36
筍が抜けていたので33後半に追加しました。
春は去り夏が訪れる。やがて夏は過ぎ、紫の上の一周忌の頃となる。それさえも過ぎ去りまた秋と成り果てるが、いまだ源氏は出家の支度さえ行わない。季節に合わせて亡き人をしのんだ歌をめそめそと詠むだけだ。
秋さえも過ぎ、時雨の季節が来てもそれは変わらなかった。
かつて紫の上の住んだ六条院春の町の東の対に彼は住む。だからその動向は伝わりやすい。ほどほどに間を置いてこちらを訪れるが、最近はまたこもりがちだ。
明石の女御は内裏に戻り、その母もそれに従った。
装束の世話を引き受けた花散里ともじかに顔を合わせることは少ないようだ。
五節の頃、夕霧が童殿上をした二人の息子たちをつれて現れ、わずかにこの院をにぎわせた。
子どもたちははしゃぎ、薫や匂宮まで加えて駆け回ったが、帰った後はいつもより広く寂しかった。
形だけは六条院は壮麗なままだ。けれど、その端々に荒廃が忍びやかに潜んでいる。
白砂の上にわずかに残された朽ち葉に冷たい月の影が映る。それに見とれていると、珍しく源氏が夜も更けてから渡ってきた。
今宵は中納言と按察使を残して下がらせていた。何らかの予感があったのかもしれない。上質な空薫物もほのかに漂わせていた。
「さむしろに。一人寝の寂しさを知る者が私だけではないと思いたくて参りました」
軽口を叩きながら茵に腰を下ろす。
さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらん宇治の橋姫。古今の歌だ。おまえなど待っていないし、宇治の橋姫のように妬くこともない。
それだけでも不愉快なのに彼は従えた者たちの一人に耳打ちし、すべての者を東の対に戻した。
ここで夜を過ごすつもりなのか。今さら何を考えてそんな暴挙に出るのだ。
「人が少ないようですね。それとも世を離れてからはずっと夜はこのように過ごされているのですか」
「たまたま下がる者が多くて」
「この方がいいですね。普段は何かと喧しい。以前よりはだいぶ抑えられてはいるようですが、こちらの女房たちはいまだ落ち着きのないものが占めているようですね」
尖ったものが胸のうちに生まれる。確かに私の浮薄な蝶たちはよく笑い、楽しみ、遊びごとにも目がない。尼となった者は以前よりも静かだが、それでも身を折って笑い転げることがないとはいえない。
だが、私はそのことを否定しない。世の風は女たちには厳しい。それをわずかに避けることのできるこの場で気ままに振舞うことが悪いことだとは思えない。
「亡き人の教え諭した東の対の者はこちらに長いので、さすがに何ごとも心得ております。よろしかったら幾人かをあちらに預けてみたらいかがでしょう。さして耳目を集めずに落ち着いた雰囲気に染めることができると思います」
胸のうちの棘は私の獣を目覚めさせる。少しもやつれず、少しも衰えずにその獣は身を震わせた。
源氏はそのことの気づかない。ことあるごとに返した言葉にもかかわらず、意志など持たぬ人形めいた私を信じ込んだままだ。
「今は亡き者は何事につけても世にほめられ、心憎く、珍しいほどに行き届く性質でした。その名残をこちらに伝えることができるようでしたら、きっと本望だろうと思います」
「そうは思わないわ」
几帳の合間からのぞく源氏の目をまっすぐに見た。
「あの方はそんなことをお望みにはならない」
男の目が見開かれる。人形が人のように口を聞いたわけだから、その驚きももっともなことだ。
「…………どういうことです」
「言葉通りですわ」
微笑を含んで彼を見つめ続ける。
「あなたの望む紫の上はそのようなお考えをお持ちなのかもしれないけれど、本当のあの方はそうはお思いにならない」
意味を解す以前に、普段とは違う私の態度に戸惑って呆然とこちらに目を向けている。しばらく間を置いて口を開いた。
「あなたが、私よりも彼女を知っていたとは思えませんが」
「他人の方が見えることもありますわ。ましてやあの方はご自分でも自身のことが見えなくなっていらしたから」
「身近な女房が何かのそしりを口にしたのでしょうか。そうだとしたら悲しいことです。対の者は真実心優しく奥ゆかしい人柄でした。あなたのお聞きになったことは、きっと歪められた噂だと思います」
微笑を深める。仏よ、借りておいた不妄語戒(嘘をついてはいけない決まり)を今こそ返そう。
「あなたの知るその方こそ本当に紫の上なの? あなたの作った人形ではなくて?」
「なんということを」
源氏が青ざめる。そして奇怪なものを見るようにこちらを凝視した。
「物の怪にでも憑かれていらっしゃるのか」
「そのようなものに取り憑かれるほど、やわな心は持っておりません」
「いいえ、そうとしか思えない。いつも可憐でおっとりとした宮がこのような言葉を口にするなど、ありえないことです」
「その思い込み自体が表層しか女を見ないあなたの浅慮を表しているわ。私のことをご存じない。そして他の方のこともわかっていらっしゃらない」
「すぐに祈祷の用意を」
「必要ないわ。私は私だから。けれどあの方はそのままのあの人ではない。雀の子を惜しんで駆けてきた少女は失われてしまったから」
「…………なぜ、その話を」
くすりと笑う。怯えにも似た男の表情。
