか」
ルミナは反射的に首を横に振ろうとした。
誰かと時間を共有するという行為は、ずっと孤独な日々を過ごしていた彼女にとって最も不慣れな行為だった。
だが、アサヒのまっすぐな目が、彼女の冷たいガードをすり抜けてくる。
彼はルミナを化け物として見ていない。
ただの『助けてくれた人間』として扱っている。
ルミナの喉の奥が詰まった。
ツンと尖った言葉が出かかったが、代わりに小さな肯定が漏れた。
「私、お腹空いてないし、そこまで気を使わなくていいわよ」
そのままルミナは逆を向き、立ち去ろうとした。
「おい!ちょっと待てって。それじゃーオレの気が収まらねぇよ。お礼はキッチリしたいんだ。じゃーせめて飲み物くらい奢らせてくれよ」
ルミナはアサヒをジーっと見て答えた。
「……別に、いいけど…」
二人は裏通りから少し離れた薄暗い公園のベンチに座っていた。
アサヒは自動販売機で温かい缶コーヒーを買い、一つをルミナに手渡した。
「ほらよ。よろしくな、ルミナ」
ルミナは小さくお礼を言って缶コーヒーを受け取る。
「…ありがとう…」
そう短く答え、缶の蓋を開けた。
苦いコーヒーが、凍てついた感情の殻を溶かすように流れていく。
手のひらに伝わる温もりが、体ではなく心臓を温めるようだった。
「なあ、ルミナ。お前、見た感じ高校生くらいだろ?オレとあんま変わんねーな。それにしてもすげえ強いな。格闘技でもやってるのか?なんて言うか慣れてるとかそうじゃなくて、次元が違う…そんな感覚だった。
なんでそんなに強いんだ?」
「……そんなのどうだっていいじゃない…知ってどうするのよ」
「そうか。でも、その強さを誰かのために使ってる。それは間違いないだろ。オレみたいに、夜の街の不公平な暴力に泣かされる奴は多い。オレは、お前の優しさに助けられた」
優しさ…
その言葉が、ルミナの孤独な心をそっと撫でた。
その時、公園の入り口から数人の男女が近づいてくるのが見えた。
彼らはアサヒの仲間のようだ。
「アサヒ! ちょっと探したんだから。ノワールと揉めたって聞いてみんな慌ててたよ。血だらけじゃん」
ショートカットでピアスを光らせた女性と、長身でヘアバンドをして結んでる女性、そして数人の男が駆け寄ってきた。
ムツミがアサヒの血だらけの顔を見て焦った後、ルミナに視線を移し、目を見開いた。
「誰?この可愛い子? アサヒ! !あんた、さてはナンパしてたの?ノワールと揉めてるって聞いたから心配してたのに、心配して損したわ」
ムツミが呆れた顔で言った。
そして数人の男の1人、ユーキが心配そうにアサヒに話しかける。
「でもノワールと揉めたって厄介ですね。
……作戦練らないと。奴ら人数も多いから」
その時だった。
「みんな、い、いたか!」
息を切らした一人の若者が、公園の入り口から飛び込んできた。
彼は皆の姿を見て、安堵と絶望が混ざったような顔になる。
「どうしたの、そんなに焦って」
ムツミが彼を落ち着かせようとする。
「タカが! タカがやられた! ノワールの奴らに連れて行かれたんだ!蜘蛛のマークがついたバッジ付けてたからノワールに間違いない。それでオレを逃すためにヨシマサが1人で立ち向かっていったんだ」
全員の顔から血の気が引いた。
ノワールは、最近勢力を拡大している冷酷なストリートのグループだ。
ルミナは静かに話しに耳を傾けていた。
(蜘蛛のマークのバッジ?……)
アサヒを含めたみんなが焦った顔をする。
「ヨシマサが?頭に血が昇ったんだな…1人で無茶だ…すぐ行かなきゃ。場所はどこだ!」
アサヒは顔を歪める。
「ラグーン・ストリートの少し行ったところにある、旧製鉄所の隠れ家だ!」
ユーキは顔を青ざめさせた。
「ノワールは人数が多すぎる。オレ達だけじゃ…」
アサヒは缶コーヒーの空き缶を握りしめ、駆け出そうと前を向いた。
「ムツミ、マキ! 連絡がつく奴全員に招集をかけてくれ。オレは先に行く!」
「待って、アサヒ!」
マキが引き止める。
ルミナは、無言で缶コーヒーを飲み干した。
手のひらに残るのは、温かかったはずの缶の冷たい感触。
(放っておけない)
その本能的な痛みが、彼女の冷たい殻を突き破った。
「私も、行く!」
ルミナの低く、静かな声が夜の公園に響いた。
アサヒは振り返った。
マキは呆れたように口を開く。
「ハァ? あんた、何言ってんの。ナンパされてただけじゃん! 話し聞いてた?怖いのよ。ヤバいのよ。無理よ」
ルミナは、缶コーヒーの空き缶を、何の力みもなく、手のひらでぐしゃりと簡単に握りつぶした。
柔らかい豆腐を潰すかのように。
「私はナンパなんかされてないわ。大丈夫だから心配しないで」
その冷たい目と、手のひらの金属の異様な歪みに、全員が息を飲んだ。
ムツミとマキの顔から、ナンパだという誤解が一気に消し飛んだ。
アサヒは、ルミナの目を見た。
そこには、自分のためではなく、誰かを救うために動く、純粋な意志が宿っていた。
アサヒの瞳が、感動に濡れた。
「な、なによ?別にあなたのためじゃないわ。缶コーヒー買ってもらったお礼、それに放っておけないだけよ」
ルミナは、いつものツンデレな言葉を吐きながらも、アサヒの顔を見なかった。
「だから私も連れてって。ノワールの隠れ家ってとこ」
アサヒは、ニヤリと笑った。
この不器用な『優しさ』こそが、ルミナの本質だと理解した。
「大歓迎さ。男のオレがこんな事言うのも情けねーけど、男10人が付いてきてくれるより、お前が一緒にきてくれるって方が断然心強いな」
ルミナはムッとした顔をした。
「なんか全然嬉しくないわ。悪かったわね。どうせ私は女の子らしくなんてないわよ」
「ムツミ、マキ! お前たちは無理しないでヤバくなったらすぐ逃げろ。ま、最強の味方がついててくれるから、なんとかなりそうな気しかしないけどな!」
ムツミとマキは、アサヒの言葉が理解できていなかったが、未だ恐怖に半身を強張らせながらも、アサヒの信頼に押され、頷いた。
「わ、わかったわよ!」
夜風が吹く。
この時、ルミナは孤独な女から、初めて『誰かのために』戦う仲間へと、一歩を踏み出した。
次回
《PROJECT∞HEART-X 第27話》
( ── LUNAEDGE編 第3話:蒼月の翼)




