☾《第16話 夜明けの影》
──夜。
壁にもたれたまま目を閉じると、あの昼間に聞いたバイクの音が頭の奥で蘇った。
風を切る音、マフラーの響き、遠くの笑い声。
それはまるで鳥籠の外の世界から届く、呼び声のように聞こえた。
あのフェンスの向こうで感じた、不器用で、だけど確かに『生きている』という生の息吹。
思い出すだけで、胸の奥が熱くなる。
(もう大人の理不尽なルールに縛られるのは嫌だ。あの風の向こうに行けたら……)
深夜、施設全体が深い眠りに沈む。
静まり返った廊下を、ルミナは毛布を静かにどけ、足音を殺して進んだ。
壁の時計は午前0時を指している。
ルミナは窓の鍵を外し、静かに押し開けた。
金属音が『キィ』と小さく鳴り、夜の錆びた空気が流れ込んでくる。
風の音が窓を震わせ、大気はわずかに湿っていた。
躊躇いは、一度もなかった。
冷たい空気が頬を撫で、髪を揺らす。
ただ、外の空気をこの肌で確かめたいと思った。
風の匂いを感じたくて、そして自由がどんな匂いをしているのか、この目で知り、確かめたかった。
鳥籠の外の世界がどんな景色をしていて、どんな温度をしているのかを。
窓枠を越え、足を一歩踏み出すたびに、靴底が砂利を踏みしめる音を立てた。
その音が、まるで檻を抜け出した証のように誇らしく響いた。
「……これが、外の世界」
足音を忍ばせて外に出ると、初めて嗅ぐ外の匂い、排気と潮の混じった、ざらついた空気。
夜の外は思っていたよりも暗く、そして美しかった。
フェンスの外の街灯が、霧に包まれてぼんやりと光が滲んでいる。
街灯の明かりが滲み、遠くから犬の吠える声や野良猫の鳴き声が聞こえる。
アスファルトは濡れ、光が反射して銀色に輝く。
人の気配が途切れた路地は、まるで世界から忘れられた場所にも感じられた。
歩くたびに靴底が小さく鳴る。
ルミナはそっと息を吐き、夜空を見上げた。
施設の部屋から見る空と同じはずなのに、なぜか外から見る夜空はルミナの瞳には全く違って見えた。
星は少なかったが、自由の匂いは確かにそこにあった。
初めて吸い込んだ外の空気は、苦く、痛いほどに生々しく、そしてほんの少しだけ甘かった。
歩くうちに、人気のない静まり返った裏通りにたどり着いた。
コンビニの廃棄箱、壊れた自販機、壁に殴り書きされたスプレーの落書き。
大人のルールが届かない街の隙間に、生々しい世界の匂いが漂っている。
その時、裏通りの狭い路地の奥から、激しい怒鳴り声が響いた。
「やめろよ……!」
「調子に乗んなよガキが! 生意気に粋がってんじゃねぇ!」
叫び声とガラス瓶が割れる鋭い音。
ルミナの足が止まる。
狭い路地の奥の街灯の下で、一人のヤンチャそうな中学生くらいの少年が、数人の粗暴な男たちに囲まれて殴られていた。
顔は血で汚れ、地面に泥を擦りつけられている。
酒の匂い、煙草の煙、そして生臭い血の匂い。
世界の現実が、暴力となって押し寄せてくる。
その光景を見た瞬間、ルミナの胸の奥で、何かが激しく切れた。
(リアを泣かせた奴らと同じ匂いだ……!)
「ちょっと、やめなさいよ!一人に大勢なんて卑怯よ」
声は自然に出ていた。
ハッとして男たちが振り返る。
夜風に青っぽい髪を揺らし、鋭い眼光で自分たちを睨みつける少女が一人。
「なんだ、このクソガキ女。ガキが夜遊びか?」
一瞬、空気が凍りつく。
年上の男が激しく舌打ちをして、ルミナへと歩み寄ってきた。
「こんな夜中にお嬢ちゃん一人でなにしてるの? 援交かなぁ、オレが相手してやろうか、へっへっへ」
ルミナは低く冷たい声で言い放つ。
「……どいて」
その瞬間、男の腕が伸びた。
胸を思いっきり押され、よろめいたルミナは後ろのコンクリート壁にドンッと激しくぶつかった。
とっさに庇おうとした右の手の甲が擦れ、じわりと赤い血が滲む。
「あぁっ……痛っ……!」
視界が一瞬、白く弾ける。
だが、足は止まらなかった。
次の瞬間、ルミナの右手が電閃のように動いた。
反射的に振り抜いた手のひらが、男の頬を思いっきり撃ち抜く。
バチィーン!!
