ネトゲの姫たち
他人の財布で満喫した焼肉食べ放題の翌日。
日課のライブ配信中の出来事。
視聴者三名から夏休みの予定を告げられた。
故にしばらく配信を見に来れないかもと。
普光院さんはご家族と海外旅行。今年はスイスに行くらしい。土建屋さんもご家族とハワイへ。残り一名、未だ身元不明な方がいるけれど、こちらは二人が留守だと知って、それならアグダちゃんも夏休みにしなよ、などと言ってくれた。
ということで、向こうしばらく夏季休暇。
そうして迎えた初日。
「……暇だ」
ライブ配信がなくなると、途端に暇になるアグダ氏だ。
なんたって労働機会も配信経由で得ているくらい。
六畳一間の居室で座椅子に座って呆っとする。
正面にはちゃぶ台。
その先には屋外に通じる掃き出し窓。
窓の外からは燦々と陽光が差し込む。
薄い壁越しに蝉の大合唱が聞こえてくる。
「これ以上なく、夏を感じる」
築四十年を超える二階建ての木造アパート。
その一階、角部屋が自身の住まいである。
六畳一間の和室に同じくらいの広さで設けられた板張りの台所。界隈では低めの月六万の家賃に対して、バス・トイレ別なのがちょっとした自慢。そんなどこにでもあるような単身者向けの安アパートである。
それでも特筆すべき点を上げるとすれば、それは敷地内にある庭。
地価が今と比べて安価であった頃に立てられた為か、敷地内にはちょっとした前栽がある。こちらは近所に住んでいる大家さんの園芸スペースになっており、たまにやって来て草木の世話をしている。
今は見事に咲いた向日葵がずらりと並ぶ。
これが自室の窓からいい感じで拝めるのだ。
なかなか風情がある。
都内で自宅の庭に向日葵を眺める。
なかなか出来ないことだと思う。
「ネトゲでもするか」
本日はお天道様も絶好調で屋外は灼熱。
外出する気にはなれない。
バーチャル世界でひと暴れするとしよう。
ちゃぶ台の上に配置していたノートパソコン。
これを立ち上げて、ゲームを起動する。
ジャンルはMMORPG。
札束でシステムを叩いてなんぼのガチャゲーが全盛の昨今、他所様と比較して、課金要素がゲーム難易度に影響しにくいゲームデザインが好評を博して、それなりにユーザーを抱えているタイトルだ。
自身ももれなくその辺りに興味を引かれて開始した。
「このキャラも久しぶりに見ますわね」
アグダさんとしての活動が影響してだろう。
独り言にもちょいちょい意識高い系の喋りが混じる。
そんな自身のプレイヤーはスキンヘッドの大男。
ランダム生成で作成したデザインだ。
当初は少し触ったら飽きるだろうと考えて、深く考えずに開始していた。こんなことならもっと可愛らしい美少女キャラにすればよかったと、厳ついオッサンの尻を追いかけながら葛藤する日々。
ログインすると、直後にメッセージが飛んできた。
自身が所属しているギルドのメンバーからだ。
“ケンケンさん、久しぶり! ちょうどいいところに”
“どうもおひさです、タニムラさん”
ケンケンとは自プレイヤーの名前。
安直に本名から取りました。
“今日の夜から新宿でオフ会があるんだけど、ケンケンさんも参加する?”
“え? オフ会ッスか?”
“まだ話とか聞いてないよね? 最終ログインが先月になってたから”
“えっと……”
いきなりオフ会に誘われた。
こちらのギルドには直近一年ほど所属しているけれど、初めての出来事である。小規模なエンジョイ系のギルドでメンバーは十人前後。対人やギルド戦などはやっていない。まったりとした雰囲気が気に入っていた。
“直前なのに人数が増えても大丈夫なんでしょうか?”
“一人キャンセルが出てるから、むしろ丁度いいと思うんだよね!”
“なるほど”
女児の姿で参加して大丈夫だろうか。
まぁ、いいか。
無理だったら帰ってくればいいし。
“そういうことでしたら、参加させてもらってもいいですか?”