「知らないの? 世は、あなたの軽蔑する女房たちの口でできていることを」
すでにつくろった敬意さえ必要ない。私は素のままの自分に戻ってそこにいた。
「ずいぶんと辛かったと思うわ。もともとは羽を持っていらした方だもの。髪を揺らして駆ける少女を中に閉じ込め、あなたの意にそった夢の女を演じるなんて」
情も才も持たぬ人形だったはずの女が人と化す。誰よりも完全な人であった女を夢と呼ぶ。
悪夢に似たうつつの中で、源氏は少し震える手ではざまに置かれた几帳をのけた。
いぶかしげな源氏に向ける視線さえ、もはや取り繕わない。うつむきがちな女はそこにはいない。
「山の帝の鍾愛の娘の、真の姿をとくとご覧あれ」
変わらず邪気なく見えるはずの笑みのまま、甘い声で囁いた。
「…………あなたは私を恨んでいるのですか」
「いいえ。憎んでいるだけですわ」
「傷つけすぎてしまったことは悔やんでおります。この愛らしいあなたが、他の男の手に落ちたことはあまりに私に辛すぎて……」
「お上手ね。でもそのことは関係ないわ。私は純粋にあなたという存在が大嫌いなだけよ」
あまりのことに動揺を隠しきれない源氏は、片手を私に伸ばしかけた。不愉快そうにそれを袖で払う。世を離れたこの身に触れるな。
拒否に慣れない源氏は、半端な位置で手を止めた。そのまま少し考えている。
その表情が酷薄なものへと変わっていく。薄く形のよい唇に浮かべた笑み。
「それは残念なことですね。私はあなたをいつくしみ、娘よりも大事に育てたはずですが。そのために何ごとも優れた者を傷つけ追い詰め命を縮めることになってまでも」
この男の得意とする手だ。強引に罪を背負わせる。だが私にその手は通じない。責任なんか感じない。
「まあ。それなら最初から断ればよかったのに。父も無理やり押しつけたりはできなかったわ」
「体の調子さえも崩されてお気の毒な院を困らせたくはなかったのです」
「正式に彼女を正妻となさっていたなら声はかからなかったでしょうに。なぜそうして差し上げなかったの?」
言葉に詰まった源氏は、底光りするようなまなざしを私に向ける。
「あなたがいらっしゃるまではほぼそのような位置にいました」
「それに近い位置はその位置ではないわ。婚姻の際にお披露目をするべきだったのにそれを行わなかった。その頃のあなたの正妻、葵の上はすでに亡くなっていたにもかかわらず。父や私の関与することではないわ」
きつい視線で睨みつける彼に、同じ視線を返す。おまえの罪は自分で引き取れ。
「その頃の私が若すぎて配慮が足りなかったことは認めますが」
「そんな一言で片づけられる程度のことなの? あまりにあの方がお気の毒すぎるわ」
「あなたからそのような言葉を聞くことができるとは。年齢を重ねることも悪いことばかりではありませんね」
皮肉な色を込めたその口から漏れる毒。嘲りの提示。
「いつの間にそのようなご自身をお育てになられたのやら。やはり他の男を知る方はそうではない者よりも、世のあり方をお学びになることができるのでしょうか」
「あまたの女を知る方ほどには到りませんけれどね」
鼻先で笑って応えを返す。源氏の目の色がさらに冷たく変わる。
「どうせ身につけるのなら可憐なあなたに不似合いな言葉より、他の者程度の手蹟の向上などいかがでしょう。その方がよほど為になりますよ」
「お気遣い、痛み入ります……中納言」
孫廂に膝をつく彼女がすぐに控える。淡々と命じた。
「硯を」
愛想もなければ無駄もない動きで、文机の上に要するものが並べられる。彼女はいつもどおり何の感情も浮かべていない。
細筆を取り、ためらわずに一息で書いた。才長けて洒落めいて癖のある、しかし見事な手蹟。それは硯箱の蓋に乗せられて源氏のもとに運ばれる。
男の顔色が変わる。
朧月夜の君そのままの字がそこにある。彼女が最後の別れに記した尼舟の和歌。
「…………」
私はかまわず次の紙に向かった。流麗の限りを尽くすがそれを自然と見せる品位と知性。他の追従を許さぬ極みを超えた水茎の跡。六条の御息所の文字。
選んだ歌はもちろん、この男が思い出しもしなかった野の宮の別れの際のもの。
「………………」
嫌悪とも恐怖ともつかない源氏の顔色。私はさらにその色を抜く。
温かな趣のまろやかな文字。私の婚礼の夜に紫の上の書いた、人の心の移りを嘆く歌を選んだ。いまだ乾かぬ墨の色がひどく生々しい。
「これは…………!」
耐えかねて源氏が声を漏らす。
目の前で確かに私が書いた。なのにその優しい風情は、まごう方なき紫の上その人の手蹟だ。
引き入られるように視線をはずせないその男に囁きかけた。
「何なら和琴も弾きましょうか。亡くなった方とそっくりに」
声にならない叫びが源氏の唇にたどり着き、瀬戸際で踏みとどまった。
ぎりぎりと引き絞られる弓のような視線がまっすぐに私に向けられている。
「おまえはいったい何者だ!」
「以前は正妻であった女に無粋な問いね」
「私を偽っていたのか」
「柏殿で唐の后の衣をまとって裳着を行った女を娶ったのはあなたの手抜かりね。かつてはそこに住み、漢学を得意とした大后の正当な裔だわ」
くすくすと笑い言葉を足した。中納言は静かに動き、文机を片づけてまた孫廂に戻る。按察使は源氏が破り捨てた紙をそっと集めて引き下がった。