ルミナのビンタの乾いた音が、夜の闇を裂いた。
「このヤロー、てめぇ……!」
男が怒鳴り、周囲がざわついた瞬間…。
男が頬を押さえてうめく隙に、ルミナは二人目の腕を掴み、足を払って地面へなぎ倒す。
(怖くない……こんな奴らなんに私は負けない! 守るためなら)
しかし、まだ中学生くらいの少女の力だ。
怒り狂った残りの男たちが一斉にルミナを取り囲み、強引に地面へと押し倒して馬乗り状態になった。
「捕まえたぞ! ガキの女のくせに何すんだコラ!」
「ああっ……くっ……離しなさいよ!」
完全に馬乗りにされ、万事休す。
手が震え、痛みと恐怖が全身を巡る。
だが、ただ負けたくないという衝動だけがルミナの心を動かしていた。
ルミナは必死に手を伸ばし、近くのビールケースにあったガラス瓶を咄嗟に掴むと、相手の顔面めがけて無我夢中で振り回した。
男が悲鳴を上げて顔を押さえた隙に、なんとか這い出して立ち上がり、距離を取る。
だが、男たちの怒りは完全に限界を超えていた。
血走った目で、ジリジリとルミナを囲い込んでいく。
(守るためなら……負けたくない……! こんな奴らに…。だけど、もう……!)
ルミナが奥歯を噛み締めた、その時だった。
『ドドドド……!!』
暗闇を切り裂く強烈なヘッドライトの光が照らし出し、路地裏を一瞬で白く染めた。
激しい重低音の排気音を響かせ、白煙を巻き上げて現れたのは、一台の黒いカスタムバイク。
そして、ヘルメットを外したその下に不敵な笑みを浮かべる金髪の男。
バイクから降り、ゆっくりと歩いてくる高校生くらいの金髪の男の低い声が響く。
「おい!その女に触るな」
昼間に施設のフェンス越しに出会った、あの男だった。
「女一人に群がるとか、ダサすぎだろ」
次の瞬間、電光石火の嵐が吹き荒れた。
ゴン、バキッ、ガッ!!
鈍い衝撃音と共に、ルミナを追い詰めていた男たちがバタバタと地面に崩れ落ちていく。
圧倒的な、本物の『力』。
あっという間にその場にいた全員を叩きのめし、すべてが静まり返った。
「よっ!誰かと思えば、また会ったな」
軽く笑うその目には、挑発と興味が混じっていた。
「……あなた、あの時の」
ルミナは目を細め、荒い息を整えながらレイトを冷ややかに睨みつける。
「……あなたに、助けてなんて言ってないわ」
「おぉ、気が強いねぇ。だけどよ、こんな奴らに一人で立ち向かって負けそうなところなんて、見てらんなかっただけさ」
その男はポケットに手を突っ込んだまま、くわえ煙草の火を赤く灯らせた。
紫の煙が夜風に溶けていく。
「それにしてもお前、度胸あるなぁ。ところで、施設にいるはずのお前がこんな時間によ、こんな場所で何してるんだ?」
「……べ、別にそんなこと、どうでもいいじゃない。あなたには関係ないでしょ」
ぶっきらぼうな返事に、男はしばらく黙って煙を吐き、グレー色の瞳を細めた。
「お前、面白ぇな。なんか理由があるって顔してんな」
「……私には、守らなきゃいけない子(妹)がいるの……」
ルミナの声が、かすかに震えた。
それが誇りなのか、正義なのか、はたまた目の前の恐怖なのか、自分でも分からない。
けれど、もう大人の都合に振り回されたくはなかった。
彼は真剣な眼差しで、黙ってルミナの言葉を受け止めていた。
「お前、いくつだ?中坊くらいだろ。女のくせに見ず知らずの奴のために大の男を相手に闘うなんて、とんでもねぇ根性モンだな。たいした女だ」
男はそう言って短く笑った。
「……別に怖くなんかないわよ」
「わかったわかった、ほんと気が強いなぁ」
その時、助けられた少年が地面で息を吹き返し、かすかに声を絞り出す。
「あ、ありがとう……」
その声を聞いた瞬間、ルミナの喉がキュッと詰まった。
自分の右拳が小刻みに震えている。
(守った……。でも、痛い。私は誰かのために殴ったのに、なんでこんなに胸が痛いの……)
遠くから、ウーウーとパトカーのサイレンが鳴り、近づいてくる。
赤い光が建物や路地の端を照らし始めた。
「ちっ、面倒なのが来やがったぜ。おい! もう行け。ここにいたら、お前まで捕まっちまうぞ」
