☾《第19話:黎明の誓い》
──深夜。
夜遅く0時を回った後の空は、群青と灰のあいだを揺れていた。
錆びた廃墟の屋根裏部屋は、外の冷たい風を防ぐには不十分だったが、隣にはルミナがいる。
冷たい風が吹くたび、リアの髪がふわりと揺れ、その細い肩をルミナがそっと抱き寄せた。
リアにとってはそれが何よりも世界で一番安心できる場所だった。
それだけで、壁のひび割れも、地面の冷たさも、何の意味も持たなかった。
夜明け前の空が、窓の隙間から淡い藤色を滲ませる。
リアは古い毛布をルミナと分け合いながら、身を寄せた。
「ねぇ?お姉ちゃん」
リアは、天井の木目を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「ん?」
「私ね、この前見たの。広場で踊ってる人。私もね、ステージに立ちたいの。人を笑顔にする人になりたい」
ルミナは小さく笑った。
「うん」
ルミナは静かにリアの髪を撫でる。
「みんな、笑ってたんだ。その人の踊りを見て。私、いつかあんな風になりたい。ステージで、人を笑顔にする人に」
その言葉は、まるで夜明け前の光のように、ルミナの心に沁み込んだ。
ルミナが闇を歩き、血の匂いを纏うたび、リアの夢が彼女の魂を繋ぎ止める鎖になっていた。
ルミナは深く息を吸い込んだ。
排気ガスと錆の匂いの中に、かすかに残るリアの石鹸の匂い。
「素敵な夢ね。リアならなれるわ」
ルミナは、ニコッと笑って答えた。
「お姉ちゃんも見にきてよ。ちゃんと最前列で見ててね」
「その時、私はちゃんと見てる。じゃーリアの1番最初のファンが私だね。誰も邪魔できない場所で、あなたの光を見てる」
「ほんとー約束だよ?」
「うん、約束よ」
ルミナはその笑顔の裏、そこにはまだ、乾ききらない傷があった。
あの夜、とっさにビール瓶で人を殴ったときの痛み。
突き飛ばされ壁にぶつかって右の手の甲から血が出た痛み。
けれどその痛みは、もう彼女にとって罪ではなかった。
守るために流した血なら、それは罰じゃない…。
そう思いたかった。
その目に宿る光は、優しさだけではない。
『守り抜かなければならない』という、冷たく燃える炎だった。
二人の間に、静かな、けれど揺るぎない誓いが交わされた。
リアは安堵に身を任せ、ルミナの腕の中で再び眠りに落ちた。
小さな寝息。
その胸の上で、月の光が淡く揺れていた。
ルミナはその髪を撫で、指先を見つめた。
リアの小さな手が、無意識にルミナの袖を掴んだ。
「……リア」
その静寂を破ったのは、低く、しかし鋭いバイクのエンジン音だった。
ルミナはすぐに身を起こした。
リアを驚かせないよう、細心の注意を払って窓の外を覗く。
錆びた鉄階段を駆け上がる足音が響いた。
「おい、ルミナ!」
レイトだった。
彼はバイクから降りるなり、焦燥を滲ませた表情で廃墟の中へ駆け込んできた。
いつも強面の彼の顔に、焦りが浮かんでいる。
「お前たち、ここにいたのか。ルミナ!まずい!警察が動いてる。施設がリアの捜索届を出したみたいだ。」
レイトの言葉に、ルミナの胸が締め付けられる。
「施設のお偉いさんが、お前を誘拐犯だって訴え出た。
リアを連れ出した罪で、もう指名手配になってるって話だ」
ルミナの頭が一瞬にして冷えた。
(誘拐……?そんな…私はリアを守っていただけなのに…)