「そういえば、以前あなたが心を痛めた賀茂の祭りの車争いも、当時の斎院である女三の宮のもとであったのね。縁起の悪い私を手にするなんて、さすがは世に名高い源氏の君ですこと」
予想もつかぬ悪意の表明に彼はこぶしを強く握った。握りこまれた指先が赤い。けれど彼は自分を抑えて声の調子を下げていく。
「私を陥れるためにこんな道を選んだのですか。あなたから、そこまで思っていただいているとは正直気づきませんでしたよ。そのお気持ちは、裏返した愛としか考えられませんね」
年取った獣は老獪だ。自分の陣地に引き込もうとする。けれど私にそんな趣味はない。
「残念ながら単なる悪意ですわ。女の恨みが凝って生霊や死霊となる時もあるけれど、私自身はそんなものにはなれないわ。ただの悪意の顕現、それだけよ」
「悪意が芽生えた経緯はいかがでしょう。人とは違った私の立場や様子に興味をお持ちになったのでは」
「ええ。帝でも摂関家の者でもないのにたいそうな自身がおありだと思いましたわ」
「その自身を支えるほどの才がないと卑下することはできません。後見を持たぬ一介の源氏の身でこの地位まで上がった、いえ戻ることができたわけですから」
源氏もつくろわない。その傲慢さを剥き出しにしてぶつけてくる。
「ご自身にお似合いの位置とは思えないわ」
「ほう。なぜ」
「傷ついた女を人前ではいたわって見せ、人目のない場ではこっそりと嬲る。貴いご身分に似合わぬ大したお人柄だと常々考えていましたわ」
さすがに源氏が赤面する。おびえる女の目ではなく、冴えた理性の目であの時の自分が見つめられていたことに対しては恥を感じるらしい。
「でも、別に驚きはしなかったわ。最初の夜からそうだったもの。内面の軽侮が滲み出ているのにすべて隠しおおせて魅了するおつもりでしたわね。いらっしゃる度ごとに他と比べて見下げ果てる様も面白かったわ。子どものような女に意思があるとはご存じないし」
顔色が更に赤くなる。今度は怒りのためだろう。わずかに漂う空薫物の香に別のにおいが加わるが、それにさえ気づかない。
「そのくせ人目ばかりが気にかかって表面だけを取り繕って、そのあげく自分が何をしたいのか何が大事なのかさえ忘れていらっしゃる。いえ、それも昔からなの? 人に愛されることのみが大事で、そうしてくれない相手は憎むか奪うことにしているの? いえきっと、愛してくれる人に対してもそうね。もしかして、幼少の頃からの美しさもただ身を守る棘なのかしら」
源氏のこぶしが震えている。ちらちらと明かりを揺らす大殿油の火影に映える姿は、いまだ捨てきれぬ生々しいものを抱えた男のものだ。
「求めるばかりでけして自分を与えない。だから皆、疲れて傷ついてそのあげくやっと気づくのね。この男は永遠に自分を満たしてはくれないと。私は違うわ。近くでそれを眺めたかっただけよ」
吐き捨てるように彼はつぶやいた。
「女ごときに何がわかる」
私は薄く笑う。あまたの女を愛する源氏の口からこぼれたありふれたその言葉。ならば私もそのひそみに習って通俗であろう。そのためならば自分の母を貶めることさえ辞さない。
「更衣腹ごときにわかることならわかると思うわ」
呆然と、彼は私を見つめている。源氏をいとおしんだ桐壺帝はもはやいない。彼を父と慕う冷泉帝さえ今はその地位にはいない。ここには生身の男女がいるだけだ。
気を取り直した源氏が冷たい嗤いを浮かべる。
「あなたの母君は確かそんな立場でいらしたはずですよね」
安易に釣られる源氏の浅さ。笑みを深めてそれに答える。
「ええ。そしてあなたの母君は、確か女でいらっしゃいましたわね」
下唇を薄く噛む彼の姿。誘う言葉の罠を避けられなかった。
私たちは互いに獣だ。彼は老練な大きな獣。私は若くしたたかな獣。煌々と照り映える冬の月のもとで牙を交わす。その様を、孫廂に座った無表情な女房二人が黙って見守る。
「感謝していただきたいものだわ。あなたが抱えていた漠然とした不安を、明確な形に変えたことを。あなたは女が怖くて仕方がないのだわ」
「世迷いごとを。それならばなぜ私はあまたの女を手にするのか。女を愛し守るためではないですか」
「私の姉の女一の宮も気づいていたけれど、なぜ後見を持たずあなたを頼るしかない女ばかりを集めるの。六条院も二条院もその東の院も、そんな女ばかりじゃない。ああ、明石の人だけは別ね。でもあの人は子孫を栄えさせるために逆らうことのできない方だわ」
「心外ですね。人を守りたいとの思いをそう邪推されるのは。第一あなた自身はその枠から外れているではありませんか」
「そう。私こそがこの六条院最大の異端。春の町に住みながら秋の野を与えられた女。あなたの恐怖の具現化。閉ざされた夢を破る唯一の存在」
くちなし色に重ねた薄鈍の尼の袿が、夜の闇を溶けさせたかのように不吉に見えることだろう。
源氏の目の色はわずかな恐れと嫌悪で同じように闇を宿している。その闇に、地獄の焔も加えるとしよう。
「そして暮らしでも罪でも縛れぬただ一人の女」
「罪は確かにお持ちのはずだ。他の女たちと違って」
「あなたと共有すべき罪の持ち合わせはありませんわ。私は朧月夜の君でも桐壺帝の御世のあの御方でもないから」
何度も色の変わったその顔が、紙よりも白くなる様を楽しんだ。