彼の言葉にルミナは小さくうなずき、ルミナはその場から駆け出そうとした。
その背中に向けて、声をかける。
「お前、名前は?」
ルミナは静かに答えた。
「……ルミナ」
「ルミナか。いい名前だな! 『光』って意味だろ?」
「皮肉ね。こんな暗い場所にふさわしくないわ」
男はフッと優しく笑った。
「だけどよ、光ってのは暗い場所にある方が綺麗なんだぜ!」
その一言が、ルミナの心の奥深くを激しく揺るがした。
「オレの名はレイトだ!覚えておけ」
そう言うとレイトは轟音と共にバイクが闇に消えていく。
ルミナはその名前を胸に刻み、夜の闇に身を溶かした。
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施設に戻る頃には、夜明け前の空が淡い灰色に染まり始めていた。
靴は泥にまみれ、右拳は赤く腫れ上がっている。
玄関の扉を開けた瞬間、待ち構えていた職員が容赦ない怒鳴り声を浴びせてきた。
「どこに行ってたの!? 外出は禁止だって言ったでしょう!」
ルミナは目を合わさず、何も言わずにすれ違った。
ただ、その声が遠くで響くように聞こえた。
今さら叱られることなんて、どうでもよかった。
大人の言葉など、もう自分の心には届かない。
部屋に戻ると、二段ベッドの下でリアが目を覚ましていた。
その瞳は、一晩中ルミナを心配して泣き崩れていたように、赤く腫れ上がっている。
「お姉ちゃん、どこに……? ……あ、お姉ちゃん。手から血、出てるよ!」
リアがベッドから飛び起きようとする。
ルミナは靴底の泥を払いながら、リアと目を合わせないように、わざと不敵に微笑んでみせた。
「いいのよ。実際に外に出て、一つ分かったことがあるの。これで、一歩だけ進んだわ。やっと、誰かを守れた気がする」
だが、その微笑みはリアには、痛々しい『強がり』にしか見えなかった。
リアは震える声でルミナに尋ねる。
「ねぇ、お姉ちゃん……どうしてそんな危ないことをするの? 私、すごく怖かったよ……また一人ぼっちになるかと思って……!」
リアの涙ながらの訴えに、ルミナの胸が張り裂けそうになる。
(言えない。リアの夢を守るために、私が汚れる道を選んだなんて……絶対に言えない)
ルミナは、あえて冷たい口調を作り、リアを激しく突き放した。
「うるさいなぁ! 私に構わないでよ。あんたは夢とノートにだけ集中してればいいの。私は、私がやりたいから勝手に外へ行っただけ!」
リアは姉の冷たい嘘に、言葉を失うほどの拒絶を感じ、押し殺していた涙を再び溢れさせた。
ルミナの拳の血よりも、その冷たい言葉の方が、リアの胸に深く深く突き刺さっていた。
ルミナは何も言えず、毛布を被って泣いているリアの背中を、ただじっと見つめることしかできなかった。
(リア、ごめん……ごめんね……。私には何も取り柄がないから、こんな泥にまみれる事でしか、あんたを大人の都合から守ってあげられないの……)
窓の外を見ると、夜明けの光が鉄格子を透かして室内に差し込んでいた。
空の色は、灰と金の境界線。
(自由は……こんなにも冷たくて、痛いものなんだね)
そっと夜明けの風が吹き、外の世界の匂いを部屋へと運んでくる。
ルミナは包帯も巻かないまま、傷ついた右手を強く握りしめた。
(私の手がどれだけ汚れても、あんたを守れるならそれでいい。構わないわ。リアの未来は、私が絶対に守ってみせる)
窓の外でカラスが鳴き、夜明けの風が、静かに窓を叩いた。
夜が終わり、朝が来る。
だがそれはもう、ただ大人しく順番を待つだけの檻の朝ではなかった。
ルミナという名の『光』の裏で、大切なものを守るための新しい『影』が、静かに生まれようとしていた。
次回!
《PROJECT♾️HEART-X 第17話》
(ルミナ編 第5話 堕ちる光、芽吹く闇》
リアにわざと冷たく見せ、、孤独な戦いを選んだルミナ。
暗闇の中で、あの金髪の少年・レイトが残した言葉が静かに響く…。
少女が自ら闇へと踏み出していく第17話、どうぞお楽しみに!




