一億の竜と、真紅の施し
狂気と欲望が渦巻く色欲の国。その最も淀んだ空気が吹き溜まる奴隷市場の裏路地で、カノンの足はピタリと止まった。
視線の先にあるのは、不法投棄されたゴミのように路地裏に放置された小さな鉄の檻。その中で、ボロボロの布切れを纏い、泥と煤にまみれた少女がうずくまっていた。
「ちぃっ。慰み者にもならないゴミを引き取っちまった。餓死するまで放っておけ」
忌々しげに吐き捨てて立ち去ろうとした奴隷商人の背中に、凛とした冷たい声が投げかけられた。
「……待ちなさい」
商人が振り返ると、そこには薄暗い路地裏にはおよそ似つかわしくない、息を呑むほどに美しく高貴な少女が立っていた。真紅の瞳で冷ややかにおのれを見下ろすカノンと、その後ろに控えるただならぬ殺気を纏った二人の少女。
「な、なんだお前らは」
「その子を買い取るわ。いくらかしら」
カノンが顎で檻をしゃくると、商人は小馬鹿にしたように鼻で笑った。
(なんだ、世間知らずの貴族のお嬢ちゃんか。……あんな薄汚いトカゲの亜人、闇オークションにかけたところで、せいぜい三百万ゴールドにしかならねえ。だが、この身なり……ふっかけてやるか)
商人は下卑た笑みを浮かべ、わざとらしく両手を広げた。
「お目が高い! この奴隷はただの亜人じゃねえ、珍しい竜の血を引いてるんでね。そうだな……特別価格の『一千万ゴールド』で手を打ってやろう! どうせお嬢ちゃんたちには、払えない額だろうが――」
「ええ、構わないわ」
カノンは短く応えると、空間収納から無造作にひとつの重い皮袋を取り出し、泥水の上にドサリと投げ捨てた。
中からこぼれ落ちたのは、眩い光を放つ純金塊の山だった。
「ひゃっ!? こ、これは……っ!」
「一億ゴールドよ。釣りは要らないから、今すぐ私の視界から消えなさい」
あまりの桁違いの金額に、商人は目を剥き、腰を抜かした。震える手で金塊にすがりつき、顔を真っ赤にして何度も頷く。
「は、ははぁっ! 毎度ありぃぃっ!!」
商人が金塊を抱え込んで路地の奥へと逃げ去るのを見届けもせず、カノンは檻の前へと歩み寄った。
「カノン、汚れます。私が開けますから……」
セラフィが気遣うが、カノンは首を振り、素手で強固な鉄の錠前を掴むと、飴細工のように軽々と引きちぎった。
檻の扉を開け、中を覗き込む。
少女の体は極度の栄養失調で骨と皮だけになり、呼吸は浅く、今にも命の灯火が消えようとしていた。歪な二本の角も、背中の小さな翼も、痛々しいほどに色褪せている。
「……可哀想に。ひどく冷たくなっているわね」
カノンは迷うことなく、自らの白い指先を鋭い牙でわずかに噛み切った。
そして、意識のない少女のひび割れた唇に、真紅の血の雫をぽたり、と落とす。
「え……?」
それを見ていたミアが息を呑んだ。
これは、永遠の愛を誓う『眷属化』の儀式ではない。純粋に、失われゆく命を繋ぎ止めるためだけの、ほんの僅かな魔力の譲渡。
だが、カノンの血は伝説のエリクシルにも勝る極上の奇跡だ。
たった一滴の血が体内に流れ込んだ瞬間――ドクンッ!!と、少女の心臓が爆発的な鼓動を打った。
「……っ!?」
凄まじい魔力の波濤と、灼熱の熱気が少女の体から放射状に吹き荒れる。
その突風によって、少女の体を覆っていた泥と煤が一瞬にして弾け飛んだ。
そして現れたのは、誰もが息を呑むような『真の姿』だった。
汚れの下から現れたのは、夜の砂漠のように艶やかで美しい褐色の肌。痩せこけていた肉体は急速に生命力を取り戻し、力強くもしなやかな曲線美を描き出す。頭部には王冠のように気高い真紅の竜角が輝き、背中の翼は宝石のような光沢を放つ鱗に覆われていた。
「な……ば、馬鹿なッ!?」
路地の奥で金塊を数えていた奴隷商人が、その圧倒的な魔力の奔流に振り返り、悲鳴のような声を上げた。
彼がゴミだと思い込んでいた少女。それはただの亜人などではない。遥か古代に失われたはずの、最強にして最高位の種族『古竜』の直系だったのだ。
「あ、あああ……あんな美しく希少な竜族の娘……闇の最高級オークションに出せば、数億……いや、数十億ゴールドは下らない価値が……っ! 俺は、たった一億で、とんでもない至宝を手放しちまったのかぁぁっ!?」
激しい後悔と絶望に顔を歪め、己の浅ましさを呪いながら地団駄を踏む商人。金塊を抱えたまま半狂乱になって檻に戻ろうとしたが、ミアの真紅の魔力を帯びた双剣が、その鼻先を鋭く掠めた。
「……一歩でも近づいたら、あんたの首と胴体を永遠にサヨナラさせるわよ」
冷酷なミアの殺気に当てられ、商人は情けない悲鳴を上げて今度こそ路地の奥へと逃げ去っていった。
「……ん……あ……」
やがて、褐色の肌を持つ竜の少女――レヴィアが、ゆっくりと目を開いた。
常に彼女を苛み続けていた、内臓を食い破るような飢餓感と、凍えるような寒さが嘘のように消え去っている。代わりに体内を満たしているのは、今まで味わったことのないような極上の甘い魔力と、絶対的な安心感だった。
「……目が覚めたかしら」
声を見上げると、そこには月明かりを背負った真紅の瞳の少女が、優しく微笑みかけていた。
レヴィアの本能が、瞬時に理解する。
この人が、絶望の底にいた私を救い上げてくれた。底なしの飢えを満たし、温かい血を分け与えてくれた。
私の、たったひとりの『神様』だ、と。
「あ、ああ……あぁぁ……っ!」
レヴィアは涙をボロボロとこぼしながら、すがりつくようにカノンの腰に抱きついた。初めて触れる他者の温もりに、竜の少女は獣のように喉を鳴らして泣きじゃくる。
カノンは嫌がるそぶりも見せず、その美しい褐色の背中をそっと撫でた。
「もう大丈夫よ。……お腹が空いているのでしょう? 美味しいものを食べに行きましょう」
カノンのその言葉に、レヴィアは狂信的な光を帯びた瞳で、何度も何度も首を縦に振った。
だが、そのエモーショナルな空気を切り裂くように、路地裏の入り口が、毒々しいピンク色の瘴気に包み込まれた。
「ンフフフ……感動の対面中に悪いわねぇ、オヒメサマ」
ねっとりとした甘い声と共に路地を塞いだのは、異常なまでの欲望に支配され、理性を失った巨大な魔獣や、異形に成り果てた色欲の信者たちの群れだった。
空中に再び、色欲の女神のホログラムが浮かび上がる。
「さぁ、その薄汚いトカゲごと、私の可愛いペットたちの餌食になりなさいな。あなたのその誇り高い顔が、恐怖と絶望でぐちゃぐちゃに歪むのを、特等席で見物させてもらうわァ!」
凶悪な魔獣たちが、一斉に咆哮を上げてカノンたちへと襲いかかる――。