「………………まさか」
「そのまさかだわ。退いた尊い方の本当の父が誰か、以前の内裏の夜居の僧の書いた証拠の品もあるわ」
いきり立った源氏は私に詰め寄った。
「よこせ! その文を!」
「意味があるの? それは本当の品だけど、何枚だって作ることができるわ」
「妄執に迷った女のたくらみだと!」
「で、それをこともあろうに自分の正妻であった女が書いたと。誰が信じる? 親王の娘にさえ押されがちであったはかなげな内親王にそんな才があったと」
私を睨みつけていた源氏が気づいた時にはもう遅い。彼の背後にいた按察使が、先刻似せて書いた紙をすべて空薫物といっしょに燃やして処分している。
「残念でしたわね。同じものが二つあることの証明になったのに」
「あなたはいったいなぜ私をそこまで嫌うのですか!」
「女が私を嫌うはずがない、という傲慢さだって理由の一つよ」
「だからといってここまでの事をされるいわれがない」
「私には充分あってよ。そもそもあなたの存在自体が不愉快だわ」
「それは目立たぬ帝の子であるが故なのですか」
「そうであったとしても正当な帝よ。罪の子ではなく」
それに言い返そうとして、不意に源氏は息を呑んだ。
「……まさか、院にこの事を知らせたのですか」
「いいえ。そんなことはしません」
安堵の色を浮かべた源氏をざくり、と爪で裂く。
「でも、ご存知みたいよ。調べた時、亡き藤壺中宮の乳母子の行方が知れなかったのは、父の息のかかった寺にでも入って出家したのではないかと推察しているわ。手引きをした王命婦さえ抑えておけばよいとしたあなたの手抜かりね」
彼は絶句する。私の像が揺らぐのと同時に私の父の像も揺らいでいく。
軽視するにふさわしい穏やかな兄。後見の力だけでその地位に着いた帝。敵視する必要さえない微弱な存在。それががらりと色を変える。
含むものの多い艶なる薄闇。水面に映る月の影。小石一つでやすやすと砕ける。けれどいつしか水は面を静め、再びその色を明らかにする。水面に映った影は奪えない。父はそんな男だ。
しんしんと夜は更けていく。
取り払われた几帳を横に、更衣腹であるがゆえに帝位につけなかった男と、女であるがゆえにその地位に近づくこともできなかった私が対峙している。
「あなたは命じられてここに来たのですか」
源氏が尋ねる。私はそれを否定する。
「いいえ。完全に自分の意思だわ。父は私を止められないと知っていたから了承するしかなかったし」
「それではすべてがあなたのせいなのですね。人死にが出た件さえも」
さすがは源氏。自分の罪には目を向けず他者の罪のみ責めようとする。
「いえ、あなたのせいですわ。ご自身がその罪を背負いながら、柏木まで責めるとは思いもしませんでした」
「自分の愛する女を奪われて取り乱さない男はいない」
「愛する? ご冗談でしょう。そんな想いをこの身に受けた覚えなどありません」
「ならばあなたはいかがです? 柏木を愛していたのでしょうか」
「その前にあなたの愛情についてお聞きしたいものですわ。それはいったいどこにおありなの?」
「私はこの手で抱いた女人を、すべて愛しておりました」
「その才によって? 身分に応じて? それとも原型となる方の形代にふさわしい分だけ?」
「それぞれをそれぞれとして愛していました」
「名さえ知らぬ女たちまでも手にしながら? 広くて浅い情ですこと」
「その情さえお持ちにならぬあなたには不似合いなお言葉ですね」
私はわずかに片頬を歪めた。そう見えるのならむしろ嬉しい。が、あやめの存在を無にするわけにはいかない。
「…………思いはありました」
源氏の眉間に深い皺が刻み込まれ、そのこぶしが再び固く握られる。
「ただ見つめているだけで幸せでした。声を聞くと胸が高鳴って不安になるほどでした。望むことはその微笑みだけでした」
源氏の肩が震える。突然、吼えるように叫んだ。
「よくもぬけぬけと。たかが柏木ごときに!」
「誰が柏木を想うと言ったの、勘違いもはなはだしい」
「他にも男がいたということか」
源氏は私を睨みつける。私も負けずに睨み返す。
が、その無意味さに気づいて醒めた声でこの男に尋ねた。
「…………この部屋で何人の女に手をつけましたか」
「自分も同じだと言いたいのか!」
「違うわ。答えて」
彼は苦い顔のまま指を折って考えた。
「四人、いや五人」
「その中に、あやめという名の女房がいたことを知っていらして?」
「いや……」
「少し大柄な、おとなしい子。この部屋に不似合いなほど地味な娘」
斜め下に目を向けて、おぼろな記憶をたどっている。ようやく思い当たったらしく目を上げた。
「ああ……」
「その子が私の想い人でした」
呆然と彼は私を見つめる。目をそらして月を見上げる。荒涼たる冬の月。凍りつくような光。そこから運ばれるような冷気。
「打ち明けることもない私の片恋でした」
源氏の中のとげとげしい色が消え、代わりに何かやわらかいものが灯る。
「……長く見ませんね。どうしているのです」
「あなたの子を孕んで、人知れず死にました」
打ちのめされたような源氏の顔。青褪めた月の光に濡れている。
「なぜ……知らせてくれなかったのですか」
