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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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第41話 この命に代えても、二度目

 九月の終わりに近づくと、尾路町の海は、夏の顔を少しずつしまい始めた。


 朝の港に立つと、潮の匂いの底に、冷えた鉄のような匂いが混じる。渡船の白い船体に当たる光も、八月のように跳ね返らず、木の床に置いた手のひらへ、ゆっくり落ちてくる。


 けれど、その日の夕方だけは違った。


 交通案内所の窓ガラスが、昼過ぎから細かく鳴り続けていた。雨はまだ降っていない。けれど尾道水道の向こう、淡名島の稜線の上に、低い雲が黒い布のように垂れ下がっている。船の便を示す掲示板の前で立ち止まる客は、みな同じように空を見上げた。


 祐は受付机の上に、信清から届いた潮位表を広げていた。


 赤鉛筆の丸が、二つ。


 午後五時半。


 午後七時。


 その横に、信清の字で「南東風、強まる。閉鎖判断を早めに」と書かれていた。


 祐は待合所の鍵束を手に取った。金具がこすれて、小さく鳴る。仮開放が始まってから、閉鎖札は何度も入口にかけてきた。けれど、本格的な荒天で予定より早く閉めるのは、これが初めてだった。


 裕子は案内所の奥で、印刷した掲示をそろえていた。


 「淡名渡船待合所、午後四時で閉鎖。渡船は船会社の判断待ち。代替案内は交通案内所へ。……これで足りる?」


 「十分。あと、白い紙札の板は屋内へ入れる」


 「それ、明純に連絡済み。愛衣子は来訪者名簿を回収。文香さんは名札棚。壮翔さんは……」


 裕子の声がそこで止まった。


 祐は顔を上げる。


 「壮翔さんは?」


 「電話に出ない」


 その時、案内所の自動ドアが開いた。


 明純が駆け込んできた。濡れてはいないのに、髪が潮風で大きく乱れている。片手にスマートフォン、もう片方の手に畳まれた白い紙札の束を抱えていた。


 「祐さん、壮翔さん、宿にいません。待合所の裏の物置がどうとか言って、走っていきました」


 裕子の眉間に、深い線が入った。


 「どうとか、って何」


 「『男には、濡らしてはいけない紙がある』って」


 「紙より先に自分の頭を乾かしてほしい」


 祐は鍵束を握り直した。


 文香からの短いメッセージが届いたのは、ちょうどその時だった。


 ――待合所、先に閉める。標本箱は大丈夫。


 続けてもう一通。


 ――裏の物置、雨漏りの跡。


 祐は画面を裕子へ見せた。裕子の唇が、細く結ばれる。


 「名札の写し、あそこに置いてなかった?」


 「今日の昼に、整理途中の箱を一つだけ。白い紙札の古い分も」


 「最悪」


 裕子はそう言いながら、すでに掲示を鞄へ入れていた。明純が「俺も行きます」と言い、愛衣子が奥から名簿用の防水袋を抱えて出てくる。


 「私も行きます。濡らしたら困るもの、分けます」


 祐は二人を見た。


 「走らない。港の石畳は滑る。信清さんが閉鎖判断を早めろって言ってる。人を守るのが先」


 愛衣子が頷いた。明純も、口を開きかけて、閉じた。


 裕子は掲示紙を祐へ渡す。


 「言われなくても分かってる。けど、壮翔さんは分かってない可能性が高い」


 「うん」


 祐は案内所の照明を半分だけ落とし、入口に臨時案内の紙を貼った。


 外へ出ると、風が坂の上から港へ向かって吹き下ろしていた。まだ雨粒はない。けれど、空気は濡れている。電線が低く唸り、路地に積まれた発泡箱の隙間で、古い新聞がめくれた。


 待合所へ向かう道では、商店街の人たちがのれんを外していた。惣菜屋の店先から、油の匂いと一緒に、おばちゃんの声が飛んでくる。


 「祐くん、船は?」


 「船会社の判断待ちです。待合所は四時で閉めます。案内所で振替を出します」


 「そりゃそうじゃ。あそこ、風の抜け方が怖いけえね」


 祐は頷いた。


 その一言が、胸に残った。


 待合所は、残すと決めたからといって、いつでも開ければいい場所ではない。海が荒れる日は、閉じることで人を守る。八月の説明会で、信清が何度も言ったことだった。


 それを、今日は本当に使う。


 淡名渡船待合所の前に着くと、文香が入口に立っていた。髪を後ろで結び、袖口をいつもより高く折っている。名札棚にはすでに布がかけられ、標本箱の前にも薄い板が立てられていた。