“オッケー! ギルマスが幹事なんだけど、こっちから伝えておくね”
“いつも色々と誘ってくれてありがとうございます”
“ケンケンさんにはお世話になってるからね! 会うのが楽しみだ!”
“そんな滅相もない”
それからしばらくやり取りをして、声をかけてきてくれた人はログアウトした。なんでも都内までは少し距離があるとのことで、早めに家を出るのだとか。これを見送ったところで、自身も支度のためゲームを終えることに。
オフ会。
オフ会である。
ちょっと緊張してきた。
◇◆◇
ネトゲのオフ会とか、生まれて初めての経験だ。
なので多少なりとも気張ってしまう。
ふと意識が向かったのは寝癖でボサボサになった頭髪。昨晩は半乾きで寝てしまったからな。流石にこのまま出かけたら問題ではなかろうか。最低限同行者に失礼がないよう、おめかしをすることに決めた。
まずはシャワーを浴びて頭髪をリセット。
寝汗を落として身体も清潔に。
然る後、押し入れに収納していた女児用衣装に意識を向ける。普光院さんから譲り受けた衣類の中でも見栄えするやつを選んで畳の上に並べる。そして、上から下まで一式着付けたところで、風呂場の鏡で着合わせをチェック。
「裕福な家のお子さんは普段からいいモノを召されてますな」
素材を確認すると、ウールやカシミアなんてのもチラホラと。
自宅では洗濯ができないので取り回しには注意。
虫が沸かないように配慮しなければ。
「普光院さん、スカート短めが多いなぁ」
スカートを着用の上、浴室でクルリと一回転してみる。
アイドルにでもなったような気分だ。
「いやでも、近所を歩いてる子供もこんなもんか」
世の女児たちもこんな感じで、幼い頃から自己肯定感を上げているのだろうか。チェック柄のプリーツスカートに白いブラウスを合わせて、襟元に大きめのリボンとか添えたのなら、思いっきり七五三って感じ。
女児、格好、普通。
などとネット検索してみる。
しばらくすると自身の中にあった普通すら見失ってしまう。
そうこうしているうちに約束の時間が迫ってくる。
色々と悩んだ末、七五三セットに決めた。
多少フォーマルな格好をしていた方が、警察から補導される確率も減るのではなかろうか。そんなことを考えた末のチョイス。オフ会のメンバーとは初めて顔を合わせるので、キチンとしている分には差し支えあるまいて。
「よし、行くか」
自宅最寄りの駅から電車に乗って新宿まで出る。
会場はギルメンがチャットで教えてくれた。
スマホに取ったメモを片手に地図アプリを起動。
ルート案内に促されるがまま歩いていく。
会場は居酒屋だった。
創作海鮮と銘打たれた看板が軒先に出ている。
お刺身の盛り合わせとかオススメらしい。
入口で店員に止められるかな、とも考えた。
ただ、ネトゲのオフ会で、スズキという名前で予約をしているんですが、などと伝えたところ、すんなりと席まで案内してもらえた。最近はインバウンドだなんだと、子供連れで飲食店を訪れるご家族も多い。その辺りが影響してだろう。
予約が入れられていたのは個室のお座敷だった。
出入り口の襖戸を店員さんが開けてくれる。
履物を脱いで、畳の上に一歩を踏み出す。
自ずと個室内の様子が目に入る。
同時に先んじて見られた方々から一斉に注目が。
「えっ……」
「ちょ、マジ?」
「ど、どちら様?」
「部屋間違えてない?」
めっちゃ見られている。
足を踏み入れた時点で全員から凝視。
背後では店員さんの去っていく気配。
平然を装ってご挨拶をば。
「ケンケンです。急な参加になってすみません」
案内された個室は八人掛け。
既に七人分が埋まっている。
空いているのは一番通路に近い隅っこ。
「うぉぉぉ、ケンケンさん、マジか……」
「絶対オッサンだと思ってたのに」
