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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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第28話 淡名島の床板

 淡名島の朝は、尾路町よりも一拍遅れて目を覚ます。


 港の小屋に掛けられた浮き球は、潮を吸った紐を重たげに垂らし、蜜柑畑へ上がる細い道には、昨日の夕方に落ちた葉がまだ濡れたまま貼りついていた。七月下旬の光はもう十分に強く、白い壁に反射した日差しが、まぶたの裏まで押し込んでくる。


 祐は工具箱を両手で抱え、淡名渡船待合所の前で足を止めた。


 古い木戸は、前日のうちに文香が油を差したおかげで、以前より少しだけ素直に動く。けれど、戸口の下に渡した板は、体重をかけると低く鳴った。ぎい、と鳴ったあと、遅れて、みしり、と沈む。


 「ここ、番号四番」


 祐は膝をつき、養生テープに油性ペンで数字を書いた。四番。危険度は赤。靴のつま先で板の端を軽く押すと、隙間から湿った土の匂いが上がってくる。


 「四番じゃ済まん」


 背後で信清が言った。麦わら帽子のつばを指で押し上げ、床を一枚ずつ見下ろしている。彼は工具を持っていない。手にしているのは、細い竹の棒と、潮位を書いた小さな手帳だった。


 「入口から名札棚まで、踏む順に十三か所。目で見て大丈夫でも、端が浮いとる板がある。年寄りは真ん中を踏まんことがあるけぇの。荷物を避けて、端へ足を置く」


 祐はうなずき、図面の余白に赤い丸を増やした。


 仮開放は八月中旬から始まる。朝七時から十時まで。三時間だけ。けれど、その三時間で誰かが転べば、三か月の約束はその日に終わる。


 待合所の中では、壮翔が長椅子を持ち上げようとしていた。


 「こいつを外へ出せば、床が全部見える。持ち上げるぞ。せーの」


 「まだ誰も持ってない!」


 裕子の声が、戸口のほうまで飛んだ。


 壮翔は長椅子の片側を抱えたまま、反対側を見た。そこには誰もいない。椅子は斜めに傾き、脚の一本が床板の継ぎ目に引っかかっている。


 「あれ。気持ちだけで反対側が浮く予定だったんだけど」


 「予定に人間を配置してから言って」


 裕子は作業表を脇に挟み、椅子の反対側へ回った。彼女の足元にも、赤い養生テープが貼られている。踏まないように大股で歩くため、いつもより動きがぎこちない。


 「祐、椅子移動。写真。番号。誰が持ったかも書いて。あと、壮翔さんが一人で持ち上げようとした欄を新設」


 「それ、必要?」


 「再発防止」


 壮翔は椅子を抱えたまま、少しだけ胸を張った。


 「俺の行動が正式な手順を増やす。すごいだろ」


 「迷惑の別名をつけないで」


 文香が、窓際でくすりともせずに紙片を押さえていた。けれど祐は、彼女の肩がほんのわずか揺れたのを見た。


 文香の前には、床板から外れた細い木片が並んでいる。水を吸って黒くなったもの、日焼けして飴色になったもの、虫に食われて中が空洞になったもの。彼女は一本ずつ指で撫で、残せる部分と、替えなければならない部分を分けていた。


 「全部替えたほうが早いですよ」


 戸口から声がした。


 島の大工、春本が腰道具を鳴らしながら入ってきた。日焼けした額に汗が浮き、首に掛けたタオルはすでに湿っている。春本は待合所の床をぐるりと見渡し、鼻から短く息を出した。


