☾《第17話:堕ちる光、芽吹く闇》
──夜。
夜、目を閉じると最初に来るのは匂いだった。
鉄と湿った土、割れたビンの甘い蒸気。
喉の奥で、かすかに血の味が広がる。
手の甲に触れると、薄い膜みたいな痛みがまだ残っていた。
(守ったはずなのに、なぜか胸が痛い……)
ベッドの下段では、リアの寝息が浅く揺れている。
泣き腫らした瞳を隠すみたいに、ノートを抱いたまま眠っていた。
ルミナは上段から身を乗り出し、その髪に落ちる月明かりを眺めた。
(大丈夫。私がいる…私が)
言葉の途中で思考が沈む。
昨夜の音が耳の奥で蘇ってくる。
殴る音、骨が擦れる音、遠くのサイレン。
自分の拳が触れた後の相手の生々しい体温。
守るはずの行為が、相手の痛みを生むという当たり前の事実が、今になって胸の裏で軋んだ。
夢の中で、誰かが笑った。
『だけどよ、光ってのは暗い場所にある方が綺麗なんだぜ!』
レイトの声。
夜風に溶ける煙の匂いと一緒に、その言葉だけが薄く残っていた。
──朝。
朝、食堂のざわめきは、いつもより少し冷たかった。
ルミナが入ると、子どもたちの視線が一瞬だけ逸れ、すぐ戻る。
職員が低い声で囁き合っているのが聞こえた。
「昨夜、外に」
「また問題を起こして……」
「警察がどうとか……」
トレイを置くと、向かいでリアがぎこちなく笑った。
目元は腫れて、まだ赤い。
無理に明るく見せようとして、声が裏返る。
「お姉ちゃん、今日のスープ、ちょっと味濃いね」
「そうね。飲みすぎると喉が渇いちゃうわね」
それだけ言って、ルミナはパンをちぎる。
沈黙が、スープの湯気と一緒に立ちのぼる。
リアは何度か話しかけようと口を開き、結局ノートに視線を落とした。
ページの端を指で撫でる仕草が、いつも以上に小さく見える。
(近づけない。私の手は、今、温かくない)
金属トレーの音がパシャリと跳ね、食堂の奥で職員が厳しく呼んだ。
「ルミナ。職員室へ来なさい」
空気がすっと凍る。
リアが小さく身を乗り出した。
「私も行く!」
「いいの、リアはここにいて」
ルミナは立ち上がり、紫の瞳で一度だけリアを見た。
「大丈夫。ね!すぐ終わるから」
それが強がりだと、お互いに知りながら。
──職員室。
冷たい蛍光灯が書類の端を白く光らせ、机の木目がやけに硬く見えた。
年長の職員が腕を組み、眼鏡の奥で目を細める。
「昨夜、外出したのは事実だね?」
「はい」
「どうやって外に出たの」
「窓からです」
「何をしていたの?」
「ちょっと散歩に」
このやり取りの数秒の間。
空調の吐息だけが天井で不気味に回っていた。
「目撃したとの事で通報があったのよ。その子の特徴があなたとそっくりなの。裏通りで未成年の暴力沙汰。あなたの年齢で、夜間に、男たちと喧嘩をしていたそうじゃない。喧嘩をふっかけたんですって?何を考えてるのあなた」
「違う!私は喧嘩なんか売ってない。ただ、絡まれてやられてた人を助けただけ」
職員は、まるで汚いものを見るかのように、ルミナの言葉を遮った。
「嘘おっしゃい! つくなら、もっとまともな嘘を言いなさい」
真っ向から否定され、ルミナは口を閉ざした。
(どうせ、信じてもらう価値もない人間と、この大人は決めている。言い訳なんて…私の言葉は響かない…)
「あなたは、ここにいる子どもたちに悪影響を与えている。
正直に言うわ。16歳になったら、ここを出てってもらう。状況によっては、それを早める選択肢だってあるのよ」
喉の奥で、音が軋む。
怒りは熱じゃない。
冷たい氷柱になって胸の真ん中に突き刺さる。
「私が外に出たら、あなたたちは楽になる。そう言いたいのね」
職員たちはルミナの痛烈な言葉にピクッとしたが、それ以上は取り合おうとせず、冷たくはぐらかした。
「ふん、勝手なことを言いなさい。とにかく、反省しなさい!」
ルミナは心の中で、静かに思った。
(都合の悪い事は隠すのね…そういうもんよね、大人は…)
ルミナが背を向けた時、扉の影で、小さな人影が震えていた。
リアだった。
握りしめたノートの角が、白くつぶれている。
「ル、ルミナお姉ちゃんは嘘なんかつかない」
掠れた声で、必死に言葉を繋ぐ。
「お姉ちゃんは、きっと私を守るために……」
「リア、いいの!いいのよ……」
ルミナは首を振った。
「これは私の問題だから」
リアの足元で、影が小さく縮む。
職員は露骨にため息をつき、書類をひっくり返した。