「ボイチャが聞き専だった理由はこれか」
「子供が居酒屋とか大丈夫?」
「まぁ、ソフトドリンクもあるし……」
女児を目の当たりにした参加者たちから、矢継ぎ早に声が上がった。場違いな子供に少なからず狼狽して思われる。自身が同じ立場にあったら、きっと同じように不安を口にしていたと思う。
一つだけ空いていた座布団に腰を落ち着ける。
隣に座っているのは、たぶん、タニムラさん。
過去にボイチャで声を耳にした覚えがある。
「タニムラさん、ですよね?」
「え? あっ、そうですよ。タニムラです」
「誘ってくれてありがとうございます」
「いやいや、こっちこそギリギリにごめんね!」
めっちゃイケメンだ。
しかも若い。
ネトゲのチャットでやり取りした記憶を思い返す。去年くらいに大学を卒業して就職したとかなんとか。おかげでログイン時間が減ってしまって、みたいな会話を交わした覚えがある。
他の参加者もほとんどが男性。
アグダ氏も中身は男なのでこちらにカウント。
それでも会場には一人だけ、女性が見られた。
しかも二十代と思しき若々しい方だ。
長方形の座卓の真ん中辺りに座っている。
下はミニ丈のプリーツスカートにニーソックスで絶対領域を展開。上はフリル多めのピンク色のブラウスを着用している。肉体美に恵まれた人物で、胸や腰回り、お尻を強調する格好がとても似合っている。
顔立ちも可愛らしい。高めの位置でツインテールに結われた、背中にかかるほどの長髪が印象的だ。本人も狙ってやっているのだろう。ネトゲのオフ会で紅一点と耳にしたとき、自ずと想像されるような格好をしている。
「ねぇねぇ、マスター。全員揃ったし乾杯しよう?」
「あ、あぁ、そうだね。始めるとしようか」
女性からマスターと呼ばれた人物がギルマスか。
彼女のすぐ隣に座している。
年齢は二十代中頃。
ふんわりとしたマッシュヘアを七三分け。銀フレームの丸メガネと相まって、真面目で理知的な雰囲気が漂っている。身なりも七分袖のワイシャツにスラックスと、落ち着きのある好青年といった装いの人物だ。
土建屋さんが身に付けていたのと似たような腕時計から、お金持ちの気配を感じる。
「それじゃあ、いちごミルク騎士団の初オフ会を祝って、乾杯!」
「「「「「「カンパーイ!」」」」」」
ギルマスの号令でグラスを掲げる。
見た目女児の自分は烏龍茶。
ピッチャーから注いだ。
タニムラさんが注いでくれた。
くそぅ、お酒が飲みたいよ。
「ケンケンさん、ご家族は承知してるんだよね?」
「ええ、しっかりと伝えておりますわ」
「よかった。こっちから誘った手前めっちゃ焦ったよ」
「どうかご安心下さい。決して問題は起こしません」
隣に座ったのタニムラさんとお喋り。
ゲーム内では一番仲良しなのが彼だから。
するとすぐに対面の人が会話に混ざってきた。
「ケンケンちゃん、住まいは都内なの?」
「ええ、中央線沿線ですの」
「都内住まいなんだ? 羨ましいなぁ」
相手は恰幅のよろしい中年男性だ。
年齢は自分と同じくらい。
「タニムラさんは少し距離があると聞きましたが」
「あぁ、僕は埼玉の僻地から出て来てるからね」
「具体的にどの辺りなのかしら?」
「秩父の辺り、って言ったら分かるかな?」
「西武新宿に出てくるだけでも、片道二時間コースですわね」
「まさにそんな感じだよ。そろそろ引っ越したいんだけど」
席が近い人たちと他愛ない会話を交わす。
何気ないやり取りが新鮮だ。
だって、周りがめっちゃ気遣ってくれる。
ただ座っているだけで、料理を取り分けてくれたり、話題を振ってくれたり、お皿や醤油やら寄越してくれたり。至れり尽くせりとはこのことか。それもこれもアグダボディーの可愛らしさが理由だろう。
不動健一として訪れていたら、今頃は一人で黙々と杯を重ねていたと思う。