「施設側は、不良のお前がリアを闇の道へ引きずり込もうとしたって言ってる。連中からすれば、厄介払いをする最高の口実なんだろうな」
レイトは怒りと焦りを滲ませた。
「ルミナがリアをどれだけ大事にしてるかオレは知ってるが、だが、大人はそれを信じねぇ。お前はもう、あの子の『光』じゃなくて、『闇』の象徴にされたんだ」
ルミナは窓の外に目を向けた。
まだ薄闇に包まれているが、遠くの街路樹の隙間に、警戒に光るパトランプの青と赤い色が滲んでいるように見えた。
「……私の闇の報いね」
ルミナは静かに呟いた。
自分がリアの夢のために踏み入れた『罪の道』が、今、リアを奪い去ろうとしている。
「私、リアを連れていけない」
「馬鹿か!捕まれば終わりだ!お前が監獄に入ったら、リアは本当に一人になるんだぞ!」
レイトの悲痛な叫びが、錆びた壁に虚しく響いた。ルミナはリアが眠る方を見て、硬く拳を握りしめた。
(捕まったら、リアを守れない。リアの夢を叶える約束も、全部水の泡になる)
逃げるしかない…それが、ルミナに残された唯一の愛の選択だった。
「レイト。もし私に何かあったら、リアをお願い」
「お前、何を言って……!」
「いいから聞いて。私は時間を稼ぐ。あんたは、リアを施設に戻して。私が誘拐犯になれば、施設もリアに手を出せなくなる」
ルミナの言葉には、もはや迷いはなかった。
それは、愛する者を守るため、自ら地獄へ落ちる決断だった。
レイトがためらう間もなく、サイレンの音が近くに迫ってきた。
廃墟の外壁に、鋭いヘッドライトの光が、網目状に差し込む。
「リア、起きて!」
ルミナはリアを揺り起こし、抱きしめた。
「お姉ちゃん……どうしたの?何?」
リアが状況を理解する間もなく、廃墟の入り口に数人の警察官が銃を構えて現れた。
彼らの放つ光と声は、リアを再び恐怖のどん底に突き落とす。
「危ない真似はやめなさい!少女を返せ!」
リアは恐怖で凍りつきながら、ルミナの服を掴んだ。
「え?お巡りさん何言ってるの?違うの!お姉ちゃんは悪くない!私から来たの!」
彼女の必死な叫びは、警察の冷たい制服の前では、無意味な子供の言い訳にしか聞こえない。
「気が動転してるんだね。落ち着いて。我々が君を助けるから」
警察官の一人が手を伸ばす。
ルミナは、リアの背中を強く抱きしめながら、その冷たい瞳で警官たちを睨みつけた。
「……私は、連れていったんじゃない。守ってただけよ」
本当の事を言ってるのに、誰も信じてくれない。
この世界は、大人のルールと権威で動いている。
ルミナの愛の証は、彼らの目には犯罪の証拠としか映らないのだ。
ルミナの中で、冷たい決断が走る。
(リアを汚しちゃいけない。私一人で、この闇を引き受けよう…それしかない)
ルミナはリアを強く抱きしめて、その耳元に、命を懸けた誓いを囁いた。
「大丈夫。これでいいの。必ず、また迎えに行くから。それまで、私を信じて」
警察官の手が、ルミナの腕を掴もうと伸びてきた、その一瞬。
ルミナは、全身の力を込めてリアをレイトの方向へ突き飛ばした。
「レイト!お願い」
「ルミナ!」
リアは地面に転がりながら、信じられないものを見るように、ルミナを見つめた。
「お姉ちゃん!!行かないで!!!」
リアの悲痛な叫びは、廃墟の壁を突き破り、夜明け前の空に響き渡った。
だが、ルミナは決して振り返らなかった。
(リア、幸せになってね。必ず夢を掴むんだよ!私の代わりに!!)