「彼女がそれを望みませんでした。それに、ちょうど紫の上が病んだ頃だったので告げても無意味なことでした」
「しかし、それでも何がしかの配慮はできたはずです」
「私もそうしてほしかった。だけどあの子は、あなたの子を堕ろそうとして死んだのです」
源氏を源氏たらしめている何かが欠け、零れ落ちた。
「あの子は、望まぬ寵を受けてそれを避けることもできず利用することもなかった。野に咲く可憐な花にも意思があることをご存知? すべての女があなたを愛すると思っているの?」
自ら裂いた私の傷跡。心から滴る血がこの部屋を埋める。けれどそこに他人の傷の気配。傲慢な大きな獣からも流れる血のあと。
それでも私は言葉を止めない。
「あなたのせいで死んだ女はあやめだけではないわ。あなたがよくご存知の方はあえてあげないけれど、そのほかにも焦がれ死にした子だっているのよ。かつて大宮のもとに仕えていた少女のことは覚えていらっしゃらないでしょうね。戯れに情を与え、すっかり忘れて恥をかかせ、それでもあなたのことを忘れられずに死んだ娘のことなど」
中納言の妹の名をあげる。源氏はうつむいたままだ。
静かなる慟哭。言葉の矢は確実に的を貫き目の前の男を血まみれにした。だが少しも喜びを感じない。
夜気がいっそう冷えびえとこの部屋を包んでいる。
長い沈黙のあと、源氏は顔を上げた。
傷を受けても、それでも立ち上がる驚嘆すべきわが宿敵。
「認めましょう、わが罪を。ですがそれはこの私が、人を愛する宿命を抱いて生まれたため仕方がないことなのです」
過剰な愛を受けて生きそして死んだ女のその息子は、積まれた罪のその上で吼える獣。
ならば私は、その獣を屠るために生まれた獣。
「世を捨てることもできず、女にしがみつくことだけを選ぶの」
嘲りを含んだ私の言葉に源氏は動じず、静かに返した。
「それでは私も尋ねます。あなたにとって仏は道具なのですか」
目をそらさずにそれに答えた。長い間わからなかったが、やっとわかったことだ。
「違うわ」
「失礼ですが、深い信心をお持ちのようには見えません」
「ええ。私自身はさして信じていませんでした」
「ならば私を責めるためだけに世をお捨てになったわけですね」
「最初のうちはそのつもりだったわ。私は虚無に身を捧げて悔いない女だから。だけど違うわ」
自分のまとった薄鈍の色に目をやる。いまや慣れ親しんだこの色。
「私が仏の道具なのよ」
悲哀も絶望もなく、ただ認める。それで充分だ。それで満足だ。死んだあの子は信じていたのだから。
「そのためには人を傷つけることさえ辞さないとおっしゃりたいのですか」
微笑んだ。私が私であることと、この身が捧げられていることは矛盾しない。
「ええ。私は何をしても、誰からも許される存在なのよ」
源氏が大きく目を見開いた。
霜にも見まがう月の光が時を止めたかのように降り注ぐ。
すべての傷をいとわずに闘う不死身の獣がその足を止めた。
「あなたは…………あまりに私に似ている!」
苦笑した。逃避にも程がある。
「お戯れを。亡き大后に似ているというのならわかるけれど」
「いえ、あなたは若き私に似すぎています。女性となった私自身だと思えるほど」
「あなたのように浅い愛情を振りまく趣味はありません」
「あなたが鎖されて育ったからでしょう。同じ女性であろうとも、大后に似ているのはその強さだけです」
「漢学に秀で、力を持ち、あなたを許さない。そっくりだと思うわ」
「一時的にですが、私は彼女のもとにいたことがあります。後年、ご挨拶にうかがったこともあります。確かに彼女は力そのものだった。が、それは正面から押し寄せる巨大な津波のような力でした。あなたのように表面が静かな力ではありませんでした」
「すべてが重なるわけではなくとも、私は彼女の裔です」
「あなたの祖父たる桐壺帝は私の父です。あなたは私とも血の繋がりがあるわけです」
今度は源氏が少し微笑んだ。嘲りには見えない。
「塗籠や唐櫃にあった漢籍はあなたのものだったのですね」
口元を引き結んでうなずいた。屈託ないといえるほど、源氏の笑みは深くなる。
「私もそれは大好きです。宮は絵もお好きですよね」
「ええ」
「そして琴も上手だ。たぶん、私に普段聞かせてくださったよりもずっと」
答えずに見返す。いたずらを愉しんでいる子どものような瞳が迎える。
「和歌も得意でしょう。いつもは抑えていらっしゃるが、必要な時は意外なほどすばやく見事にお詠みになっていた」
「…………」
「大后は和歌が不得意でいらっしゃいました。楽のほうは非常に上手でしたが絵を好まれるとの話はうかがっておりません」
「別にすべてが似ているとまでは言いません」
「私はそのすべてが得意です」
嬉しそうに彼は私を見つめた。まるで母にほめられる事を待つ息子のように。
「あなたは……私なのです。その無謀なまでの若さ。冷たさ。深すぎる愛。すべてが私そのものです」
「違う!」
私は叫んだ。
「ありふれた趣味のいくつかが似ているからといって、そうみなすのは早計に過ぎるわ」
源氏は少しまじめな顔で私に尋ねた。
「以前から疑問に思っていたのですが、あなたは冬の月がお好きなのではありませんか」
人に愛されない寒々しい月。確かに私はそれが好きだ。
答えることを躊躇した。けれど私は逃げることだけは選ばない。