 文香は祐を見ると、短く言った。


 「中は閉めた」


 「ありがとう。物置は?」


 「あっち」


 文香が顎で示したのは、待合所の裏手にある小さな木の物置だった。清掃道具、余った紙札、修繕前の椅子脚、古い掲示板の枠などを置いている。普段なら風の当たりにくい場所だが、今日は南東から回り込む風が、建物の脇をなめるように走っていた。


 物置の前で、壮翔が膝をついていた。


 背中に、宿で使っている雨合羽を羽織っている。だが袖を通しておらず、肩からずり落ちている。片手には大きなビニール袋、もう片方の手には、なぜか宿のスリッパが三足ぶら下がっていた。


 「壮翔さん!」


 祐が呼ぶより早く、壮翔は振り返った。


 「祐、来たな。よし、ここは俺に任せろ。この命に代えても、名札の写しと白い紙札と、あと宿のスリッパ三足は守る」


 裕子が、風の音に負けない声を出した。


 「スリッパは帰れ!」


 「違う、これは滑り止めに使えるかと」


 「滑り止めで滑る形をしてるでしょ!」


 壮翔は反論しようとして、物置の戸へ手をかけた。


 その瞬間、背後から伸びた腕が、壮翔の襟首をつかんだ。


 信清だった。


 いつ来たのか、祐には分からなかった。雨合羽の上からでも分かるほど、肩には潮と風を受けた重さがある。顔は濡れていない。けれど、目だけが海の方と同じ色をしていた。


 「開けるな」


 低い声だった。


 壮翔の手が、戸の取っ手の前で止まる。


 「でも、中の紙が」


 「戸を開けた瞬間、風が入る。中の軽いものが飛ぶ。お前も一緒に転ぶ」


 「俺は転びませんよ」


 信清は、壮翔の襟首を持ったまま、横へ一歩ずらした。


 その直後、待合所の角を回り込んだ強い風が、物置の戸を外から叩いた。戸板が内側へ鳴り、壮翔の持っていたビニール袋がばさりと膨らんだ。


 壮翔の顔から、冗談の色が少し抜ける。


 信清は手を離さなかった。


 「命に代えるな。命をここに置いていくな。紙は乾かせる。人は、風に持っていかれたら戻らん」


 壮翔は口を開けたまま、何も言わなかった。


 文香が物置の脇にしゃがみ、地面を見た。板壁の下から、細い水の跡が伸びている。雨はまだ降っていないのに、屋根の上で結露した水か、どこかの雨樋に残った水が伝ってきているらしい。


 「中、下から湿ってる」


 文香が言う。


 祐は周囲を見た。風は強まり始めているが、雨はまだ本降りではない。今なら、短時間で動ける。ただし、開け方を間違えれば中身が散る。


 「信清さん、戸を開けられる時間は?」


 「一回三十秒。開ける人間は一人。受け取る人間は風下へ立つな。軽い紙は箱ごと押さえろ。無理ならやめる」


 裕子がすぐに鞄からメモを出した。


 「取るものを先に決める。名札の写しの箱。白い紙札の古い分。修繕表の控え。椅子脚とか板とかは後回し」


 「宿のスリッパは?」


 「燃やす」


 「裕子さん、宿の備品です」


 「じゃあ置いて帰る」


 明純が、苦笑いをこらえながら白い紙札の束を自分の鞄へ押し込んだ。愛衣子は防水袋を広げ、番号を書いた紙を外側に貼る。文香は名札棚から持ってきた薄い布を、物置の前の地面に敷いた。