 「古い板を残したい気持ちは分かりますけどね。人が歩く場所です。傷んだところだけ替えると、今度は残した板との段差が出る。見た目が良くても、足先が引っかかる」


 壮翔がすぐに口を挟んだ。


 「でも、全部替えたら、この待合所の床じゃなくなるだろ。新築の床で昔を語るの、なんか違うじゃないか」


 春本は壮翔を見て、まっすぐな顔で言った。


 「転んだ人の膝のほうが、違うことになります」


 壮翔は口を閉じた。反論の代わりに、長椅子をゆっくり下ろす。裕子がその動きを確認し、作業表に「椅子移動完了」と書き込んだ。


 祐は図面を持って、文香のそばへ行った。


 「文香さん、残せる板と替える板、分けられそう?」


 文香は木片を見たまま、短く答えた。


 「分ける」


 「どこで?」


 「歩くところは替える。触るところは残す」


 祐はペンを止めた。


 文香は、名札を直す時と同じように、板の端を親指で押さえている。古い紙を全部新しい紙に替えれば、破れは消える。けれど、それでは、その紙が誰の手で何度開かれたかまで消えてしまう。文香はいつも、読む人の指が触れるところを見てから、残す繊維を決めていた。


 「入口と通路、名札棚の前は新しい板。長椅子の下と壁ぎわは、使える板を残す。番号を振って戻す」


 文香はそう言い、床板の端に小さく鉛筆で印をつけた。


 春本は眉を上げた。


 「手間が増えますよ」


 「増える」


 「予算も、少し増えます」


 「削るところ、探す」


 裕子が作業表から顔を上げた。


 「削るなら、壮翔さんの謎の装飾棚から」


 「謎じゃない。旅人の心をふわっと受け止める棚だ」


 「棚は心を受け止めない。荷物も落ちる」


 春本が吹き出した。短い笑いが、埃っぽい待合所の天井へ当たって、すぐに消えた。


 祐は図面に線を引いた。入口から名札棚までを新材。長椅子下は旧材を補強。壁ぎわの飴色の板は、削って、釘を打ち直し、段差をなくす。床下の湿気対策として、風の抜ける隙間を確保する。


 信清が竹の棒で床下を軽く突いた。


 「ここ、潮が高い日には湿気が上がる。雨の後は開けっぱなしにして乾かす時間がいる。閉め切ったら、また腐る」


 「乾燥時間、当番表に入れます」


 祐が答えると、裕子がすぐに横から言った。


 「朝の開放後、十時から十一時まで窓開け確認。担当名と気温、湿度。床の濡れ有無。記録欄を増やす」


 「欄が増えるたびに、紙が厚くなるね」


 「厚い紙は人を守る」


 裕子はそう言い切り、赤いペンで線を引いた。


 午前十時を過ぎると、手伝いの子どもたちが島の坂道から下りてきた。明純が先頭で、片手に軍手の束、もう片手に麦茶の入った大きな水筒を抱えている。後ろには中学生が三人、小学生が二人。誰もが、何か役に立てると思っている顔をしていた。


 「来たよー! 淡名島床板守り隊!」


 「その名前、今すぐ取り下げて」


 裕子の声に、子どもたちが笑った。


 愛衣子はすぐに前へ出て、ホワイトボードを立てた。そこには、大きな字で今日の役割が書かれている。


 釘拾い。


 古い板の番号札づくり。


 麦茶配り。


 作業場所へ入らない見張り。


 小学生の一人が、口をとがらせた。


 「釘、打っちゃだめなん?」


 「打たない。拾う」


 愛衣子はしゃがんで目線を合わせた。


 「古い釘を踏むと、誰かの足に刺さる。だから拾う人が一番先に人を守る」


 子どもは少し考え、空き缶を受け取った。


 「じゃあ、いっぱい守る」


 明純が横で拍手をしようとして、裕子ににらまれ、手を途中で止めた。


 「拍手で埃を舞わせない」


 「今日は俺、静かな拍手を覚える日だな」


 明純は指先だけをそっと合わせた。子どもたちはそれを真似し、ぱちぱちというより、紙を重ねるような小さな音が待合所に広がった。


 春本が丸鋸を持ち込む前に、子どもたちは外へ移動した。危ない道具が動く間は、窓の外で番号札を書く。愛衣子は番号札の紙を配りながら、一枚ごとに「板の場所」と「戻す場所」を確認している。