「そう。好きだわ」
「私も好きです。感性さえもよく似ている」
「あなたはむしろ紫の上に似ていらっしゃるのではなくて?」
「彼女にはそんな屈折した感覚はありませんでした。趣味は似ていましたが、それは私が教え込んだためでしょう。私の持つ傲慢さはあの人にはなかった」
彼は脇息に肘をついて手のひらの後方に顎を乗せ、微かに首をかしげた。
「そう、なぜこんなにも似ているのでしょう」
夜気がひどく冷たい。体が冷える。まるで水の中にいるように。
「私が紫の上に教えたように、あなたにもすべてを導いた相手がいましたね。楽を教え絵を教え、漢籍の楽しみを教えた相手が」
座った茵の端を握り締める。その言葉に耐えるために。
「それはあなたの父、朱雀院その人だ」
すべらかな絹の冷たい感触。力を込めすぎた指先の痛み。
「最初にあなたの母、源氏の女御を迎えた時から始まったことでしょうね。あの方は兄に望まれて入内したと聞いております。そのときは似通った立場に、軽い期待を込めただけではないかと思います。けれどもちろんその方は私には似ていなかった。彼女は中宮になることもなく恨みを抱いて亡くなった。まるで私の母のように」
源氏は考え込んだ。先ほどの陽気さは影を潜めている。
「そしてあなたが残された。兄はこの相似に気づき、それを更に近づけようとしたのではないでしょうか。もしかすると私が紫の上を育て上げたことにも影響されたのかもしれません。彼はあなたを鍾愛し、女御や更衣のもとへ渡る時さえ伴った。それは意識的にしたとしか思えません」
床が砂で築かれているようだ。それは、私から流れた血を吸って少しずつ崩れていく。
「兄は明確な意思を持ってあなた自身を作り上げた。通常の姫宮と異なり、様々な才を持つあなたを」
源氏は目を上げて遠くを見ている。
「思えば、降嫁の依頼も実に巧妙だった。彼は知っていたのですね、私が誰を愛していたのかを。強引な依頼などせずとも自分から引き受けるとわかっていた。そのためにあなたの裳着の腰結いは、血の繋がりの薄い太政大臣にわざわざ頼んだ。関係性から言って私のほうが適切だったのに。少しでも垣間見たのなら、あの方に似てはいないことに気づくと考えてわざと遠ざけたのでしょう。なんと鮮やかなやり方なのか。私は彼という人物を見誤っていましたよ。真の強者は、やはり帝たる兄であったのです」
震える身体を何とか抑え、感情の滲まない声を出した。
「天下の帝がそうまでするほどあなたの事をお好きだと? 大した自信ね」
月のない夜の闇と同じ色の眸で彼は答えた。
「違いますよ。これは……明白な悪意です」
そこにもやはり傷の気配。
「すべてを奪いつくして微塵も揺るがない傲慢な男。至高の立場など省みることのなかった若い男。守り抜いたはずの皇統さえも汚していたその男に彼は耐えることができなかった。が、聡明なあの方は世を乱すことも良しとしなかった。だから彼は、その男を再び作り上げて閉じ込めることにしたのです。女の立場に」
「あなたを野放しにしたままで?」
「その男はこれ以上世を変えることはない。その裔である人も帝位に血筋は残せない。だから自分の感情さえなだめればいい。そう考えたのでしょう。男らしい才に欠けるなどとは間違いもはなはだしかった。山の帝は冷酷なまでの知性を持つ極めて雄々しい人物です」
「その頃のあなたの息子はまだ若い。血が残せないとは限らなかったわ」
「ええ。もし彼がその位にある時に皇子を得たとしたら、そのままでいることはできなかったでしょうね。穏当に事情を知る事を話して後の世を継ぐことを断念させたか、それとも他の手段をお取りになったかはわかりませんが」
私では生み出すことのできなかった表情が源氏の顔に満ちている。それは畏怖というにふさわしいものだ。
「あなたの勝手な思い込みでしょう。父がそんな事を企むとは思えません」
「ならばその証拠に」
言いかけて源氏はふいに口を閉ざした。そのまま恥ずかしげに目を伏せた。
「……すみません。だから信じていただけないのでしょうね」
「何のこと?」
源氏は脇息から身を離し肩を落とした。
「私があなたを愛していることを」
「偽りの敬意など必要ないわ」
「それは違います。先ほどの言葉も嘘ではありません。私はこの腕に抱いたすべての女たちを愛しました。名前など知らぬ女房であったとしても心惹かれ、乱され、そのひと時はその相手のことしか考えることができなかったことは本当なのです。ましてやあなたは私にとって最後の姫君だ。その罪を厭っていた時でさえ私をひきつけてやまなかったその可憐な美しさ。そして今では知ることのできたあなたの本当の姿。この心の震えはあなたへの愛に他なりません」
「単なる気の迷いです」
源氏はやわらかく微笑んだ。
「宮はご自身のことを意外にご存知でいらっしゃらない。けれどそれはそれとして、私は後塵を拝するのは苦手な性質です。だからつい、むきになってしまいました。あなたへを傷つけるつもりはもうありません」
体中の血が逆流する。この男は、私を憐れんでいるのか。
「気遣いなど不要です。すべて話して」
「しかし……」
私は彼を正面から見据えた。
「あなた自身はそんな気遣いを受けたいの」