 祐は鍵を差し込む前に、全員の位置を確認した。


 信清は戸の横。


 祐は鍵。


 文香は受け取った箱の濡れを見分ける。


 裕子は必要な箱だけを指示する。


 愛衣子は防水袋へ入れる。


 明純は濡れない場所へ運ぶ。


 壮翔は――。


 「壮翔さんは、待合所の入口に乾いた毛布を敷いて。濡れたものを仮置きする場所がいる」


 壮翔が、信清から解放された襟元を直しながら、祐を見た。


 「俺、開ける係じゃなくて?」


 「入口を整える係」


 「それ、地味じゃない?」


 文香が、壮翔を見上げずに言った。


 「必要」


 その一言で、壮翔は黙った。


 そして、雨合羽をきちんと着直した。


 「……毛布、宿から持ってくる」


 「走らないで」


 裕子が言うと、壮翔は片手を上げた。


 「早歩きで、この命に代えても」


 「代えるなって言われたばかりでしょ!」


 明純が吹き出し、愛衣子が防水袋の口を押さえながら肩を震わせた。信清は笑わなかったが、襟首をつかんでいた手を自分の腰へ戻した。


 祐は鍵を回す。


 一度目。


 戸を少しだけ開けると、湿った木の匂いが押し出されてきた。裕子が即座に指を差す。


 「右の棚、上から二段目。青い箱」


 祐は腕を伸ばした。紙の束が入った箱は思ったより重い。底が少し湿っている。文香が受け取り、すぐに布の上へ置いた。


 「底だけ。中は平気」


 愛衣子が防水袋へ入れ、明純が待合所へ運ぶ。


 信清が戸を押さえたまま、短く言った。


 「閉める」


 戸が閉まる。風が板を叩く。祐は息を吐いた。


 二度目。


 白い紙札の古い束は、軽かった。戸を開けた瞬間、上にかけていた紙が一枚浮き上がり、外へ飛びそうになる。


 文香の手が先に出た。


 指先が紙の角を押さえ、布の上へ逃がす。祐は箱を引き出し、裕子がふたを閉める。愛衣子が袋へ入れる。明純が受け取る。


 戸を閉めると、空の向こうで、遠く雷が鳴った。


 まだ近くはない。けれど、雲の低さが変わった。


 信清が海を見た。


 「次で終わり」


 「修繕表の控え」


 裕子の声が硬くなる。


 「あれがないと、十月分の説明が飛ぶ」


 「場所は?」


 「左奥、茶色い封筒。紐でくくったやつ」


 祐は頷いた。


 三度目。


 戸を開ける。


 風が、さっきより強かった。


 左奥の棚は暗い。茶色い封筒は見えたが、手前に古い掲示板の枠が立てかけてある。祐は腕を入れ、枠を動かそうとした。


 その時、戸板が外から大きく鳴った。


 信清が踏ん張る。


 「祐、やめろ」


 「あと少しです」


 「やめろ」


 同じ声だった。


 けれど、二度目の方が低かった。


 祐は手を止めた。


 茶色い封筒は、手の届く少し先にある。濡れているかどうかは分からない。取れそうに見える。指先を伸ばせば、紐に触れられるかもしれない。


 その時、文香が祐の袖をつかんだ。


 「閉めて」


 祐は封筒から目を離した。


 戸を閉める。


 信清が戸板に横木を差し、風に押されても開かないよう固定した。


 祐の手には何もなかった。


 裕子が茶色い封筒の方を見て、息を吸う。言いたいことがあるのは、顔を見れば分かった。あの控えは必要だ。夜中に作った、修繕表の裏付けになる紙だった。


 けれど、裕子は言わなかった。


 代わりに、鞄から予備のノートを取り出した。


 「覚えてる範囲で、今夜もう一回作る」


 「私、写真を何枚か撮ってます」


 愛衣子が言った。


 「あの徹夜の時の机、記録用に撮りました。文字、全部は読めないと思いますけど」


 裕子が愛衣子を見た。


 「今、何か言いかけた?」


 「言ってません」


 「顔に書いてある」


 明純が防水袋を抱えたまま、横から口を出した。


 「俺も、壮翔さんが蜜柑の皮を鼻に詰めてる写真ならあります」


 「それは消して」


 「修繕表の端が写ってます」


 「保存して」


 緊張で固まりかけた空気が、少しほどけた。


 その時、壮翔が戻ってきた。