ルミナは、警察官の包囲網を嘲笑うかのように、逆方向へ走り出した。
その走り去る後ろ姿は、朝焼けが淡く差し込み始めた空の下、追われる影となって路地の奥へ消えていく。
リアの目の前で、ルミナは『守る人』から『罪人』へと、その姿を変えた。
リアは泣き叫び、手を伸ばすが、ルミナの背中はもう、遥か遠い闇の中だった。
その後、施設に戻されたリアは、警察と職員の冷たい視線の中で泣き崩れた。
職員たちは、ルミナを悪魔のように語り、リアに『あなたは救われた』と説き伏せようとした。
しかし、リアの耳にはそんな言葉は決して響かなかった。
(お姉ちゃんは悪くない。全部、私を守るためだったのに……!)
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その夜。
リアの部屋の窓が、わずかに開いていた。
冷たい夜風が入り込む中、窓枠に銀色の鎖がきらめく。
それは、ルミナがいつも付けていた月の満ち欠けのモチーフを象った、月影のペンダントだった。
リアは震える手でそれを受け取った。
ペンダントの裏側には、細かく折られた小さな紙片が貼り付けられている。
リアは涙で視界を滲ませながら、その手紙を開いた。
『リア、あなたの光は、誰かの心を救う。
だからもう、私の闇を背負わないで。
あなたの夢が、私にとっての唯一の希望よ。』
リアはペンダントを胸に抱きしめ、嗚咽した。
「お姉ちゃん…必ず迎えに来るって言ったもん……」
それは、今やルミナの唯一の残像だった。
その言葉は、悲しみの叫びではない。
それは、光の側で姉を待ち続ける、リアの新たな誓いだった。
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そして、その頃。
遠く、夜明けの光が差し込む街の裏路地。
ルミナは、荒い息を整えながら、ビルの影に身を潜めていた。
頬を照らす朝の光は、もはや温かい祝福ではない。それは、自分を照らし、居場所を暴く冷たい監視の目だった。
ルミナは、心の中で、改めて誓った。
「罪でもいい。たとえこの身が消えても、リアだけは守る」
彼女の紫の瞳には、光を拒絶し、闇を生きる覚悟が、深く刻み込まれていた。
地下街の片隅は、夜の帳が降りても、完全な闇にはならなかった。
ビルから漏れるネオンの残滓が、鈍い光を放ち、鉄と煙草の匂いに混ざって、ルミナの頬を淡く照らしていた。
彼女は冷たいコンクリートの壁にもたれ、肩で息を吐く。
肺から吐き出される空気は、煙草の煙のように白い。
「私はもう、守る者じゃない……消える者」
ルミナはそう呟いて、自嘲するように一人で笑い、それがやがて、雫となり溢れ出す。
その笑みの奥には、血のように赤い後悔が沈んでいる。
そして、堪えきれなくなった大粒の涙が、冷えた頬を伝い落ちた。
この涙は、追われる身の孤独さだけでなく、リアを置いてきたことへの自責の念の方が大きかった。
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一方、リアは施設の白い部屋で夜空を見上げていた。
冷たいシーツの上でも胸元に握りしめた月影のペンダントが、わずかな温もりを与えてくれる。
窓の外には、遠い空に見えない誰かに語りかけるような月。
「お姉ちゃん……今どこにいるの…」
リアは、施設に戻されてからの孤独を、誰にも見せないように耐え続けていた。
職員の目も、以前よりは穏やかになったが、それはルミナという問題児がいなくなったからに過ぎない。
リアの日常は静かになり、同時に色を失った。
それでもリアは毎晩、月を見上げて祈り続けた。
そして、その祈りの言葉を、夢を書き連ねたノートにぶつけた。
それは、ルミナが闇をさまよっている間も、ルミナに言われた事を守り、光を掴む努力を続けるという、リア自身の『月影の誓い』でもあった。
リアのノートには、『夢』の言葉が、以前よりも数多く増えていた。
『ステージ』、『光』、『笑顔』、『約束』
