第2話:最初の化学反応とギルドの融資
起業を決意した俺は、まず情報収集のために安宿の主人の元へ向かった。
「旦那、この街で合法的に商売をするにはどうすればいい?」
「商売か? なら商人ギルドに行ってライセンスを取るのが筋だな。勝手に路上で物を売ってみろ、ギルドの見張りにつままれて一発で叩き出されるぞ」
主人の助言に従い、俺は街の中央区画にそびえる石造りの「商人ギルド」へと向かった。
格式高い重厚な建物のドアをくぐると、羊皮紙の匂いと羽ペンの走る音が充満している。受付の窓口で露店商の登録について尋ねると、事務的な対応の職員が説明してくれた。
「最下層の『行商・露店許可証』ですね。こちらは身元確認の簡易手続きと、初回ライセンス料の銀貨2枚をお支払いいただければ、即日発行可能です」
よかった、資格自体はあっけなく手に入りそうだ。手続きを済ませ、露店許可証となる小さな銅板を受け取る。
しかし、深刻なのはその先だった。
(……手持ちの金が、一気に心細くなったな)
古着屋で得た銀貨は、ライセンス料と宿代で着実に削られている。これでは作業所の契約金どころか、大鍋や漉し布といった道具一式を揃えるだけで破産してしまう。
俺は腹を括り、許可証を出してくれた受付職員に声をかけた。
「すみません。事業の立ち上げにあたって、ギルドから少額の融資を受けることはできますか?」
「融資、ですか?」
職員は怪訝な顔で俺を上から下まで見つめた。無理もない。実績も保証人もない、昨日今日やってきたような行商人に金を貸す物好気な組織など存在するわけがない。
「融資には、相応の担保か担保価値のある資産の提示が必要です。リク様は何かお持ちで?」
「これです」
俺は大切に抱えていた木箱を開け、中から一塊のハンドメイド石鹸を取り出して台の上に置いた。
職員は眉をひそめ、人差し指でつつくようにそれを眺めた。
「……何ですか、これは? 固められた油脂の塊……ハーブの練り物ですか? こんな見たこともない不審な品では、担保としての査定など——」
「水とタライ、それに汚れた布を貸してください。実演します」
俺の強い眼差しに押されたのか、職員は半信半疑のまま奥から水が入ったタライと、油汚れのついた雑巾を持ってきた。
俺はタライの水で手を濡らすと、石鹸を両手で数回ころがした。
途端に、立ち上る滑らかで繊細な白い泡。
同時に、爽やかなハーブの香りがフワリと受付の周囲に広がった。
「なっ……!?」
職員の目が丸くなる。俺はその白い泡で油汚れのついた雑巾と自分の手を丁寧に洗い、水でサッと流してみせた。
ベタついていた雑巾の油汚れが一瞬で落ち、水気を拭き取った俺の手からは一切の脂臭さが消え、しっとりとした肌触りとほのかな香りが残る。
「ど、どういうことだ……!? 泡立ちが異常に滑らかだし、嫌な動物臭が一切しない! 洗い上がりの肌がヒリヒリしないだと!?」
「これは最高級の植物油とハーブを極限まで精製して作った、肌を痛めない『極上石鹸』です。この街で売られている粗悪な石鹸とは根本的に物が違います」
職員はゴクリと唾を飲み込み、自分の手で泡を確かめると、興奮気味に奥へ走り、年配の査定員を連れてきた。査定員もまた、その泡立ちと香りに絶句した。
「……素晴らしい。これほどの代物は、王都の貴族向け輸入市でも、お目にかかれんぞ。よし……! この石鹸1個を担保として預かり、作業所の初期費用と道具代に十分な額の小口融資を認めよう!」
交渉成立だ。自作の石鹸1個が、俺の起業資金へと化けた瞬間だった。
「ついでに、探してほしい物件の条件があります」と俺は職員に伝えた。