おかげでお酒を口にしなくても、大変心地良い時間を過ごすことができる。
しかし、飲みたいものは飲みたい。
乾杯から小一時間ほどが経過した。
周りが酔い始める。
機は熟した。
「…………」
タニムラさんと対面の方がお喋りに夢中になっている隙を突いて、女児は注文用のタブレットを手に取った。画面をポチポチとやって、飲み放題のドリンク一覧画面を表示。そこから目当ての品をカートに放り込む。
間違えた振りをしてゴクゴクする作戦。
注文がタブレット方式なのはありがたい。
烏龍茶の注文に合わせてウーロンハイを発注。
ここで出入り口付近というポジションが生きてくる。
店員さんがドリンクを届けに訪れたのなら、率先して注文した品を受け取る。そして、さも烏龍茶を確保したかのように見せかけて、ウーロンハイをゲット。お呼びじゃない烏龍茶はそのままテーブルの中程へ放流。
「おや? このウーロンハイは誰のかな?」
「おぉーい、ウーロンハイを頼んだ人は?」
「誰かな?」
「誰だろう?」
「行方不明なら自分もらいます!」
いらない子は他所へもらわれていった。
やったぞ、作戦成功。
お酒、最高。
アルコールの苦みが喉に染みる。
これだよ、これ。
夏はやっぱりこうじゃないと。
気づいて止められる前に一気飲みしちゃお。
「アレ? これただの烏龍茶だ」
「ウーロンハイ、注文する?」
「行き先なかったし別にいいでしょ」
幸い周りは気付いていない。
この調子でゴクゴクいくぜ。
すると、これを目敏く見咎めたのが隣りのイケメン。
「ケンケンさん、子供なのに烏龍茶とか珍しいね」
「え? あ、そうですか?」
「あんまり飲むと夜眠れなくなっちゃうよ」
「たしかに飲み過ぎはよくありませんわね」
いけない、中身のオッサンが滲み出てしまった。
二杯目はスクリュードライバーをオレンジジュースに偽装する作戦。毎回ウーロンハイだとバレそうだからな。なによりこの肉体なら、健康のために糖質を気にすることもない。甘いお酒もばっちこい。
人知れずお酒を満喫。
居酒屋、マジ最高。
オススメのお刺身もイイ感じ。
そうした間も周囲からは絶え間なく声がかかる。
なんなら七人のうち三人がこちらを向いている。
横長の座卓がちょうど真ん中で割れた感じ。
「これうまっ! ケンケンさん、この串焼き食べた? マジ美味しいよ」
「本当ですか? でしたら一本頂戴するとしますわ」
「それだったら僕の分もいっとく? せっかくだし沢山食べていきなよ」
「ありがとうございますわぁ」
圧倒的にチヤホヤされている。
なんと心地が良いのか。
それ以外の四名は紅一点を囲んで楽しそうにしている。
「松浦さん、声が可愛いよね。聞いていてうっとりしちゃう」
「本当ですか? こう見えて私、声優の卵だったりするんです」
「え、マジで? それ本当に?」
「一応、事務所にも所属してるんですよ? ひよっ子ですけど」
唯一の女性参加者である彼女、名前は松浦さんというらしい。
女性が一人混じっているだけで、場がとても華やかだ。
彼女を中心として盛り上がっておりますね。
他方、アグダ氏に付いた男たちの、なんと哀れなこと。そうして構っている相手が中身オッサンだとも知らずに、絶え間なくチヤホヤしてくれている。段々とこちらが申し訳なくなってきたほど。
イケメンのタニムラさんなど、乾杯当初から松浦さんより話題を振られている。それでもなにかと隣に座った女児の面倒を見て下さりありがとうございます。座席の都合上、彼が反対方向を向くと、自身が孤立してしまうから。
そうしてあっという間に二時間が経過。
お店から追い出されることに。
会計を済ませて店の前にぞろぞろと出てくる。
「二次会行く人、どれくらいいますか?」
すぐにギルマスから二次会の案内が伝えられた。