猛々しかった気配はすっかり鳴りを潜め、弱者に向けるような視線を与えられる。私はそれに値しない。
「気は進みませんが」
源氏は孫廂の方に目をやった。少し考え、それから意を決したように口をきった。
「宮の周りには私のことを思わせる事柄が多すぎる。すべてを繰り返したりはしませんが、人に限ってみると源氏の女御意外に、あえて置かれたとしか思えない人がいます」
源氏の視線が、ゆっくりと流れる。
「私の祖父は按察使大納言です。まさか祖父をさかのぼって作るわけにはいかない。が、その言葉を身近に置くことはできる。あなたに仕えるその女房の名は、確か按察使といいましたね」
「彼女は中納言の選んだ女房ですわ。ねえ」
視線を移した私の目に飛び込む蒼白な顔。
「…………違うの?」
その権限を与えた日の事を覚えている。あの時の皮肉な顔の中納言。今はその無表情な顔の下から苦渋の色が滲んでいる。
「…………法皇様より、ひとかどの才を持つ者と勧めを受けました」
彼女は言葉を曲げることはない。私がそれを許さないと知っている。
「そう。ありがとう」
ようよう、それだけ答えた。
真紅の闇に染まって見える部屋。
清めてくれるはずの月の光さえ赤い。
床はぐらぐらと揺れている。
身体も軸を失ったかのように揺れそうだ。
が、源氏の心配そうな顔。それだけが私の矜持を支えている。
弱みなど見せない。
泣いたりなどしない。乱れた心を外には出さない。
その起こりがどうであったとしても、私は変わらずに私だから。
いや、本当にそう言えるのだろうか。
私の根幹を成すこの悪意さえも与えられたものだとしたら、そう確かに思えるのか。
自然と向かったはずの方向が、細緻に仕組まれた必然だとしてそれを許容できうるのか。
そもそも私自身などというものがあるのだろうか。
ここにいるのは紫の上と同じく作られた人形に過ぎないのかもしれない。
躯の芯が凍る。私は姿さえ異なる形代。
女という型に閉じ込められた他人。
叫びたい。土器など投げずに叫びたい。
この身を折り曲げ苦痛を紛らわしたい。
そんな様など見せるものか!
傷の痛み。心から流れる血の紅さ。けどこの傷は、私だけのものではない。
視線を巡らすと中納言以上に青ざめた按察使の顔。その唇は震えている。
そのことで傷つく事を知っていながら、先ほど私は彼女の前で恋を語った。
彼女が罪人ならば、私もまた罪人。
もちろん許す。何度でも。
何をしても許される身のこの私だ。他者の裏切りを許すことさえ自由だ。
口元に浮かべた微笑はたぶん苦い。そう、まるで父の微笑みのように。
とたんに体が軽くなった。
ーーーー業が深いからね
闇を含むがゆえの優美さ。すべての感情がもつれ合い溶け合うあの艶なる風情。
ひりつくような胸の疼痛。それから私は逃げない。抱えたまま生きていく。
微笑をたたえたままの私に、按察使がおずおずと目をあてる。
安心させるために更に表情をやわらげた。彼女をこれ以上傷つけない。
そのまま源氏に視線を戻す。心配の色が抜けていない。
「それでも私は父が好きよ」
心のうちのほろ苦い痛みは、確かに甘美さを含んでいる。あの美しい死霊や、紫の上、そして他の女人の苦しみや陶酔が初めて身近に感じられた。
源氏は安心したかのように息を緩めた。
「…………うらやましいな」
「そういってくれる相手はお持ちでしょうに」
「娘はそうは言いませんよ。自業自得ですがね。私たちは立場こそ親子ではあるが、互いにそんな感情は見出せない」
「そこが似ているのではなくて」
「いえ。私が親だと思うことが出来るのは、薫に対してだけかもしれない」
「…………」
「私は、あの子を抱くためだけにこの世に生まれてきたのかもしれません。私のすべての人生はただそのためにあったのかもしれない。ああ、確かにそれでいい。なぜか満足です。私は非情すぎて血の繋がりにすら自分を託することができない男だった。だが私自身とも思えるあなたを得て、失って、初めて親になれたのでしょう」
口元に浮かべた微笑みは今までにない苦さを含む。その顔は父にどこか似ている。
「あなたの言葉を聞いて、私もようやく行くべき道がわかってきましたよ。けれどその前にするべきことがありますね。人々が先行き困らないように考えなくては」
実務的な仕事においては、源氏は信頼に足る人物だった。
「宮はこの後どうなさりたいのですか? もしも還俗なさりたいのならば、遠慮なくそうなさってください。人聞きの悪くないような理由も何とか考えましょう」
私は源氏を睨んだ。
「まあ、ひどいわ。私の深い道心をそんな風に軽く考えていらっしゃるのね」
失礼なことに孫廂にいる中納言が失笑した。源氏も笑いを含んで謝罪する。そしてふいに表情を改め、まじめな顔で私を見つめた。
「本当によろしいのですか」
力の限り闘った宿敵に対して私も微笑む。
「ちゃんと仏に選ばれた世にも高貴な道具ですからね。それでいいの。それに、世を捨てたからといって私は私を捨てたわけじゃないわ。やりたいことだって他にもあるし」
「それはどのようなことですか」
「私はあなたを憎んでいたけれど、評価すべきと思ったこともいくつかあるわ。その一つが身よりもなく憐れな立場の方々を庇護したことね。今だってやっぱりあなたの女性恐怖の現われだと思っているけれど、実際それで救われた方もいらっしゃるし。その真似事みたいな事をやりたいの」