「日陰で乾かすスペースがあり、風通しが極めて良い作業所をお願いします。日当たりは悪くて構いません」
石鹸と骨粉の乾燥には「直射日光」は大敵だ。日陰で風がよく通る物件なら、賃料も安く抑えられるはずだという俺の計算だった。
「承知しました。条件に合う物件をいくつかピックアップしておきます。明日また来てください」
ギルドを出た俺は、資金の目処が立った足で、すぐさま原料の仕入れ交渉へと向かった。
まずは昨日訪れたパン屋だ。親父は相変わらず窯の掃除で煤まみれになっていた。
「親父さん! 俺にその窯の掃除をやらせてくれないか? 毎日綺麗に磨き上げてやるよ。その代わり——掃除で出た『灰』を全部俺に無料で譲ってほしいんだ」
親父は手をとめ、黒い顔のまま目を丸くした。
「はあ? 灰を譲れだと? あんな重くて汚いゴミをか? お前、頭でも打ったのか?」
「大真面目さ。窯の熱効率も良くなってパンも焼きやすくなる。お互いに損はないはずだ」
「……変わった奴だな。好きにしろ! 灰なんかいくらでも持っていきやがれ!」
まずはアルカリ(灰汁)の無料調達ルートを確保した。
続いて向かったのは、街の肉屋だ。
店主に「毎週一回、肉を削いだ後の新鮮な大腿骨と、余った油脂をまとめて買い取りたい」と持ちかけると、案の定、最初は足元を見られた。
「骨と油ぁ? ゴミとはいえ、わざわざ取っておくのも手間なんだよ。タダとはいかねえな」
「分かっている。銅貨3枚でどうだ? その代わり、腐りかけた古いものは一切要らない。毎週決まった曜日に、捌きたての新鮮な骨と脂だけを固めて出しておいてくれ」
捨てていたゴミから定期的に小銭が入るとなれば、肉屋にとっても悪くない話だ。店主はニヤリと笑い、快く握手を交わした。
最後に向かったのは、露店の並ぶ大通りにある中古雑貨屋だ。
店先を物色していると、店主が声をかけてきた。
「何か探してるのかい?」
「大きめの銅鍋と、漉し布、バケツや木製の撹拌棒が一式欲しい。中古で安く揃えたいんだが」
「それならおあつらえ向きのがあるぞ。先月潰れた大衆食堂の焼き払われた調理器具一式だ。焦げ付きが酷くて誰も買わねえから、破格で叩き売ってやる」
出された銅鍋を見ると、確かに真っ黒な焦げがこびりついていた。だが、フレンチの厨房で鍋磨きを極めた俺には分かる。
(厚手の立派な銅鍋だ。磨けば新品同様に熱が回る)
俺は提示された金額を即決で支払い、「明日作業所が決まるまで、ここで預かっていてくれ」と頼み込んで店をあとにした。
翌日。
商人ギルドへ向かうと、職員が約束通り3つの作業所物件を案内してくれた。
その中で俺が選んだのは、街の北側の裏路地にある、元は革なめし職人の物置だったという平屋だった。
建物自体は古いが、周囲を高い石壁に囲まれていて直射日光が一切入らず、南北に大きな窓があって心地よい風が常に吹き抜けている。日陰干しにはこれ以上ない最高のロジックが詰まった物件だ。
「ここに決めます」
契約金を支払い、無事に作業所の鍵を手に入れた。
その日の午後は猛烈な忙しさだった。
中古雑貨屋から預けていた大鍋や道具類を運び込み、川の砂利と灰を使って銅鍋をピカピカに磨き上げた。さらに薪屋へ向かい、火力の強い乾燥した薪を大量に買い込んで作業所の隅に積み上げる。
ガラリとした薄暗い作業所の真ん中に、美しく光る銅鍋と、積み上げられた木灰、そして積み上がった薪。
すべての準備は整った。
「よし……明日から、仕込み開始だ」
静かな作業所に、俺の声がポツリと響いた。
誰の下請けでもない、俺だけの城で、最初の化学反応が始まろうとしていた。