「午後、警察に報告する。状況次第では、指導のために短期の保護観察施設も頭に入れておきなさい」
言葉の最後は、ドアの閉まる音に攫われた。
ルミナは振り返らなかった。
廊下の窓の外は晴れているのに、色がやけに薄い。
(檻の中の空が、いちばん無色だわ)
──裏庭。
フェンスの金網に指をかけると、薄い錆が爪に移った。
昼の風は軽いのに、胸の中は沈むばかりだ。
背後から足音が聞こえ、リアが小走りに近づいてきて息を弾ませた。
「お姉ちゃん、行かないで。どこにも……!」
リアの目は赤く、声が激しく震えている。
「昨日だって……帰ってこないんじゃないかって、ずっと心配してて…」
ルミナは、わざと肩をすくめて笑ってみせる。
「バカね。ちゃんと帰ったでしょ」
リアは俯き、胸元でノートを強く抱え、さらに一歩近づく。
「怖かったの…。私、強くなるよ。泣かないよ。だから一緒にいて」
フェンスが、風にカランと鳴る。
ルミナは息を吸い、吐き、言葉を選ぶみたいにゆっくりと口を開いた。
「リア。強くなるって、泣かないことじゃないのよ。泣きながらでも、一歩ずつ進めること。あなたはいつも頑張ってる」
リアはルミナを見つめる。
「じゃあ、私も…」
ルミナはリアの言葉を静かに受け止め、遮るようにゆっくりと答える。
「リアの進む道と、私の行く場所は、たぶん違う」
その瞬間、リアの瞳が大きく揺れた。
言葉が刃になると知りながら、ルミナはあえて角度を変えずに言葉を投げる。
「リア、あなたは光を見るべき。私は、光の届かない場所を歩く」
リアは小さく首を振る。
「やだ。やだよ…」
涙が溜まって、溢れそうになるのを必死で堪えながらリアが叫んだ。
「私がいるからって言ってくれたの、嘘だったの!?」
胸の奥が、鈍く軋んだ。
(嘘じゃない。だけど嘘にして、私がすべての汚れを引き受ける)
ルミナは静かに目を伏せた。
「私がいるから、大丈夫。あなたの前には、絶対に汚いものを出さない。だから、私を信じて、私がしてる事を見ないで……。」
しばらく重い沈黙が続いた。
風が行き過ぎ、フェンスがまた鳴る。
リアはノートを抱きしめたまま、何も言えなくなった。
──その夜。
外の道でバイクの低い鼓動が、施設の壁に吸い込まれて震えた。
ルミナが窓を押し上げると、冷たい空気が頬を撫でる。
(また行くの?)
心の声が、自分自身に問いになって返ってくる。
(行く!見て、知って、選ぶ!私とリアのために)
足を窓枠にかけた時、背中から小さな囁きが聞こえた。
「お姉ちゃん」
振り向くと、暗がりの中でリアが起きていた。
ノートを胸に、足を床につけたまま立ちすくんでいる。
「……行くの?」
「少しだけ」
「帰ってくる?」
「必ず帰るわ」
嘘じゃない。
ただ、帰ってくるたびに、少しずつ自分の何かを外に置いてくるだけ。
リアは一歩踏み出し、でも、それ以上は近づかなかった。
「ひとりにしないでって言ったの、覚えてる?」
ルミナは静かに頷いた。
(大人なんて、あてにならない。リア、あなたがちゃんと前に進んでいける、そんな環境を私が作ってあげるわ)
窓の外は激しい夜風。
ヘッドライトの帯が遠くで交差して、闇の中に白い線を描いていた。
──裏通り。
自販機の明かりが四角く地面を切り取り、薄い蛍光がアスファルトに滲んでいた。
そこに、バイクの影が四つ。
レイトは壁にもたれ、煙草を指に挟んでいた。
「やっぱ来たか、ルミナ!」
ルミナは肩を竦める。
「うるさいわね。で、今夜は?」
レイトは煙を吐き、顎で路地の奥を指した。
「見せたいもんがある。『力』ってやつの、別の使い方だ」
同じ『力』でも、ただ無闇に殴るだけじゃないことをレイトは静かに示した。
痩せた少女に自販機の飲み物を押し付け、代わりにたかりに来た男の腕を鮮やかにひねり、逃がす。
怒鳴らず、殴らず、目を見て、通す。
路地にいる連中は、レイトの姿を見ると一斉に道を空けた。
「なんで殴らないの?」
「殴るのは簡単だ。それを続けるのも簡単だ。
だがな、暴力ってのは暴力で返ってくる。
それ以上でもそれ以下でもない。そして何も生まない。
それが続いたあとに何が残るかを考えられない奴は、いずれ潰れる」
レイトは真剣な目だった。
「お前はこのままじゃ潰れる。お前を見てるとどうも見過ごせなくてな」
「どうして私にそこまで教えてくれるの?」
レイトの顔がかすかに曇り、発したのは一言だった。
「まぁ、色々とな…」
足を止めると、遠くでサイレンが通り過ぎた。
