愛しているから、ヒニンして。(3)
蓮花は、自らを、仏法者と名乗ることがある。
彼女は、縁や業、そして、愛に苦しむ人を、救ってきたからだ。
だが、言葉どおりに仏教の教えで救ってきたわけではない。
ただその救うプロセスを経て、彼女自身、仏の教えの奥深さに強く共感していた。だから、彼女は、仏法者なのである。
「アヤノさん、お久しぶりです。あれ以来、お加減は大丈夫ですか?」
「はい、すっかり」
「アヤノさんは、すぐにいらっしゃったので、ほとんど処置は必要ありませんでしたものね。時に、手遅れに近くなってから来る人もいますから」
「そのことなんです」
蓮花の言葉を受け、アヤノは本題を切り出す。
「……友人なんです。避認をしてない。ずっと。あまり変わりないから、そんな人もいるんだな、って思ってたんですが、少し様子がおかしい気がして」
「具体的には?」
「……ちょっと恥ずかしい話なんですが、避認をしないほうが気持ちいい、なんてことを言いだして」
それまで、ユウナがそんなことを言うことはなかった。はずだ。
「そうですか。それだけで判断は難しいですが……この『寺』に来てもらえそうですか?」
「悩んではいますが、そこまで深刻だと本人は思ってなくて」
そうですか、と、蓮花は、顎に手をやる。
「それは、間違いなく『愛』、ですね」
はあ、と、アヤノは間の抜けた返事をした。
二人が愛し合っているのは当然だと思っていたから。
「……勘違いしてらっしゃる。本来、『愛』とは、悪いものです。相手を縛り自らを縛るものです。人に何かを強要し平穏を侵すものです」
「でも愛し合うから子供だって生まれる」
「そういう愛では、ありません。そうですね、確かに、仏の教えでは、そうした人と人の当たり前の関係、つまり『縁』さえもすべて投げうって愛も業も断ち切る、ということもあります。ですが、そこまでする必要があるのは、真の涅槃を求めるときだけ。ここでいう愛とは、執着。ただの心の粘つき。仏の教えでは、そのように言葉を使っています」
そういえば、教養の何かの単位で、それらしい講義を受けた記憶がある。
「人と人の縁には、必ず、愛や業がついてきます。誰かを想うあまり粘ついて離れない愛。誰かの心や魂を傷つけたことにより背負う業。私は思うのです。BCOの溜めこむ情念とは、こうしたものなのだと。ゆえに、BCOの除去措置とは、縁を断ち、愛や業に苦しめられない、涅槃に向かう道だと」
突然の説法に、アヤノは目を白黒させる。
「……ああ、すみません、アヤノさんには、関係のない話ですね。ですが、もし、一緒に涅槃を目指すのであれば」
「あ、あはは、そうですね、その気になったら」
きっとその気にはならないだろうな、と思いながら、アヤノは、きれいに剃りあげられた蓮花の頭部にちらりと目をやった。
***
湿った粘つきを伴う8ビートのような音、ハヤトのうめくような呼吸、ユウナの切ないため息のような声が、再び部屋を満たしている。
ユウナは、幸福だ。
満たされている、と感じる。
そう思うごとに、彼女の中で、何かが膨らんで、達すべきところへ向けて浮いていくように感じる。
いつも思う。
まるで、飛んでしまいそうだ、と。
何か自分でないものが、とても熱く、宇宙を目指すような浮力を持ったものが、流れ込んでくる。
たどり着く場所は、いつも同じようで、いつも違う。
そのたびごとに、ハヤトへの愛が変容し、深みを増し、レイヤを重ねていく。
その多重の鎧さえ、ハヤトは易々と貫く。ユウナの深い場所に触れる。
ハヤトも、同じように感じている。
ユウナと体を重ねるたび、執着が増していく。
昔、それなりにドライで薄情な男だったこともある。
ドライなりに愛を注いでいたつもりだったが――ユウナに対するそれは、まるで別物のように感じる。
だから、一つになりたかった。
二人を足して三人になるのでは足りない。
何もかも溶け合って一つになりたい。
だから彼は避妊も避認もしたくなかった。
ただの動物的欲求ではない、精神の高み、究極の愛を目指して。
ハヤトの動きが、変わる。
ユウナは、敏感に察する。
――くる。
そう思った時、ユウナの中に、熱く、どろどろしたものが、迸った。
”私は、本気で愛してるのに……どうして彼は感じてくれないの?”
……え?
ユウナのうちに湧く感情に、ユウナ自身が戸惑う。
”無理だよ……もう、無理だよ……ねえ、なんで? どうして?”
なん――なんなの、この気持ち?
”……私の愛が足りない……から? なんでそんなこと言うの? ねえ、こんなに愛してるよ! たくさんたくさん愛してるよ! ねえ、感じてよ!”
一体なに?
私は、ハヤトと何をしてるの!?
”……あ、あはは、な、なんだ、そっか、からかってた、だけ。私を気持ちよくさせたくて。な、なんだ、そうだったんだ、うん、すっごいよかったよ”
”――きっと、そうじゃない。気を使ってそう言ってくれてるだけ。私の愛が足りないから。こんなに愛してるつもりなのに――私って、人を、愛せないんだ”
”――もう、いいや。私の体だけ楽しんでくれてる間は、それでいい。そのあとは……なんだか、もう、いいや。疲れちゃった”
記憶? 感情? 情念?
ユウナの知らないものが、彼女の中で渦巻き、突然、ハヤトの顔が、表情が、見えなくなる。
やがて静かになった部屋で。
「ねえハヤト。こんな時にこんなこと聞くの――嫌かもしれないけど」
ユウナが言うと、ハヤトはおびえたように顔を引きつらせる。
「……昔、どんな人と、付き合ってた?」
その質問を予見していたのか、ハヤトは、小さく顔をしかめた。
「……言いたいことは分かる。昔付き合ってた人は……少し気の強い子で……うん、ちょっといたずら心を出したことがある。僕を愛してるなら、僕を感じさせられるはずだって……軽い気持ちだったんだ……本当に……」
ハヤトは、今日この日まで――ユウナを通して相手の気持ちが逆流してくるまで、それを、知らなかった。
ちょっとした男女の機微、楽しみのスパイスだと思って、忘れていた。
しばらく付き合ったその相手とは、ちょっと仕事が忙しくなった時に疎遠になったきり。
連絡さえつかなくなった。
「ねえ、ハヤト。私、あなたを愛する資格がない」
混濁したユウナ。
彼女はもう、ハヤトの昔の恋人との境界が、溶け始めている。
「僕は君の愛を確かめたかっただけなんだ。いつも強気に僕を見下ろす君は本当に僕を愛してるのか分からなくて」
ハヤトでさえ、ユウナと昔の恋人の境目が、見えなくなり始めている。
「もう無理。ハヤトがそこにいない。そんな人生、もう、無理」
それは一体誰の慟哭だっただろう。
ユウナはいつの間にか涙をこぼしていた。
***