視線を少し奥に向ける。ここから離れた北廂。そこに休む幾人もの女房。西の二対にも彼女たちがいる。
「でも姫君はあなたのような恋多き殿方に任せて、私はあなたの厭う浮薄な娘たちが羽を休めることのできる場所を作るわ。恋や浮世に傷ついたあの子たちがほんの少しでも安らげる場所を」
眸を戻して真正面から源氏を見つめる。
「だから、遺産はしっかりいただくわ。三条の邸をその場にするの」
「あなたはやはり優しい方だ」
「違うわ。相変わらず私のことを見誤っているのね。そうではなくて、ああ、本当に私はあなたに似ている所があるのね。負けることが我慢できない」
「私は宮には勝てませんでしたよ」
「そう言い切れないわ。でも少なくとも二人そろって父にはかなわなかった。だけど私はあなたより若いから、これから修行して父を越えるの」
「どのような手段で?」
「六条院の女君の中で唯一、見切ることができなかった人がいるの。夏の町の方よ。あの方は真実ただ優しい人なのか、それとも自分を抑えて見せない人なのか。どちらにしても賢明なのは確かだけれど、前者だとしたら特に凄いわ。善意の極みは極上の悪意に似ているってことですものね。だから……逆もまた真なり。最上級の悪意を洗練させていけば、それは善意と変わらないのじゃないかしら」
源氏は父の真意を明白な悪意と断言した。が、私にはわからない。悪意も善意も混沌として、ただ一つに溶け合っているように思えた。
「私はこの悪意に満ちた心で、それ以上の所にたどり着くつもりよ」
「薫はどうするおつもりですか」
「傍にはいるし不自由はさせないけれど、私は育てないわ。男の子は一人で悩んで育つべきよ。漢籍だって自由に読めるし。だけど、とても大事に思っているわ」
彼のことを思うと胸の奥に小さな灯がともる。
「いろいろなことで悩むかもしれないわね。でも、安易な選択はさせない。私はあの子のほだしになるわ。それでもあの子が助けを求める時は応えてあげるし、悩んで悩んでそのあげくに選ぶことはすべて認めるわ」
「あなたにはやはりかなわないな」
源氏は首を軽く振り、それから姿勢を正した。
「老いた私もできる事から始めていきましょう。ようやく、今までの文を焼く決意がつきましたよ。あれはかなり堪えました」
「反省はしないわよ」
「ええ。むしろ気づかせてくれましたよ。文自体が大切なのではなく、書いた人への想いが大事だと」
「……わりに俗っぽいのね、あなたって」
目を白黒させる源氏に笑いかける。
「その単純な所は嫌いじゃないわ」
「そこにたどり着くまで苦労しましたがね。まあ、いいです。それに徹しますよ。年が明けたら世を捨てます。それまではここにいてくださいますね」
「もちろんだわ。天下の光源氏が髪を落とすのよ。見逃すものですか」
「まったくあなたという人は」
嘆息した源氏はすぐに情けない表情で笑った。
「その後は離れることになるのでしょうが、以前よりもずっと近い場所にいる気がしますよ」
「ええ。長い付き合いになると思うわ。私は地獄に落ちるけれど、きっとあなたは隣に住むのでしょうから」
「まさか」
源氏が軽く口の端を上げる。
「私は九品の上に生まれ変わると思います」
「まあ。あつかましい」
「もちろんあなたもいっしょにね。残念ながら同じ蓮の上には乗っていただけないようですが」
やわらかな色合いを宿したその瞳は遠いところを見つめている。
源氏は寒々しい色合いの月影に視線を移した。
霜にもまがう月光が去り、夜明けを待つだけの闇が残った。
冷えた廂を踏みしめて源氏は東の対に戻る。按察使は紙燭を掲げてその足元を照らすために従った。
二、三歩過ぎかけた源氏はふと立ち止まり中納言に目を向けた。
「……妹さんのことを思い出しました。大変お気の毒だと思っています。ですが、私は彼女に手をつけてはいません」
無表情な彼女が顔色を変えた。だが源氏は臆することなく続けた。
「大変心苦しいのですが、好意を向けてくれたすべての女性と付き合うわけにはいきません。すると時々、願望と事実を混同してしまう人が出てくるのです。あなたの妹さんは可愛くて夢見がちな少女でした。好感は持っていましたが、お付き合いするに到りませんでした。大変申し訳ありませんでした」
源氏は深々と頭を下げた。
中納言は目を見張った。だがしばし逡巡したあと、自分も彼に頭を下げた。
足音がゆっくりと消えていく。
大殿油の火は暗く、今にも消えそうだ。
だが私は休む気分にはなれず、暗いだけの外を眺めていた。
中納言は黙って控えている。その表情はいつもと変わらない。だがほんのわずかにその気配が軽くなっている。
風が梢を揺らす。木の葉の舞い散る乾いた音。かがり火さえも消えている。
薄明はまだ訪れない。二度とあやめに会うこともできない。
それでももはや惑うことはない。ただ、私であり続けるだけだ。
流れる雲で月の消えた空を見つめた。それは遠くひどく昏い。
葉鳴りがひときわ高く聞こえる。後夜の経を読むにはいい頃合だった。いつものように阿弥陀仏の前に座った。
月の代わりに灯明の灯影を受けて、握り締めた水晶の数珠がわずかに輝いた。
ありがとうございました。




