プロローグ:安宿の小部屋と一箱の石鹸
怒号と油臭さが充満するフレンチの厨房を逃げ出した日のことを、今でも鮮明に覚えている。
下積み時代の俺、佐倉陸に染み付いていたのは、理不尽な上下関係の苦い記憶と、徹底的に叩き込まれた衛生管理、そして食材を余すことなく使い切る下処理の手順だけだった。逃げるように実家へ戻り、無気力に過ごす俺を見かねた母親が言った。
「ヒマなら、お母さんが使う石鹸でも作ってよ。あと、庭のトマトに撒く骨粉づくりも手伝いなさい」
料理の知識は化学の知識だ。油脂とアルカリを反応させて石鹸を作るのも、肉屋から譲り受けた大腿骨を煮出してゼラチンを取り、残ったガラを叩き潰して骨粉肥料を作るのも、かつての厨房作業に比べればなんということもない作業だった。
あの日も、そうだった。
庭から摘んだハーブを練り込み、丁寧に型抜きしたハンドメイド石鹸。母親へのプレゼントとして、家にあった小ぶりの木箱にぴたりと収めた。
「よし、我ながら良い出来だな」
手応えのある重量感と、かすかに立ち上る爽やかなハーブの香り。満足感に浸りながらリビングのソファーに腰を下ろし、一息つこうと目を閉じた——その瞬間のことだった。
浮遊感と、激しい目眩。
次の瞬間、鼻腔を突いたのは香ばしいハーブではなく、馬糞と汗、そして古い木と煤が混ざり合った、酷く泥臭い空気だった。
「……え?」
目を開けると、そこは実家のリビングではなかった。
頭上には見たこともない形状の石造りの建造物が建ち並び、石畳の広場には粗末なチュニックや革の胸当てを身につけた人々が行き交っている。異国どころか、まるで中世のヨーロッパに迷い込んだかのような風景。
そして何より痛烈だったのは、足裏の感覚だった。
ゴツゴツとした硬い石畳の冷たさと痛みが、室内履きのペラペラなスリッパ越しに直撃してくる。
頭が理解を拒絶する中で、周囲からの刺すような視線に気づく。
「な、なんだあの服は……? 部屋着か?」
「足元を見ろよ、布切れみたいな変なサンダル履いてるぞ……」
周りの人々が、俺の格好を奇異の目で見つめていた。ポリエステルのパーカーにスウェットパンツ、そして足元は薄いスリッパ。この街の風景の中で、俺の身なりは異彩を放ちすぎている上に、足が痛くてまともに歩けやしない。
(まずい、目立ちすぎるし、この足元じゃすぐに怪我する……!)
腕には、転移した瞬間に握りしめていた木箱入りの石鹸がある。俺はそれを固く抱え直し、痛む足をかばいながら、路地裏で見つけた一軒の古着屋へ滑り込んだ。
突然飛び込んできた異様な恰好の男に、店主の親父は最初は警戒感を全開にしていた。しかし、俺が脱ぎ捨てた現代の服とファスナーを手にとった瞬間、その目が丸くなった。
「なんだこの布地は……手触りが滑らかすぎる。それに、この金具はどういう仕組みだ? 縫い目も異常なほど細かい……」
中世風の縫製技術しか存在しないこの世界において、現代の衣類はまさに未知のオーパーツだった。足元を見られるかと思いきや、技術的な価値に目を剥いた店主は、街で流通している地味な粗布の衣類一式と頑丈な革靴、そして思っていた以上の「お釣り」として3枚の銀貨を手渡してくれた。
粗末な服に着替え、しっかりと革靴の紐を結ぶ。銀貨の入った革袋をポケットに押し込み、店主に教えてもらった街の外れにある安宿へ向かった。1泊分の部屋代を払って二階の狭い部屋へと入る。
軋む木製のベッド。カビ臭い空気。ギシギシと音を立てる床。
「……本当に、異世界に来ちまったのか」
机の上に、現代から唯一持ち込むことになった木箱入りのハンドメイド石鹸をぽつんと置く。
ポケットの中の銀貨を数える。宿代と食費を考えれば、あと1ヶ月もすればこの金は底をつくだろう。
冒険者になってモンスターと戦うなんて芸当は無理だ。かといって、衛生観念もへドロもない食堂の下働きに戻れば、前世の二の舞になり、一生最下層の使い捨て労働者として擦り切れて終わる。
(雇われるのはごめんだ。誰かの下で使い潰されるために、ここに来たわけじゃない)
机の上の石鹸をじっと見つめる。
俺には、フレンチの厨房で叩き込まれた調理と下処理の技術がある。原価計算の感覚がある。そして、母と一緒に学んだ石鹸と肥料の知識がある。
誰にも文句は言わせない。自分の力で、自分の城を建てて生き残ってみせる。
手元に残されたわずかな銀貨と、一箱の石鹸。
俺の異世界での商売が、この薄暗い安宿の小部屋から始まろうとしていた。