それは、ルミナの自己犠牲の上に築かれた、まだ幼い祈りのようで、どこまでも真っ直ぐだった。
リアは、『お姉ちゃんが迎えに来る』というただ一つの言葉を信じて、その日のために光の道を歩き続ける。
その決意こそが、ルミナの闇を照らす唯一の光だった。
しかし、その光は遠い。
ルミナの逃亡生活は、ただの空腹と疲労、そして絶望という精神力が削れていく連続だった。
夜の街のあらゆる音が、自分を追ってくる悪夢の足音に聞こえる。
ルミナは人目を避け、裏路地と廃墟を転々とした。
その手のひらにリアの温もりはなく、代わりに冷たい自責の念だけが張り付いていた。
リアに送るための汚れた金を稼ぐ以外、彼女には生きる目的がなかった。
そうして、季節はまた1つ移り変わっていき、あれから気づけば数ヶ月が過ぎようとしていた。
ルミナの隠れ家とする廃ビルの一室に、かすかな足音が響いた。
扉が軋むと、そこにレイトが立っていた。
彼の表情は、闇の中で生きる人間特有の冷徹さとは裏腹に、焦りと心配を滲ませていた。
「ちょくちょく様子を見に行ってやってるが、施設のあの子、お前がいないとやっぱり元気ないみたいだな。それでもルミナに会えるってのを信じて、それを糧に前向いて頑張ってるみたいだぞ」
ルミナの肩が、微かに震える。
ルミナは驚くほど静かで、感情を押し殺していた。
レイトは壁にもたれ、低い声で続けた。
「最近は顔見れてないのか…?」
ルミナは沈黙した。
レイトの煙草の火が、一瞬だけ鋭く灯り、闇の中に紅い線を描いて落ちた。
「あの子、お前を待ってる。ルミナの帰る場所を信じてるんだ」
その一言が、ルミナの胸を深く刺して心が疼いた。
(会いたい…一目だけでも、遠くからでもいいから元気にしてる顔を見たい。
でも、会えばまた、自分の罪や追われる影が、リアの光を奪うかもしれない。)
「……私は、やっぱり、もう触れちゃいけないのよ」
ルミナの声は、冷たい石のように固かった。
その決意は、愛と自責の念で磨かれた、最も硬い刃だった。
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ルミナがその硬い刃で自分を律し、リアと会うのを我慢している頃、昼下がりの街角では、
リアは施設の敷地裏で、テレビなどで覚えた見よう見まねのダンスの練習をしていた。
彼女の身体はまだ荒削りだが、その動きには、内に秘めた情熱と、誰かを笑顔にしたいという純粋な願いが溢れていた。
風が彼女の髪を揺らし、その動きをさらに大きく見せる。
偶然通りかかったイベント運営団体の男性が、リアのその姿に目を奪われた。
(この子は……見た目、動き、すべてまだまだ荒削りだが、この子は磨けば光る逸材だ。それになんだ…この惹きつけるオーラのような雰囲気は……。この子はダイヤの原石ではないか!)
彼は足を止め、声をかけた。
「君、いい動きしてるな。ボクはこういう者なんだ。来月にある街のフェスのステージ、是非出てみないか?」
突然、名刺を渡され、その申し出にリアは一瞬、時間が止まったように感じた。
『ステージ。光。笑顔。』
そして新人発掘、育成などと書いてあった。
それは、ルミナとの約束の場所。
「……私、ダンス、習ったことないんです」
リアは恐る恐る答えた。
男性は熱を込めて言った。
「技術なんてものは後から付いてくる。それに必要ならダンススクールの紹介だってできる。君には人を惹きつける力がある。大事なのは、表現したい気持ちだ」
リアの胸が、激しく高鳴った。
(お姉ちゃんが、光を見なさいって言ってくれた。私が光を掴めば、お姉ちゃんは戻ってこれるかもしれない)
「私が…ステージで?…私が?…やります!!私、やってみたいです!」
リアの瞳には、迷いが消え、強い決意の光が宿った。
その一言で、リアの世界は運命的に動きだした。
光を見上げる側から、掴む側へ。
次回
《PROJECT♾️HEART-X 第20話》
(ルミナ編 第8話:暁光の残響)