 宿の大きな毛布を二枚、肩に担いでいる。防水袋も持っている。さらに、靴乾燥機らしきものまで抱えていた。


 「毛布、袋、靴を乾かすやつ。あと、お客様用の足拭きマット。宿の玄関がすっからかんになった」


 裕子が目を細める。


 「宿のお客さんは?」


 「全員に説明して、余ってるバスタオルを渡した。あと、惣菜屋のおばちゃんが『あんたの宿より港を先にしな』ってマットを二枚くれた」


 壮翔はそこで、祐たちの手元を見た。


 「茶色い封筒は?」


 「取らなかった」


 祐が言った。


 「信清さんの判断で、そこで終わりにした」


 壮翔は物置を見た。


 雨が降り始めた。


 一粒目が、祐の手の甲に当たる。次の瞬間、待っていたように粒が増えた。風に斜めに流され、物置の戸を、待合所の壁を、港の石畳を叩く。


 壮翔はしばらく黙っていた。


 それから、肩に担いでいた毛布を、待合所の入口へ広げた。


 「じゃあ、濡れた箱はここ。人の靴はこっち。防水袋は文香さんの机の下。祐、入口の段差に雑巾。明純、来た人が滑らないように声。愛衣子、何が濡れたか紙に書いて。裕子さん、怒るのは乾いてからにしてください」


 裕子は、すぐには返事をしなかった。


 雨音が大きくなる。


 文香が青い箱を抱え、待合所の中へ入った。名札棚の前ではなく、受付机の上に置く。ふたを開け、中の写しを一枚ずつ確かめる。紙は無事だった。端が少し波打っているものはあるが、インクは流れていない。


 愛衣子が濡れ具合を記録する。


 「青い箱、底に湿り。中身は無事。白い紙札、外側三枚だけ湿り。公開しない古い分は無事。修繕表控え、未回収。明日以降確認」


 「明日以降、天候回復後に確認」


 裕子が言い直す。


 愛衣子は「天候回復後」と書き足した。


 明純は入口で、雨宿りに寄りかけた観光客へ声をかけていた。


 「今日は待合所、開放してません。交通案内所の方へお願いします。すみません、ここは安全確認の作業中です。足元、滑ります。ゆっくりで」


 以前の明純なら、明るい声で中へ招いていたかもしれない。今は違う。彼は笑顔のまま、入れない理由を言い、次に行く場所を示した。


 信清は入口の外で、海を見ていた。


 雨合羽のフードをかぶっていても、首筋に雨が伝っている。祐は閉鎖札を入口の中央にかけた。


 淡名渡船待合所 本日は荒天のため閉鎖します。


 名札棚、白い紙札、標本箱の見学はできません。


 交通案内は尾路町交通案内所で行います。


 裕子が隣に立ち、札の角を押さえた。


 「文字、見える?」


 「見える」


 「ならいい」


 文香が、濡れた白い紙札を三枚、布の上に並べた。そこに書かれていた行き先は、どれも海の向こうではなかった。


 また来る。


 母と来たい。


 名前は書かないけど、覚えてる。


 文香は三枚を見つめ、それから新しい乾いた紙に同じ文面を書き写した。濡れた紙は非公開箱ではなく、乾燥用の箱へ入れる。


 「名前、ない」


 そう言って、文香は裕子を見る。


 裕子は頷いた。


 「書き写し可。原紙は乾燥後、一定期間保管。板には写しを戻す。……でいい?」


 「いい」


 祐は二人のやり取りを見ながら、記録簿へ今日の閉鎖時刻を書いた。


 午後四時。


 荒天予想により閉鎖。


 裏物置に雨漏りの兆候あり。


 資料一部回収。


 未回収資料あり。


 人身被害なし。


 最後の一行を書いた時、手が止まった。


 人身被害なし。


 当たり前のようで、当たり前ではなかった。


 夏の説明会で、誰かが「小さな待合所にそこまでの規則が必要か」と言った。祐自身も、どこかで、紙の上の手順だと思っていた。けれど今日、信清が壮翔の襟首をつかまなければ、祐が茶色い封筒へ手を伸ばし続けていれば、この一行は書けなかったかもしれない。


 壮翔は入口で、濡れた靴を並べていた。


 靴乾燥機は、電源を入れる前に裕子から「水気を拭いてから」と止められ、今はただの大きな箱として置かれている。壮翔は文句を言いながらも、宿から持ってきたタオルで、一足ずつ靴底を拭いていた。