近くのカラオケに向かうのだそうな。
既に予約も入れてあるそうな。
仕事ができる男だ。
間髪を容れず、松浦さんから声が上がった。
「マスター、私この子を駅まで送ってきますね」
「あっ、私も二次会に行きたいです」
「子供は帰る時間だよ? もう夜遅いんだから」
颯爽と手を上げて、女児も同行を申し出る。
しかし、松浦さんに早々却下されてしまった。
時刻は八時を少し過ぎたくらい。
夜はまだ始まったばかりではなかろうか。
ちゃんと事前に調べているのだ。夜の十一時までは未成年が一人歩きをしていても、警察に補導されるようなことはないと。東京都は青少年保護育成条例とやらで、その辺りが規定されているらしい。
「夜十時くらいまでは保護者の了承は得ていますわ」
「だとしても、私たちに責任があるでしょう?」
「…………」
そのように言われると弱ってしまう。
女児は二次会前に帰宅が決まった。
ところで、調子に乗ってお酒を口にしていた為か、かなり頭がふわふわしている。ヤバい飲酒がバレるかも、などと思ったけれど、周りは女児が眠気を催したと判断したようで、これといって突っ込まれなかった。
一人でも素面がいたら、酒臭い吐息で気づかれていただろうな。
皆さんめっちゃ飲んでいたから、まったく気づかれていないけれど。
「ほら、こっちに来て。連れてってあげる」
「ありがとうございます」
「まだ寝ちゃ駄目だからね?」
お店を出てからは松浦さんに手を引かれて駅まで向かった。
新宿界隈は苦手なので正直助かる。
彼女はわざわざ改札の中まで入って、女児を電車に乗せてくれた。最寄り駅はタニムラさんとのお喋りを聞いていたとのこと。この電車に乗っていれば自宅に着くから、大人しくしているんだよ、みたいなことを言われた。
数分ほど待つと電車がやって来る。
これに自身だけ乗って発車を待つ。
松浦さんとは開放されているドア越しにお喋り。
やがて発車の合図が駅構内に響いた辺りでのこと。
「これに懲りたら、もう二度とオフ会には参加しないでね?」
「えっ……?」
ボソリと耳元で呟かれた。
どういう意味だろう。
分からない。
問いかけようとしたら、既にドアが閉まっている。
酔っ払った頭はふわふわとしていて、分からない。
まぁ、気にしなくてもいいか。
座席に腰を落ち着けて背もたれに身体を預ける。
すると、いい感じに睡魔がやって来た。
「…………」
この身体、やたらと寝付きがいいのだ。
気づけばいつの間にやら、意識を失っていた。
◇◆◇
再び目が覚めたとき、電車内はスッカラカンだった。
車両内に乗客は自分だけ。
「お嬢ちゃん、終点だけど大丈夫?」
「……え?」
点検にやってきたという車掌さんに起こされた。
開けっ放しのドアからホームの様子を窺う。
すると、高尾駅との文字が目に飛び込んできた。
やっちまったよ。
壮大に寝過ごした。
「お嬢ちゃん、親御さんは一緒じゃないの?」
「あっ、大丈夫です! 大丈夫ですので!」
大慌てで電車から降りた。
こんなところで警察のご厄介になっては堪らない。
幸い、車掌さんが追いかけてくることはなかった。
酒臭い息にも気づいた様子が見られない。
「…………」
ホームに降りて気付いた。
女児が乗せられた電車、特快だ。
自宅最寄りの駅には止まらない。
「……松浦さん、そういうことッスか」
別れ際、彼女に伝えられた言葉を理解した。
女児はお邪魔虫だったのだ。
姫プレイを楽しまんとする彼女にとって。
まぁ、特快だろうが各停だろうが、いずれにせよ寝過ごしていただろう酔っ払いであるからして、彼女の行いには然程の意味もない。騙されようが、事前に気付こうが、結局は高尾まで揺られることになっただろう。
「…………」
時刻表を確認すると、すぐに上り電車が出っぽい。