 以前の彼女なら、もっと早く、もっと多くの人を動かそうとしたかもしれない。今は、子ども一人の手元まで見て、無理な役割を渡さない。


 祐はその様子を見て、名札返却の記録とは別に、待合所作業記録の一ページへ「子ども参加時の役割分担」と書いた。


 床板が一枚外された。


 湿った木の匂いが、一気に濃くなる。春本が板を立てかけると、その下から小さなものが転がった。


 からん、と乾いた音がした。


 文香が最初に動いた。床に膝をつき、指先でそれを拾い上げる。


 小さな貝ボタンだった。


 白というより、少し黄色みを帯びた、古い紙に近い色をしている。穴は四つ。端が欠けていて、糸の跡がわずかに残っていた。


 文香は息を止めたまま、そのボタンを掌に置いた。


 祐は、潮紙堂の奥で見た裁縫箱を思い出した。ベージュの封筒と一緒に置かれていた、古い針山。糸巻き。予備のボタン。その中に、これとよく似た貝ボタンがあった。


 「八重さんの?」


 祐は小さく聞いた。


 文香はすぐには答えなかった。掌を閉じるでもなく、見せるでもなく、ただボタンを光に当てている。窓から入った日差しが、貝の表面に薄い虹を浮かべた。


 信清が床下をのぞき込んだ。


 「裁縫箱から落ちたんかもしれんの。ここは昔、名札台があったあたりじゃ」


 春本が釘抜きを置き、埃を払った。


 「床下に落ちたら、よほどのことがない限り出てきません。今日開けんかったら、このままでしたね」


 壮翔が何か言いかけた。感動を大げさな言葉に変えようとした口の形だった。けれど、裕子が横目で見ただけで、彼は黙って軍手を直した。


 文香は、ゆっくり立ち上がった。


 「持って帰らない」


 声は小さかったが、待合所の中にいる全員に届いた。


 祐は、記録簿を開いた。


 「保管場所、どうする?」


 「棚」


 文香は名札棚の下を指した。


 「名札と一緒じゃない。床のものだから、床の記録と一緒」


 裕子がすぐに紙箱を探し、愛衣子が外から小さな空き箱を持ってきた。もともとは蜜柑を一つ入れるための箱で、薄い木でできている。文香はその内側に柔らかな紙を敷き、貝ボタンを置いた。