 文香が、彼の前にしゃがんだ。


 そして、乾いたタオルを一枚差し出す。


 「これ、よく吸う」


 「潮紙堂の?」


 「古い晒」


 「借りていい?」


 「返して。洗って」


 「この命に代えても」


 壮翔が言いかけたところで、信清が振り返った。


 壮翔はすぐに言い直した。


 「……このタオルに代えても、洗って返します」


 「意味が分からない」


 裕子の声に、待合所の中で小さな笑いが起きた。


 雨は本降りになった。


 渡船はその後、午後五時過ぎの便から欠航になった。交通案内所には、島へ戻れない人、駅へ急ぐ旅人、宿を探す家族が次々に来た。祐は案内所へ戻り、進祐へ状況を伝えた。進祐は電話口で、いつものように余計な慰めを言わず、確認だけを重ねた。


 「閉鎖時刻は」


 「午後四時です」


 「閉鎖札は」


 「掲示済み。入口に固定」


 「資料は」


 「一部回収。未回収あり。ただし、危険があったため作業中止」


 「それでいい」


 祐は受話器を握ったまま、少し黙った。


 進祐の声は続いた。


 「紙を守るために人を危なくしたら、来月の資料に書けない。中止したことも記録しておいて」


 「はい」


 「それと、壮翔さんを走らせないように」


 「少し手遅れでした」


 「怪我は」


 「ありません」


 「ならいい」


 電話が切れた。


 祐は記録簿へ、進祐から言われた通り、「危険予測により作業中止」と書き足した。


 夜、雨はさらに強くなった。


 待合所は閉まったままだった。灯りもつけていない。けれど、案内所の窓から港の方を見ると、閉鎖札の白だけが、街灯に薄く浮かんでいるのが見えた。


 文香は潮紙堂へ戻らず、案内所の奥で濡れた紙札を乾かしていた。裕子がストーブを出そうとして、まだ九月だからとやめ、代わりに扇風機を弱く回す。愛衣子は写真から修繕表の控えを復元し、明純は宿へ行けない旅人のために、縁側寝床の空き部屋と近くの民宿へ電話をかけていた。


 壮翔は、案内所の入口で靴を並べている。


 最初は宿から持ってきた毛布に資料を置くためだった。それがいつの間にか、雨宿りに入ってきた人の足元を拭く係になっていた。濡れた靴を脱いだ人にはタオルを渡し、濡れた傘には番号札を結び、子どもには「靴下の替え、宿にあるかも」と声をかける。


 大げさな言葉は、もう言わなかった。


 その代わり、彼は何度もしゃがんだ。


 濡れた靴をそろえ、玄関の段差に滑り止めのマットを敷き、傘立てが倒れないよう壁へ寄せる。


 裕子がその姿を見て、ぼそりと言った。


 「命より腰を大事にした方がいいわね」


 壮翔は膝に手を当てて立ち上がる。


 「今、腰に来てます」


 「でしょうね」


 文香が、乾いた紙札を一枚、クリップへ挟んだ。


 「座って」


 「俺?」


 「うん」


 壮翔は素直に椅子へ座った。座った途端に、濡れたズボンの裾から水が床へ落ちる。裕子が無言で雑巾を投げ、壮翔はそれを受け取って床を拭いた。


 祐は、その様子を記録に書かなかった。


 けれど、覚えておこうと思った。


 誰かのために命を賭けると叫ぶより、濡れた靴の置き場を作る方が、今夜はずっと役に立っている。


 翌朝、雨はやんだ。


 港の空は洗われたように明るかったが、海にはまだ細かい白波が残っていた。信清は朝の便の前に待合所へ来て、物置の横木を外した。祐、裕子、文香、愛衣子、明純、壮翔も集まる。


