第一章 煙の指輪
住所は、駅から十五分ほど歩いた住宅街にあった。
築年数の経った二階建てのアパート。
外壁は薄い灰色で、鉄製の階段には赤茶色の錆が浮いている。
佐伯澪は部屋番号を確認し、インターホンを押した。
しばらくして、若い女性の声が返った。
「はい」
「昨日お電話した、『月刊異聞』の佐伯です」
鍵の開く音がした。
扉を開けた女性は、二十代後半くらいに見えた。
肩までの髪を後ろで束ね、化粧はしていない。目の下に薄い隈がある。
「どうぞ」
通された部屋は、きれいに片づいていた。
物が少ないわけではない。
ただ、家具や小物が妙に正しい位置へ戻されている。
何度も片づけ直した部屋のようだった。
ローテーブルの上には、ペットボトルの水が二本と、小さなアクリルケースが置かれている。
中に、銀色のリングが入っていた。
黒に近い茶色の石。
スモーキークオーツ。
封筒に入っていた写真と同じものだった。
「こちらは、お姉さまのお部屋だったんですよね」
「はい。亡くなってから、私が片づけています」
澪は録音機を取り出した。
「録音してもよろしいですか」
女性の視線が、録音機へ落ちた。
「必ず使うものですか」
「正確に記事を書くために、できれば」
少し迷ったあと、女性は頷いた。
澪は録音ボタンを押した。
赤いランプが点灯する。
「お名前は記事では伏せます。まず、お姉さまがその指輪を手に入れた経緯から伺ってもよろしいでしょうか」
「古い店で買ったそうです」
「店の名前は?」
「分かりません」
「どこにある店かは?」
「それも」
女性はケースの中のリングを見た。
「姉に聞いても、場所の説明が毎回違ったんです」
「違った?」
「駅の近くと言ったり、地下にあったと言ったり。楽器屋みたいだったとも、本屋だったとも言っていました」
澪はノートに書き込んだ。
「指輪を買ってから、何か変化はありましたか」
「音が聞こえるようになりました」
「どんな音ですか」
女性は人差し指の爪を、テーブルの縁へ軽く当てた。
カリ。
小さな音がした。
「こういう音です」
「指輪が台座に当たっていた可能性は?」
「姉も、最初はそう思っていました」
「違ったんですか」
「外しても鳴ったそうです」
「どこから?」
「指輪を置いた場所から」
女性は少し間を置いた。
「それから、外しているときだけ、胸の中から聞こえるようになったって」
澪はペンを止めた。
「病院には行きましたか」
「何度も。心臓も肺も異常なしでした」
「精神的なものだと診断された?」
「はっきりとは言われませんでした。でも、眠る薬は出されました」
「飲んでいましたか」
「飲まなくなりました」
「なぜですか」
「眠ると、音が近くなるから」
窓の外を車が通り過ぎた。
低い走行音が、部屋の静けさを一度だけ揺らした。
「お姉さまが亡くなった日のことを、伺っても?」
女性はケースの中のリングから目を逸らした。
「前の日の夜に、電話がありました」
「何時ごろですか」
「午前二時を過ぎていました」
「何と?」
「見つかったって」
「何が見つかったんでしょう」
「分かりません。聞いても、同じことしか言わなくて」
「声の様子は?」
「泣いていました」
「怯えていた?」
女性は首を振った。
「嬉しそうでした」
澪は何も書かず、女性を見た。
「翌朝、連絡がつかなくなりました。管理会社の人に開けてもらったら、もう」
「死因は?」
「心不全です」
「指輪は、どこにありましたか」
「口の中」
澪の指が止まった。
「奥歯の横に入っていたそうです。自分で入れたのかどうかは、分からないと」
女性はアクリルケースへ手を伸ばした。
触れずに、指先だけを近づける。
「警察から返された日から、また音がするようになりました」
「この部屋で?」
「はい」
「今も聞こえますか」
「昨日までは」
「今日は?」
女性は答えなかった。
代わりに、澪の録音機を見た。
「まだ、鳴っていません」
その言い方が気になった。
まだ。
澪は録音機のレベルメーターを確認した。
二人の声に合わせて、波形が上下している。
それ以外の音はない。
「指輪を手放そうとは?」
「何度も捨てました」
「戻ってくるんですか」
「いいえ」
女性は力なく笑った。
「捨てた場所へ、私が取りに戻るんです」
「どうして?」
「置いてきたままだと、音が近くなるから」
「胸の中で?」
女性は頷いた。
左胸へ手を当てる。
「姉も同じだったんだと思います」
「では、今日はなぜ取材を受けたんですか」
女性はしばらく黙っていた。
「誰かに話したら、少し遠くなるかもしれないと思って」
録音機の赤いランプが、静かに点いている。
澪はリングを見た。
写真で見たときと同じ、煙を閉じ込めたような石。
動いてはいない。
音も鳴っていない。
「最後に、指輪を撮影してもよろしいですか」
「どうぞ」
澪は数枚写真を撮った。
ケースから出す必要はなかった。
取材を終え、録音を止める。
「今日はありがとうございました」
「記事にするんですか」
「ほかの二件も確認してから判断します」
「二件?」
「似た石について、別の情報も届いているんです」
女性は初めて聞いたような顔をした。
「ほかにもあるんですか」
「リングではありません。ピアスとネックレスです」
女性の表情が、わずかに緩んだ。
安心したように見えた。
「そうですか」
それ以上は何も言わなかった。
澪は玄関で靴を履いた。
扉が閉まる直前、女性が言った。
「気をつけてください」
「何にですか」
「録音した音は、消してもなくならないそうです」
誰から聞いたのか尋ねようとした。
だが、女性はもう扉を閉めていた。
澪は駅前の喫茶店へ入り、奥の席で録音を確認した。
取材内容に異常はなかった。
女性の声。
自分の質問。
車の走行音。
爪でテーブルを引っかいた音。
四十分ほどの音声を聞き終え、最後まで戻す。
『録音した音は、消してもなくならないそうです』
『誰から聞いたんですか』
澪は再生を止めた。
自分は、その質問をしていない。
女性の言葉を聞いたあと、何も返さずに部屋を出たはずだった。
もう一度再生する。
『録音した音は、消してもなくならないそうです』
『誰から聞いたんですか』
間違いなく、自分の声だった。
その質問に、女性が答えている。
『中にいる人』
澪はイヤホンを外した。
その会話の記憶はなかった。
録音データを消去しようとして、指を止める。
記事に必要な証言だった。
原因を確かめるまでは、残しておくべきだ。
そう判断し、録音機を鞄へ戻した。
会計を済ませ、店を出る。
ポケットの中で、硬いものが指に触れた。
取り出す。
銀色のリングだった。
煙を閉じ込めたような、黒い石。
内側に、細い傷が一本ある。
アクリルケースの中にあったものと、同じだった。
澪はしばらく、手のひらのリングを見つめていた。
いつ入ったのか、分からなかった。
録音機の赤いランプが、鞄の中で点灯した。