 箱の蓋には、祐が鉛筆で書いた。


 床下より発見。貝ボタン一個。発見日。発見場所。保管希望、淡名渡船待合所。


 文香はその文字を見て、ほんの少し首を振った。


 「希望じゃない」


 「じゃあ?」


 「保管先」


 祐は「希望」を消し、「保管先」と書き直した。


 文香はうなずいた。


 母のものかもしれない。母のものではないかもしれない。確かめようのない小さなボタンを、母の記憶として持ち帰ることもできた。けれど文香は、それを待合所に残した。


 ここで落ちたものなら、ここで預かる。


 その選び方は、名札を返す時に千代が言った「残す返し方」とよく似ていた。


 昼近く、作業は一度止まった。


 日差しが強くなり、トタン屋根が熱を持ち始めている。祐は温度計を見て、作業表に休憩を入れた。熱放射の数字を知ってから、無理をすることを誰も褒めなくなった。


 壮翔は長椅子の代わりに外の木箱へ座り、麦茶を一気に飲んだ。


 「床板ってさ、直すと、歩いていい場所が増えるんだな」


 裕子が水筒の蓋を閉めながら言った。


 「当たり前でしょう」


 「いや、俺、古い床を守るって、昔のままにすることだと思ってた」


 壮翔は、待合所の開いた戸口を見た。中では春本が新しい板を仮置きし、文香が古い板の番号を確認している。新しい木の白さと、古い木の飴色が、まだ馴染まずに並んでいた。


 「でも、歩けない床を残しても、誰も座りに来られないんだな」


 信清が麦茶を口に含み、ゆっくり飲み込んだ。


 「船も同じじゃ。古いロープを大事にしても、切れるなら替える。けど、結び方は残す」


 祐はその言葉を記録簿の端に書いた。


 古いロープを替えても、結び方は残す。


 文香がその文字を横から見ていた。何も言わない。ただ、鉛筆の先で「結び方」のところに小さな丸をつけた。


 午後、長椅子の下にあった飴色の板を外す時、春本が慎重に釘を抜いた。木目は曲がっていて、表面にはいくつもの傷がある。子どもの靴でついた細い線。荷物を引きずった跡。誰かが退屈しのぎに椅子の脚でこすったような浅いへこみ。


 壮翔が覗き込み、笑った。


 「この傷、誰かがここでめちゃくちゃ暇だった証拠だな」


 明純がすかさず言った。


 「待つ場所だからね。暇も置いてある」


 「お、いいこと言うじゃん」


 「今の、案内文に使える?」


 裕子が即座に首を横に振った。


 「案内文には使わない。調子に乗るから」


 子どもたちがまた、静かな拍手をした。


 その午後、待合所の床は、半分だけ新しくなった。入口から名札棚までは、白い木がまっすぐ通っている。長椅子の下と壁ぎわには、削られ、釘を打ち直された古い板が戻った。色はばらばらで、継ぎ目も見える。けれど春本が段差を丁寧に削ったため、足を滑らせても引っかからない。


 祐は靴を脱ぎ、靴下のままゆっくり歩いた。入口から名札棚へ。名札棚から長椅子へ。長椅子から窓辺へ。足裏に伝わる木の感触が、場所によって少しずつ違う。


 新しい板はさらりとしている。


 古い板は、少しだけ柔らかい。


 文香も靴を脱いだ。彼女は名札棚の前に立ち、床を一歩踏んだ。ぎい、という音はしない。沈み込みもない。


 「歩ける」


 それだけ言って、文香は棚の下の小さな箱を見た。


 貝ボタンの箱は、まだ蓋を閉められていない。中に敷いた紙の上で、ボタンが静かに光っている。


 祐は記録簿へ、今日最後の一行を書いた。


 床板補修、一日目。入口から名札棚まで新材へ交換。長椅子下と壁ぎわの旧材は補強して再使用。床下から貝ボタン一個を発見し、淡名渡船待合所に保管。


 書き終えたところで、外から淡名島の夕方の風が入ってきた。


 日中の熱を含んだ風だったが、床を抜けると少しだけ軽くなった。新しい板の匂いと、古い木の匂いと、海の匂いが混じる。


 壮翔が長椅子に座ろうとして、裕子に止められた。


 「まだ乾燥確認が終わってない」


 「座り心地を確かめる重要任務が」


 「明日」


 「明日まで命をつなぐ」


 「大げさ」


 文香が、名札棚の鍵をかけた。続いて、貝ボタンの箱にも細い紐をかける。鍵ではない。ほどこうと思えばほどける結び方だった。


 祐はその結び目を見て、信清の言葉を思い出した。


 替えるものがある。


 残すものがある。


 そして、結び方だけが、次の手へ渡ることもある。


 淡名渡船待合所は、昨日と同じ建物ではなくなった。けれど、別の場所になったわけでもない。


 歩ける床になった。


 誰かが名札棚の前まで行き、自分の名前を見つけ、戻ってくることができる床になった。


 夕方の船の汽笛が、港の向こうで短く鳴った。


 文香はその音を聞きながら、足元の古い板と新しい板を見比べた。


 「残った」


 誰に言うでもなく、そうつぶやいた。


 祐は返事をしなかった。


 ただ、記録簿を閉じる前に、もう一行だけ書き足した。


 残すために、替えた。



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