なんなら走って帰宅することも不可能ではない。
アグダさんの健脚と体力は化け物級。
しかし、それも勿体ない。
「よし、山登りだ」
せっかく高尾まできたのだ。
高尾山に登ってみることにした。
◇◆◇
甲州街道を二、三キロほど歩くと、高尾駅から高尾山口駅に到着。
そこから登山道に入って山頂を目指す。
ルートは稲荷山コース。
麓に生えていた観光客向けの案内板に従えば、数ある登山道の中でも傾斜がきつくて難易度が高いとのこと。ただし、見晴らしは他のコースと比べていいらしい。せっかくハイスペックな肉体が手元にあるので、挑戦してみることにした。
山に登り始めたのは夜の十時過ぎ。
当然ながら観光客は皆無。
月明かりを頼りに登る登山道はなかなかスリリングだ。
とはいえ、落っこちたところでアグダ氏の肉体にダメージは入らないから、これといって差し支えはない。もし仮に迷子になったとしても、そこいらに生えている背の高い樹木に登れば、帰るべき方向くらいは分かるだろう。
「っ……! うわ、ガサってした……」
時折、獣っぽい気配が届く。
クマとか出たらどうしよう。
高尾山にクマっているのかな。
そんなことを考えながら足を動かす。
しばらくすると頂上に辿り着いた。
「おぉ、貸し切りじゃん」
そろそろ日も変わろうという頃合いだ。
自分以外に人の姿は皆無。
道中と同様、界隈はしんと静まり返っている。
シャッターの降ろされた飲食店やビジターセンターを横目に眺めつつ、歩みを見晴台の方に向ける。ひゅうと吹いた夜風の頬を撫でる感覚が心地良い。都心より幾分か気温が低いようで過ごしやすい。
見晴台の正面までやってきた。
丁度いいベンチがある。
遠慮なく腰を落ち着ける。
ここで登場、ワンカップ。
甲州街道沿いの酒屋さんにアルコール類を扱っている自販機を見つけて、念の為に購入しておいたのだ。一体なにが念の為なのか。理由が分かるようになったら、それはもうアル中である。
念の為に購入しておいて本当によかった。
「っかぁー、富士山を眺めながら開ける一杯は最高ですわね!」
お月さんに照らされて、いい感じにライトアップされた富士山。
最高の肴ではなかろうか。
しかも貸し切り。
「一杯と言わず、持てるだけ買い込んでおいて大正解でしたわ」
近所のコンビニであたりめとチータラも調達済み。
居酒屋アグダ、高尾山山頂店が営業開始してしまったな。
「いやもう本当に、この為に生きているって感じですよぉ……」
誰に言うでもなく言い訳を重ねながら杯を空けていく。
お酒がなかったら今頃自分は死んでいたんじゃないかな。
そんなふうに考えたのなら、もうワンカップ止まらない。
ぐだぐだとお酒を喰らっていい気分になった。
自ずとベンチに身体をごろん。
あまりにも心地がよろしい。
交通事故の怪我を秒で完治させていたオートリジェネもアルコールには無効。というか、自身が酔っ払っていたいから、リジェネ君も気を利かせてくれているのではなかろうか。そんな気がしないでもない。
意識すれば即座に酔い覚ましも可能なような。
この泥酔を解除するなんてとんでもない。
そして、気づけばいつの間にやら朝になっている。
ほんのちょっとだけ意識がうつらうつらとした。
そうかと思えば、驚いたことに空が明るい。
チュンチュンチチチと鳥のさえずる音が聞こえてくる。
時刻を確認すると、午前五時ちょっと前。
「おぅふ、四時間半ほどワープした件」
今まさに山々の峰から太陽が顔を覗かせつつある。
これがまたとても綺麗なこと。
心が洗われるような光景とは、こういうのを言うのだろう。
「スイスやハワイも憧れるけど、高尾山も悪くないでしょ」
ふと、そんなことを思った。
夏休みの旅行としては、ここ数年につき一番ではなかろうか。