 戸を開けると、湿った木の匂いが出てきた。


 左奥の茶色い封筒は、無事だった。


 棚の奥へ引っかかっていたため、下からの湿気を避けていたらしい。祐が取り出し、文香が紙の端を確認する。裕子は中の修繕表を一枚ずつ広げ、ほっとしたように息を吐いた。


 「よかった」


 その声は、いつもの裕子より少し小さかった。


 壮翔が胸を張る。


 「ほら、俺が昨日取ろうとしたおかげで無事だった」


 「取らなかったから無事だったの」


 裕子が即座に返す。


 信清は物置の屋根を見上げた。


 「雨漏りはここじゃない。横から吹き込んだ。次は防水袋に入れて、紙は床に置かない。棚も少し上げる」


 祐はメモを取る。


 愛衣子も同じように書いた。


 明純は、入口の段差を見て言う。


 「マット、昨日のまま置いといた方がいいですね。雨の日、滑りにくい」


 壮翔が頷いた。


 「あと、靴を乾かす場所も作る。待合所の隅に、濡れた靴用の板を置こう。旅の第一印象って、足元からだから」


 祐は思わず壮翔を見た。


 「それ、最初の日に僕が言った言葉に似てます」


 「真似じゃない。発展」


 「便利な言い方ね」


 裕子が言うと、壮翔は笑った。


 文香は待合所の入口にしゃがみ、昨日の雨で濡れた敷居を布で拭いていた。短い指先の動きで、木目に残った砂を取り除く。ふと、顔を上げて壮翔を見た。


 「毛布、助かった」


 壮翔の笑いが止まった。


 たったそれだけの言葉だった。


 けれど彼は、少し困ったように目をそらし、耳の後ろをかいた。


 「宿の毛布、ちょっと潮の匂いになったけど」


 「洗う」


 「文香さんが?」


 「壮翔さんが」


 「ですよね」


 また、小さな笑いが起きた。


 祐は閉鎖札を外し、今日の開放時間を確かめた。海はまだ荒れている。信清が潮を見て、午前中は閉めたままがいいと言った。祐は頷き、開放ではなく、午前中の安全確認と掲示変更だけを行うことにした。


 残すために、閉める。


 昨日までは紙に書いた言葉だった。


 今朝は、入口の濡れた木と、靴を置く板と、無事だった茶色い封筒と、壮翔の少し痛そうな腰に、その意味が残っていた。


 祐は記録簿の新しい頁に、昨日の項目を清書した。


 閉鎖判断、適切。


 資料回収、一部実施。


 危険予測により作業中止。


 翌朝確認、未回収資料無事。


 改善点、防水袋常備、棚位置の変更、濡れた靴の仮置き、入口の滑り止め。


 最後に、少し迷ってから、一行だけ足した。


 命に代えない手順を、全員で守る。


 裕子が横から覗き込んだ。


 「それ、正式な記録?」


 「正式に入れたら怒られますか」


 「怒らない。……でも、主語を入れて」


 「主語?」


 「誰が守るのか、曖昧だと逃げ道になる」


 祐は頷き、書き直した。


 待合所に関わる全員が、命に代えない手順を守る。


 文香がそれを見て、小さく頷いた。


 壮翔は腰に手を当てたまま、入口の外で靴用の板を置く位置を測っている。


 「ここ、濡れた靴置き場。こっちは乾いた靴。人間は真ん中。俺は端」


 裕子が窓から言った。


 「端に行かなくていいから、板の角を丸めて」


 「この命に代えても丸めます」


 信清が、海の方を見たまま言う。


 「腰を代えろ」


 壮翔はしばらく考えた。


 「それは代えたい」


 明純が笑い、愛衣子がメモに「板の角を丸める」と書き足した。文香は敷居を拭き終え、乾いた布を畳む。祐は記録簿を閉じ、名札棚の鍵を確かめた。


 雨上がりの風が、待合所の中を通り抜ける。


 団扇の柄が、かたり、と鳴った。


 昨日、開けなかったから、今朝ここにあるものがある。


 昨日、飛び出さなかったから、今日笑える人がいる。


 祐は入口の閉鎖札を、もう一度見た。使い古した紙の端に、文香が貼った淡い布が濡れずに残っている。


 残す場所には、開ける日だけでなく、閉める日の顔もいる。


 壮翔が板を抱え、待合所の隅へ運んだ。厚かましく、入口の一番目立つ場所に置こうとして、裕子に止められる。文香が無言で少し右を指し、信清が「そこなら風が抜ける」と言う。明純が案内の言葉を考え、愛衣子が手順に書き込む。


 祐は、その全員の声を聞きながら、朝の海を見た。


 白波はまだ残っている。


 けれど、港の空は明るい。


 淡名渡船待合所は、今日はまだ開かない。


 それでも、ここを守る人たちは、もう集まっている。



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