そしてレイトは声を落とす。
「お前、施設から出るのか?あそこにいた方が安全なんだぞ。わざわざ自分から茨の道を選ぶ必要ねーだろ。よく考えて選べ。あそこの安全地帯にいるか、外の無法地帯にで出て外で傷だらけになりながら進むか」
ルミナはレイトのグレー色の瞳をまっすぐに見つめ返し、ゆっくりと言い放った。
「私は、自分が良ければいいとか、今が楽しければいいとか、そんな子供みたいな理由でこの道を選んだわけじゃない。妹のためなの。あの子のためなら、私は闇に堕ちてもいい」
その言葉を聞いた瞬間、レイトの目が見開かれた。彼は、ルミナの言葉の裏にある重すぎる覚悟を、肌で感じ取った。
「そうか…。わかったよ。ほんと、たいした女だぜ、お前はよ。だけど、それがルミナって女なんだろうな」
レイトはポケットに手を入れたまま、ルミナの紫の瞳を見つめながら、心の底で静かに呟いた。
(こいつ……いったいどんな環境で生きてきたんだ。ただの女じゃねぇ。あの瞳……覚悟がヒシヒシ伝わってきやがる。なんて女だ)
レイトはバイクに跨がり、不敵に笑った。
「お前が歩く道に、オレはついていける、そんなとこだ」
答えの前に、風が頬を撫でた。
言葉より先に、身体が外の温度を確かめる。
冷たくて、生きている匂い。
(帰るって約束した。帰る。でも、私は、もう立ち尽くすだけの私じゃない)
──帰り道。
戻る道は、来た時より暗く感じた。
施設の壁が見え始めたところで、物陰に小さな影があるのに気づく。
裸足でパジャマ姿で立っている、女の子。
それは、涙を流しながら立ち尽くすリアだった。
月の光だけが、頬の涙の跡を薄く光らせている。
「……リア!起きて待ってたの?…」
息が震える。
ルミナは歩みを緩め、二人の間に流れる夜風を意識した。
(この子は、私がいなければきっと永遠に泣き続ける。リアの夢のためなら、私は何度でもこの闇に堕ちる)
「ごめんね…心配してたの?帰るって言ったでしょ?」
ルミナがリアを強く抱きしめた。
「うん……」
リアは頷き、小さく笑おうとして、うまくいかなかった。
目の前にいるのに…側にいるのに…そして体温は伝わるのに、心はとても遠い。
「でも……いなくならないで」
ものすごく胸に刺さる。
もう何度も言われてるこの一言は、何度聞いても全然慣れなかった。
「いなくなったりしないわ。いなくなるのは、あなたの前から汚いものだけ」
リアは唇を噛む。
「それ、ずるい……」
涙がぽろりと落ちた。
「私、全部見たいのに。お姉ちゃんのこと、もっとちゃんと知りたいのに。
私,お姉ちゃんが大好きなんだもん!」
言葉が、胸の内側から溢れそうになった。
(見せれば、リアは傷つく。隠せば、私が離れていく…)
二択じゃない道を探すみたいに、ルミナは夜空を見上げた。
「リア、私を信じて」
声が少し掠れた。
「リアはね、光の側にいなさい。
そこから出ちゃダメ!いい?私にできるのは、影で風を受けることだけ」
リアは泣き笑いの顔で、ノートを強く抱きしめた。
「お姉ちゃん…ずるいけど……信じる」
静かな抱擁はなかった。
二人の間に、冷たい夜風だけが通り過ぎていく。
それでも、その風はもう檻の風じゃない。
選んだ者だけが吸い込める、冷たい自由の匂いだった。
──翌日。
職員室での話し合いは決裂寸前で止まった。
警察沙汰は証拠不十分で保留となった。
だが、噂は施設中に広がり、ルミナに向く視線はさらに増えた。
畏れと、憧れと、軽蔑と、羨望。
全部が混じって、それは一つの重い空気となる。
そしてその夜…。
二段ベッドの上で、ルミナは月を見上げていた。
拳をゆっくり握り、開く。
(殴るのは簡単。続けるのも簡単。でも続いたあとに何が残るかを、考えられる私でいる)
リアの寝息が、昨日より少しだけ深い。
身じろぎの音がして、薄く寝言が落ちる。
「……待ってよ、お姉ちゃん…おいてかないで…」
ルミナは暗闇の中で、そっと目を閉じて微笑んだ。
(ちゃんと待ってるわよ。リアには笑顔が似合う。この優しい笑顔を、私が守ってあげたい……)
声には出さない約束を、胸の底で深く結ぶ。
窓の外、月影が床に長く伸び、静かに揺れていた。
光は落ちて、闇に芽吹く。
その芽は、まだ小さく、しかし確かだった。
足音はもう迷わない。
そして、ルミナは音もなく、次の夜へと歩き始めた。
《PROJECT♾️HEART-X 第18話》
(ルミナ編 第6話:闇に咲く花》




